黒と白

北 流亡

黒と白

 刃先を、竹の上で滑らせる。

 斜に当てた刃が、竹の表面を薄く切り裂き、細い屑が新聞紙の上に落ちる。それを、ささくれが無くなるまで繰り返す。


「鳴尾くん、19時までには終わらせてね」

「はい」


 後藤はそう言うと、体育教官室に入っていった。体育館の施錠時間まで残業をするのだろう。

 鳴尾翔太郎は、ひとり竹刀の手入れをしていた。支給されるとはいえ、竹刀の数は無限ではない。少しでも長く使えるよう、毎日部活終わりに一本一本を点検していた。


 翔太郎はこの時間が嫌いではなかった。竹と無心で向き合うことで、見えることは少なくない。

 翔太郎が剣道を始めたのは小学生の頃だ。YouTubeで見た、犯罪に毅然と立ち向かう警察官を見て、自分も強くありたいと思い、地元の道場に通った。

 強さとは何か、頻繁に考える。もう単純な腕力だけでは、全てを守れるわけではないということはわかっていた。剣道も、県大会で上位になるくらいには力を入れていた。勉強も同じくらい力を入れている。強さの答えはまだ見つかっていない。

 削った竹に、入念に蝋を塗る。こうすると摩擦が減り、ささくれが出来にくくなる。

 竹を組み立てて、元の形に戻す。竹刀を縦に持ったまま右腕を突き出して、仕上がりを見る。


 翔太郎は、竹刀越しに、人ならざる者の姿を見た。

 体長およそ180cm、体重およそ130kg。黒と白の毛皮に身を包み、ゆったりと、一歩ずつ距離を詰めてくる。

 翔太郎の額に冷たいものが流れた。竹刀を中段に構え、静かに対峙する。


 目の前にいたのは、哺乳綱食肉目クマ科——大熊猫パンダであった。


 何故、パンダがここにいるのか。その疑問は湧かなかった。想定外はいつだって起こり得る。

 気を、発する。パンダは、意に介さず、不用意にも思える足取りで近づいてくる。切先が触れるか、触れないか。その位置でパンダは止まった。いや、踵に力を溜めていた。気がついたときには、パンダの腕が目前にあった。からだを捻る。風。頬を掠めた。振り返る。パンダは反対側に跳んでいた。

 床が、軋む。パンダは両腕を前に構えたまま、じりじりと詰り寄ってくる。呼吸が、乱れていた。空気をいくら吸っても、肺が満たされない。食うか、食われるか。空気が張り詰めていた。翔太郎は竹刀に力を込める。

 パンダが、消えた。低い姿勢で、跳んできた。足を取られ、翔太郎は仰向けに倒される。パンダが上に乗っていた。右腕を、振り上げる。瞬間、翔太郎は躰を跳ね上がる。柄頭。パンダの鳩尾にめり込んでいた。パンダは低い呻き声を上げて、仰向けに倒れた。翔太郎はすぐに立ち上がり距離を置いた。

 体育館は静かであった。互いの、呼吸の音だけが響いていた。パンダが、徐に立ち上がる。足元が、少しふらついた。ダメージは、小さくないようだ。


 パンダはそれでも牙を剥いた。翔太郎は上段に構える。来い。叫んでいた。パンダも叫んでいた。竹刀を振り下ろす。拳を突き出す。すれ違う。

 呼吸が二つほど。両者は同時に膝をついた。互いの一撃が、互いを痛打していた。

 竹刀を地面に突き、倒れまいとした。腕が、震える。力を込めて、立ちあがろうとする。竹刀が、中ほどから折れた。翔太郎はそのまま床に突っ伏した。

 ややほどして、体育館に大きな音が響いた。パンダも、立ち上がれずに倒れていた。


 笑みが、こぼれていた。パンダは、思った以上に強大であった。翔太郎は、そこに自然の強さを感じた。そして、渡り合えた自分が誇らしかった。積み重ねてきたものが、間違いじゃないように思えた。


 呼吸が、整ってきた。翔太郎は躰を起こした。パンダが、こちらを見ていた。毒気を抜かれるような、そんな表情をしていた。パンダは右手をくいくいっと曲げ、何かを要求していた。


「ほらよ」


 翔太郎は、折れた竹刀を投げた。最初から、彼が何を要求していたかはわかっていた。パンダは、ゆっくりと竹刀の切れ端を喰み始めた。その光景は動物園で見かけたものと同様であった。


 翔太郎は壊れていない竹刀を見つめた。

 強さとは何か。膂力か、技術か、はたまた知識か。答えは今日も定まらない。道半ばで理解できるものではないのだろう。翔太郎はまだ剣道も勉学も極めていない。

 パンダは竹を貪っていた。先程までの殺意に満ち溢れたけだものと同じ動物だとはどうしても思えなかった。純粋に欲しいものだけを求め、自然の中で生きていく。翔太郎は、そこに強さの答えの一助があるような気がしていた。


 竹刀を食べ終わったパンダが、翔太郎に寄ってきた。壊れていない方の竹刀に手を伸ばそうとする。


「こら、やめろよ。こっちは食い物じゃ」


 銃声。翔太郎の視界が塞がる。温かいものが、顔を覆っていた。手で拭う。べっとりと、赤いものが付いていた。顔を上げる。そこには、頭が半分吹き飛ばされたパンダがいた。躰が、ぐらりと倒れる。


 音のした方を見る。後藤が、散弾銃を構えて立っていた。


「な、な、な、鳴尾くん。だ、大丈夫」


 たった一度、引金を引いた。それだけだった。翔太郎は、全身を巡る血が、急激に冷えていくのを感じた。

 竹刀を持つ手が震えていた。指が、離れなかった。

 翔太郎は立ち上がると、竹刀を思い切り地面に叩きつけた。破片が、床の上に散らばっていった。

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黒と白 北 流亡 @gauge71almi

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