ロケットフロムザエレベータダイブ

海青猫

第1話

 六階で、エレベータは止まる。慣性力がかかり、一瞬体重が軽くなった。

 どうやら、勤務先のオフィスがあるフロアに到着したようだ。

 時間は、九時より十分前。始業開始は九時だ余裕で間に合う。

今、エレベータに載っているのは三人。

 すなわち、俺。俺と同じく入社三年目のライバルである八角(はっかく) 祐(ゆう)大(だい)。そして狸部長だ。

 狸部長は五十代後半くらいで、頭の毛は端を残して、絶滅している。太鼓腹の部長だ。狸はあだ名で、その腹と、対応が狸なのでそういわれている。

 もっとも、セクハラ部長というのが、裏で有名だった。

 本当に俺の彼女が、この会社に在籍してないでよかったと思う。女子社員の間では、黒い噂が持ちきりで、さらに誰かと不倫したとかいう噂も聞いている。

 さらに、狸に嫌われたらこの会社では決して、出世できないというのが、暗黙の了解だ。

 八角は、大学時代に、今付き合っている彼女を取り合った仲で、そのために未だ俺を恨んでいる。

 何かと張り合ってくるのもそのためだ。

 エレベータの扉が、ゆっくりと開く。

 今だ!。そう思った瞬間、八角が俺より早く動いた。奴の指がエレベータが開くを押す。

「どうぞ、讃岐部長」

 八角が、恭しく開いた扉を手で指し示す。もちろん、讃岐は狸部長の本名だ。まあ、にたようなもんだが。

「流石は、八角君。気が利くねぇ」

 一瞬、狸部長はこちらを振り返る。

「次に主任に昇進するのは、やっぱり八角君かねぇ」

 狸部長がにやりと笑う。あたかもお前は気が利かないなぁといわんばかりだ。

 八角の奴も、こちらを向いてにやりと笑う。整髪料で凝り固まった髪が、光を照り返した。

 そうなのだ。仕事の出来で昇進がきまるなら、わかる。

 だが、狸部長はこういうエレベータの開を先に押し、自分に気を使ったとか、どうでもいいことを昇進のネタにするのだ。

 俺はどうしても主任になる必要がある。

 彼女にも、もう昇進は間違いなしといってしまっているのだ。

 いずれ、プロポーズするつもりだが、それにも差し支えがあるかもしれない。

 狸の禿げ頭を叩きたい衝動を必死で抑える。その腹に正拳突きを入れたくてしかない。もちろん。そんなことをすれば懲戒免職だ。到底できないが。

 屈辱と敗北感にまみれて、俺はエレベータの扉を二人に続いて降りることになった。

 

 さらにその日の仕事は、さんざんだった。

 顧客であるユーザに提出する企画書を、PCのパワーポイントで作ったところ。自信作だったが、八角のものが採用された。奴とはプロジェクトは違うが、今回は新規顧客に提出する企画書だったので、競作という形になったのだ。

 どう考えても、俺の方が優れているにちがいないし、課長もそういっていたのだが、狸部長の八角君の方がいいねぇという一言で、没になってしまった。

 その後、このことが気になって会議中にミスを行い、プログラムの作りを書くための設計書で間違い、課長に三度怒られた。

 八角の苦笑が、離れた席から聞こえる。耳に痛い。奴は俺とは違うプロジェクトのメンバーで席も遠い。にもかかわらず、こちらを注視しているのだ。

 八角に嘲笑される羽目になったのも、ミスを連発したのも、エレベータの開のボタンを押し損ねたからにに違いない。

 

「プログラムのここは、こうして……」

 プライベートルームでプロジェクタから、映し出されるプログラムの文章を指し示す。

 隣には、後輩の梶 さや君が座っている。

 元々この部屋は、打ち合わせのために使用するため、声は外に漏れにくい。オフィスには、こういう会議用の部屋がいくつも作られている。来賓用の応接室よりは、立派ではないが、社内用の会議を行うには問題ない。PCの画面を映すためのプロジェクタも用意されている。

 会議の他にも、プログラムとかのレビューにも使う。レビューとは、メンバーのプログラムやらの間違いを先輩や、チームリーダーが指摘することだ。

 元来は数名で行うのだが、他のメンバーが多忙のため、俺が一人で指摘しているわけだ。

 梶君は、直接、俺が指導している後輩にあたる。あの狸部長のセクハラに耐えて、まだ残っているだけ、豪胆なのだろう。

 プログラムの腕は、一年目にしては良く、将来の見込みはある。

「とりあえず、一息つこうか」

 真剣な眼差しで、プログラムのコードを映す画面を見ている彼女に声をかけた。

「はい。ありがとうございました」

「なかなか筋がいい。もっとプログラムの数をこなしていくといいよ」

「はい」

「あの、先輩」彼女が声を潜める。

「どうかしたのか?」

「ええ、あの狸部長がまたセクハラを……」

「またか……」

 狸というあだ名らしく、なかなか部長はしっぽを掴ませない。

 こちらから、セクハラを訴えても、すっとぼけられるか、悪くしたら恨みを買って、ずっと飼い殺しになりかねない。

 彼女の愚痴に相槌を打ちながら、応対する。こういうのは聞いてやるだけでもまだましになる。

 セクハラも、エレベータで先に降りた際、尻を撫でてこようとするとか、いやらしく肩をなぜられたとかだが、現場を押さえないとなんとも出来ない感じだ。ましてや、一年目の女子社員ならなおさら対応は難しいだろう。

「俺の方で何とか出来ればいいんだが、現場を押さえない限りはどうにもならない。力不足だがすまない」

「いえ、先輩のせいではないです。やっと何とかかわせるようになってきましたし」

「そうか、どうにも我慢できなくなったら言ってくれ、課長を巻き込んで、直訴するから」

「はい」

 彼女は筋がいい。辞めてもらいたくはないものだ。

「話は変わりますけど。ここのエレベータに変な噂があるのを知ってますよね?」 

「確か、深夜で黒いボタンを押したら、どこかに行くとかなんとか、さすがに都市伝説だろう」

 確か、昔、ずっと徹夜続きで頭がおかしくなって、行方不明になった社員がいて、それから派生した噂だったと思うが、ありえない話だ。その社員は結局見つかっていないが。

「実際に、黒いボタンを見たって子はいるんですよ。徹夜で外にジュースを買いに行くときだったとか、朝になったらなかったとか。

その子も、今は狸部長のセクハラで退職してますけど」

「まあ、徹夜のときにでも気を付けてみるよ。あまり、徹夜なんてしたくはないけどな」

「確かにそうですね」

 彼女が笑う。

 男女雇用機会均等法の影響で、女だから徹夜させないというのは、難しい。

 実際、彼女も徹夜の経験はある。

「そういえば、先輩の彼女さんて、銀行の方でしたっけ? 徹夜とかしたら心配されません?」

「理解は得られない場合はあるな。そもそも、なんでそんなに働かないといけないのかが、わからないらしい」

「銀行でどんなことしてるんですか?」

「広報と窓口業務をしているな。保険の販売も少しやるらしい。最近は銀行も金貸しだけでは回らないらしいな」

「あっちは、徹夜とかなさそうですからね」

「基本、定時退社だな。残業ばかりのうちとは大違いだ」

「いいですねぇ」

「梶君は彼氏と同棲だっけ?」

「ええ、学生時代から半同棲でしたけど。今年に完全に一緒に住んでます。色々大変ですよぉ」

「そうか、うちもそろそろ同棲を考えてるな。結婚を前提にしているからな」

「いいですねぇ」

「そろそろ、休憩も終わりだ。仕事にもどるか」

「はい」

 俺たちは、プロジェクタが映しているPCの画面に目をもどした。




 今日の仕事も何とか終わり、ようやく家に着くことができた。

 俺の家はタワーマンションの高層階だ。家賃の支払いは厳しいが出世すれば何も問題はない。

 最近は、高層階だけ税金を上げようという話もあがっている。勘弁してほしいものだ。

 ダイニングキッチンの窓からは、夜景が綺麗に見える。

 眼下にビルや、街並みを眺めるのは、いい気分だった。

 テーブルの前の椅子に腰かけていると、キッチンから、バターの香ばしいにおいが漂ってくる。

 今日は、彼女が夕食を作りに来てくれていた。

 手早く、テーブルに皿を並べる彼女。

 丸い皿には、パセリで彩られた鱈のムニエルが盛り付けられている。

 丸い人参が飾り付けられ、色鮮やかだった。

「さあ、どうぞ」

「ありがとう。おいしそうだ」

 しかし、適当に放り込んでいるだけの冷蔵庫の材料でよくここまでの料理が作れるものだ。

 彼女も席に着く。

「では、いただこうか」

「あまり、味には自信がないんだけど」

 彼女の髪はやや茶色かかっている。脱色しているわけでなく地毛らしい。

 やや、ウエーブのかかった髪を肩からたらしている。

 彼女は席に着くと、手を組み、上目遣いにこちらを見た。相変わらず、はっとするような美人だ。

 こんな女と付き合っているという優越感がこみあげてくる。

 心から八角にざまぁみろと言いたいくらいだ。

 ナイフで鱈を、切り分けフォークで口に運ぶ。

 やや、ニンニクが利いているのがアクセントになっていて、うまい。

「これはうまい」

「よかった」

 彼女は、口角をやや上げて微笑んだ。

 なんとなく、彼女に今日のエレベータの話をした。部下がセクハラに困っているという話もしてみる。

「貴方の会社の狸部長、相変わらず、セクハラしてるのね。よく馘にならないもんね」

「狸の奴は社長のお気に入りだし、証拠を残さないんだよ。もし訴えてもとぼけられるだろうし、逆に目を付けられる危険もある。なんとかしないといけないだが……」

「最悪ね」

「まったくだ」

 添えられたサラダも口に運ぶ。オリーブオイルの香りが広がっていく。

「このサラダもうまいな」

「そう、ありがとう」

「でも、エレベータのボタンの早押しが、昇格につながるっていうのは、考えすぎじゃないの?」

「そうだといいんだけど、あの狸だからなぁ。そんな理不尽なことを平気で言ってくる可能性は高いからな」

「それでどうなの、主任には昇進できそう?」

 彼女の目がわずかに細められた。こちらを値踏みしているような感じだ。わずかに背中に冷や汗が流れた。

「もちろん問題ないさ。八角の奴には負けない」

 もし、八角が俺を出しぬくことになったら、昇格は難しいだろう。あいつのことだから、狸に取り入り、俺を飼い殺しにするに違いない。

「私、貴方の将来性を見込んでつきあったの。それを忘れないでね」

 口は笑っているが、目は笑っていない。

 昇進に失敗したら、彼女は八角の元に去ってしまうかもしれない。そんな不安がこみあげてきた。




 それから、俺は住んでいるマンションの行き帰りでも、エレベータの開のボタンを、早く押す練習を始めた。

 単純なことだ。

 エレベータに一緒に乗っている人がいたら、開のボタンを早く押して、「どうぞ」と声をかけるだけだ。

 それは別に自然なことで、不審がられることもない。

 一緒に乗った人と、開のボタンを同時に押しそうになって、バツの悪いことがたびたびあった。

 しかし、練習の成果か、相手よりも先にボタンを押すことができるようになっていた。

 一瞬で間合いをつめ、ボタンのパネルと相手の間に入り込む。

 そこですかさず、開のボタンを押す。

相手に微笑みながら、「どうぞ」と声をかける。

 大分、タイミングが身についてきた。

これなら、八角に負けない。そんな自信があふれてきた。




 そしてその日はやってきた。

 狸部長と、八角、俺の三人だけが、朝のエレベータに乗り合わせたのだ。

 言いしれない緊張感が漂ってくる。

 俺は狸部長の禿げかかった頭をにらみ、視界の端に八角の姿を認めた。

 手の平に汗がにじむ。

 奴はゆっくりと、ボタンのパネルの近くに陣取った。

 エレベータの扉が閉まる。奴が六階のボタンを押す。

 奴とボタンパネルの間には、人ひとり分位の隙間が空いている。

 狸部長は、俺の隣だ。

 慣性力が伝わり、一瞬体重が軽くなる。エレベータが目的の階に静止した。

 奴の指が開のボタンに伸びようとした。

 その瞬間、俺は素早く、八角とパネルの間に割り込み、開のボタンを押した。

 奴が、驚愕の表情を浮かべる。

「どうぞ、讃岐部長」

 開きつつあるエレベータの扉を、手で指し示す。

「うむ」

 狸は鷹揚にうなずくと、扉をくぐる。

 八角は悔しそうな表情を浮かべていたが、おずおずとエレベータの扉をくぐった。

 言いしれない達成感が浮かぶ。これで主任昇格は間違いない。




 人事考課を受けたが、俺には主任昇格の内示はなかった。

 考課の面談は、課長とだ。現状は主任の席は不在になっているため、主任との面談はない。

 昇進の内示がないのは、何の間違いかとおもい、目の前の椅子に腰かけている課長にたずねた。課長も俺の昇進に賛成だったからだ。今回の主任昇格は八角が対象になったとの答えだった。

 目の前が真っ暗になった。

 おもわず、課長に理由を聞くと、俺は最近、ミス続きで、讃岐部長から彼は対象外にしてくれといわれたらしい。

 俺を主任にしたかった課長としては、落胆の色を浮かべている。

 開のボタンを、八角より早く押せたというのに、こんなことになろうとは……。

 課長も、心痛な面持ちで俺を見つめてきた。

 叫びたい気持ちを抑えて、俺は静かに課長に一礼すると、面談を行っていたミーティングルームから、退出した。

 いずれ、主任が八角になる。奴が俺の上司になるわけだ。暗澹たる気分だった。

 さらに、嫌なことはつづき、抱えているプロジェクトの顧客から、障害の連絡がきた。

 調べても調べてもプログラムのどこが悪いかわからず、仕事は深夜に及んだ。

 残ると言ってくれた梶君を帰らせて、俺は一人で、PCの画面をにらんでいた。

 色々と考えを巡らせて、なんとなく問題がわかりそうになってきた。もう一息だ。

 気晴らしに外に飲み物でも買いに行こうとも思い、深夜のエレベータで一階に降りる。

 一階に備え付けられている自販機でジュースを買う。

 都合よくエレベータが一階に降りてきた。

 深夜なので、辺りは薄暗い。照明の灯が薄く照り返していた。

 エレベータに乗り込み。六階のボタンをおした。

 ゆっくりと、エレベータが動き出す。慣性力で体重が増えた気分になる。

 若干の浮遊感を感じ、六階でエレベータが止まろうとする。

 思わず慣習で、開のボタンを押そうとしてしまった。

 誰もいないというのに。

 しかし、押し損ねたのか、隣のボタンをおしてしまっていた。

 真っ黒なボタンだ。ふと、前に梶君から聞いた都市伝説を思い出す。

 確かボタンを押したら、行方不明になるんだったか。

 今となったらどうでもいい気がしたが、この状況から逃れることができたら、行方不明にでもなりたいくらいだ。

 突然、開かんとしていたエレベータの扉が閉まる。

 階を表示するランプが出鱈目に点灯し、耳を聾するような轟音が響いてきた。

「な、なにがおこっているんだ?」

 声は深夜の空気に溶け消えた。

 遠くから、カウントダウンの音が聞こえる。誰が発しているかわからない。まるで機械の声のようだっだ。

「3」

「2」

「1」

「ファイア」

 強力な慣性力がかかり、俺の体は床に蛙のように押し付けられた。立っていることすらできない。

 俺の体はさらに床に押し付けられた。エレベータはどんどん急上昇を始める。

 内臓が押しつぶされそうな、そんな感覚が襲ってくる。

 エレベータがビルから飛び放ち、虚空に発射されたのを感じる。

 これは夢なのか? 現実なのか?

 どんどん、エレベータは虚空を舞い上がっていくのがわかる。辺りの空気が冷たくなっていく。

 どこまで上るかわからない。

 こんどは摩擦で空気が暑くなってきた。俺は蛙のようにへばりついて動けない。

 壁は、灼熱で赤くなる。煮えたぎるお湯の中に放り込まれたように、息ができないくらい熱い。

 壁がきしみ、ひび割れる。

 恐怖が襲ってきた。しかし、逃げ場はない。

 轟音が鼓膜を破り、エレベータは爆発した。

 意識が薄れていく。

 最後に、頭によぎったのは、別れを告げる彼女の、侮蔑が混じった表情だった。


 了



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