2月 余呉湖

 湖に突き出た桟橋の上に座りながら、八幡健二は竿を伸ばして糸を通し、仕掛けを先に取り付ける。仕掛けを取り付け終えると、濡れた新聞紙の上を這い回るアカムシを手に取り、小さな針に1つづつ掛けていく。冷え切った手では多少手間取ったが、少し吹いていた風が止む頃には、健二は全ての針の先に小さな赤い虫を付け終えた。

「お久しぶりですねえ。とは言っても先週も会いましたが」

 横に座る太った老人が話しかけてくる。

「お久しぶりです、源さん。今日の調子はどうですか」

「まあまあですよ。まだ1時間くらいですからそこまで数は釣れてませんがね」

 そう言うと老人は足元のバケツを指差す。覗き込むと中では数匹のワカサギが泳いでいた。

「こんな平日の朝から来る人なんて、私のような時間を持て余した人間だけですよ。彼らもじきに腹をすかしてやって来ます」

「暇を持て余した、ねえ。バスの運転手として日々お客さんを運んでる健二さんと違って、無職の私には耳が痛い話ですな」

「銀行を定年退職して、退職金で悠々自適の老後を送っている源さんの耳のどこが痛むんですか。寒いなら耳当てをお貸ししましょうか」

 湖面に錘を投げ入れ、手元の竿を揺らしながら健二はそう答える。

「悠々自適も何も、妻の尻に敷かれる毎日ですよ。だからこうやって朝から逃げて来てる訳です」

 ガハハ、と笑いながらそう答える老人が持つ竿の先がぴくりと動く。漣が立つ水面に小さな円が広がり、1つ2つと重なっていく。

「かかりましたよ、源さん」

 健二がそう言うとほぼ同時に、老人は竿を持ち上げる。竿から垂れた糸の先には、山の間から顔を覗かせたばかりの朝日に照らされ、キラキラと輝くワカサギがつり下がっていた。


 「もうそろそろ終わりですかね」

 針にかかったワカサギを外しながら、老人は健二にそう話しかけてきた。太陽は山から完全に顔を出して、2月の冷え切った湖畔に僅かな温もりを投げかけている。

「そうですね。そろそろ切り上げ時でしょう」

 健二は手首をくいと返して竿を上げ、水中から出てきた仕掛けを右手で手繰り寄せる。錘から垂れた水滴は、水面に幾つもの小さな円を描き、それらは重なり合って複雑な幾何学模様を描き出した。手際良く片付けを済ませた健二と老人は、バケツを持って駐車場へと歩き出した。

「源さんは今日も車ですか」

「ええ、そうです。健二さんもそうですか」

 トントンと小気味いい音を鳴らして桟橋を歩きながら、老人がそう答える。

「はい。今日はIHコンロを使いたかったので」

「天麩羅ですか、いいですな」

「源さんも食べていきますか」

「ではお言葉に甘えて。釣ったばかりのワカサギの天麩羅は格別ですから」

 駐車場に着くと、健二は片隅に止まったセレナに近付き、バックドアを開けて1口の小さなIHコンロを取り出した。

「最近の車は本当に便利ですな。テレビもあればコンセントもある」

 後部座席に置かれたコンロから伸びるプラグをコンセントに差し込む健二を見ながら、老人がそう言った。

「コンセントは本当に便利ですよ。スマホの充電もできますし」

 健二は黒色の鍋に油を注ぎながら答えた。鍋の中に、黄金色の油が満たされてゆく。鍋の深さの半分ほどで油を注ぐのを止め、コンロのつまみを回した健二は、紙皿にペットボトルの水を注ぎ、天ぷら粉を入れた。

「針が残ってないか見てもらえませんか」

 菜箸で紙皿の中身を混ぜながら、健二は振り向いた。その言葉に頷いた老人は、バケツの中に浮いたワカサギを取り出して口の中を確認し始める。2台の車がぽつんと止まるだけの駐車場に、ふいに一陣の風が吹き抜けた。


 「もういい頃合いですね」

 健二はワカサギを手に取って紙皿の中の液体に潜らせると、熱された油の中へと放り込んだ。鍋の底に沈んだワカサギは、シュワシュワという音を立てながら細かい泡と共に浮き上がってくる。同じ動きを繰り返し、油の表面が細かい泡で覆われる頃には、少し甘い良い匂いが鍋から立ち上がってきた。

「この匂いを嗅ぐと酒が飲みたくなってきますな」

「源さん、飲酒運転はやめてくださいよ。免停食らってもバスには乗せませんからね」

「それは困りますねえ。今日はやめておきましょうか」

 そんな冗談を交わしながら、健二は揚がったワカサギをキッチンペーパーを敷いた紙皿に移す。全てのワカサギを移し終えると、食卓塩を振りかけて紙皿を軽くゆすった。

「それでは、いただきましょうか」

 健二と老人はからりと揚がったワカサギの天麩羅を摘むと、口の中に放り込んだ。サクリとした音と程よい塩気、柔らかな身に繊細な風味のワカサギの天麩羅が、朝から風に吹かれて冷え切った身体の隅々まで行き渡る。

「やはり揚げたては格別ですな」

 そう言いながら老人は2つ目の天麩羅に手を伸ばす。

「そうですね。外で食べるから余計にうまい」

 健二も2つ目の天麩羅を手に取る。澄み切った冬の空の下、2人の男はサクリサクリと天麩羅を咀嚼する。気が付けば太陽は頭の上に登り、輝く余呉湖の湖面を照らしていた。

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長浜一年物語 ぱんじゃん @TheGreatPanjandrum

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