居酒屋バイトつむぐの苦悩・2

皐月あやめ

絆創膏の記憶

「ッ……ったぁい」

 指先のささくれにフォークの先が当たって、わたしは情けない声を漏らしてしまう。

 シンクに張られた、洗剤を溶かした湯から手を引き抜くと、泡まみれの左の中指から血が滲んで、白い泡が朱に染まっている。


「どしたの?つむつむ」

 隣の業務用食器洗浄機から、洗い上がったビールジョッキをジョッキクーラーに並べていた理緒りおちゃんが訊いてきた。


 わたしは水道水で手についた泡を流しながら、指先を翳して見せた。

「ささくれが……」

 水が染みて眉を顰めながらも、へらりと苦笑する。

「血出てるよ」

 棚のキッチンぺーパーを一枚取ると、理緒ちゃんがわたしに差し出しながら言ってくれた。

「救急箱に絆創膏あるよ。貼ってあげるからこっち来て」

「ごめんね」

 わたしは理緒ちゃんの後に続いて、バックヤードに向かった。


 わたしの現在の職場である欧風居酒屋Cuore~クオレ~では、洗い場はホールバイトが時間交代制で担当している。

 本洗いはもちろん業務用の大きな食器洗浄機を使用するのだが、それだけでは皿にこびりついたソースやオイルの汚れは落としきれない。

 なので、下げられた食器類は一旦、洗剤を溶かしたお湯に浸けてスポンジで擦る。

 それをやってから食器洗浄機に入れるのだ。


 肌の弱い子はゴム手袋をしてこの作業を行う。けれどわたしは、ゴム手袋の感触がどうにも気持ち悪くて素手で作業していた。

 おかげで、あっという間に指先が荒れてしまい、いくつかささくれもできてしまっていたのだった。


 ぷつりと浮かぶ赤い玉。

 小さなそれを理緒ちゃんがティッシュで押さえて、消毒液をシュッとひと吹きしてくれる。

「あの水、汚いからね。念のため」

 大袈裟だなぁ。舐めときゃ治っちゃうようなささくれなのに。

 理緒ちゃんの丁寧な気遣いが嬉しかった。


「つむつむもゴム手した方がいいかも。すごい荒れちゃってるし」

 わたしの指に絆創膏を貼ってくれる、理緒ちゃんの繊細な指先。

 それを見て、わたしはふと「自分もこんな風にあの人の指先に絆創膏を貼ったことがあったな」と、思い出したくもない過去を思い出してしまった。




 あの人は、わたしが高校卒業後に就職した会社の先輩社員で、わたしの研修期間中の指導係で、そしてわたしを無理やり押し倒した男だった。


 きっかけはなんだったんだろう。


 あの人が書類で指を切って出血したとき、たまたま持っていた絆創膏をわたしが貼ってあげたけれど。


 たったあれだけのことで、あの人はわたしに特別な感情を持ったというのだろうか。


 絆創膏を貼るわたしは、ただ「男の人の手って見かけによらずごついんだなぁ」そんな風に思っただけだったけれど。


 女子高に通っていた私は、誰かと付き合ったことがない。

 クラスメイトの中には他校の文化祭にナンパされに行く子や、隣の男子校との合コンを企画するグループもあったけど、わたしにはそんな経験は一度もなかった。


 わたしの中の「男」とは「男子中学生」の時で止まっている。

 わたしにとって身近な若い「男」はせいぜいが五歳下の弟で、どちらにしても「男の子」以上でも以下でもなかった。


 それが就職した途端、周囲は「大人の男性」だらけになった。

 隆起した肩のライン。白いワイシャツの袖から覗く、血管の浮いた浅黒い手の甲。大きくて低い笑い声の集団。

 父とも弟とも違う生き物。

 少し、怖かった。


 それでもあの人はまだ三十歳手前で、見た目も華奢で小奇麗だったから、指導係があの人で内心ホッとしたのを覚えている。


 だがそれだけだ。

 わたしがあの人に対して特別な感情を持ったことはない。

 ただの一度も。


 研修期間中に帰りが遅くなってしまった日があって、「一緒に夕飯でも」と誘われたとき、たまたま友人との先約があって断った。

 二度目は研修が明けたとき。頑張ったご褒美にと誘われたけれど、なんとか理由をつけて断った。


 男性に縁と耐性がないわたしでも、女性を食事に誘ったり、ふたりきりになったりする意味と背景に気づけないほど世間知らずじゃない。


 だから三度目に誘われたときは、断る適当な理由が思いつけなくて心底困ったものだった。

 相手は先輩社員だし、お世話になっていることも事実だし、そうそう何度も断れないとも思っていた。

 

 断り切れずに誘われるままカフェレストランに連れて行かれて、適当に注文して食べた料理の味は覚えていない。

 まだ未成年だったから、ウーロン茶ばかり飲んでいたっけ。

 店を出るまでの間、あの人は本当によくしゃべっていた。

 言葉の攻撃かと思ったほど。仕事中とは別人みたいに。

 その内容にはまったくついていけてなかったけれど、わたしは社会人になって数ケ月でいちばん身についたスキル・作り笑いで受け流していた。


 そこで帰っていればよかったのだ。

 あそこで帰っていれば、わたしは今でもあの会社の自席で、慣れない電話対応と業務に追われ続けていたのかもしれない。


「まだ時間いいよね?一時間だけ歌っていかない?俺カラオケ好きでさ」

 繁華街の外れにあるコインパーキングに程近い場所にあるカラオケボックスに、ふたり連れ立って入った。

 わたしは音痴だし早く帰ってシャワーで疲れを流したかったけれど、やはり断れなかった。


 薄暗く狭い室内にあの人の歌声だけが響く中、わたしは「意外とウマいなぁ」なんて、のんきに手拍子していたっけ。


 なにが、世間知らずじゃない、だ。


 曲が途切れて、あの人がわたしの左に腰掛ける。

 近い、と思った。

絹澤きぬさわさん」

 呼ばれてもわたしは声のする方を向いてはいけない気がして。

 ただ俯いて、石みたいに固まっていた。


 わたしの背後を何かが動いた気配がして、ソファーの硬い背もたれから、衣擦れの音が微かに聞こえた。


 そう思った時には、わたしの右肩にはあの人の手が置かれていた。


 驚いて、横隔膜の辺りがドキッと跳ねる。


 華奢なくせにごつくて長い指先に力が入ったのが伝わると、左耳のすぐ側に、あの人の顔があった。


 反射的に身体を捻るようにして顔を背けると、わたしの上半身はソファーに倒れていて、馬乗りになった、あの人が。


 その時のわたしは、どんな顔をしていただろうか。

 あの人は一体、どんな表情かおして何を思って、わたしのことを見下ろしていたのだろうか。


 わたしの顔に落ちるあの人の影が濃くなって、ギュッときつく目を閉じ、鼻がソファーに埋もれるほど首を捻る。


 全身の血が一気に引いて、ガタガタと小刻みに震え出すのが分かった。

 言葉も凍りついたわたしの耳のすぐ側まで、あの人の気配が追って来て、囁いた。


つむぐちゃん……」


 左耳の穴に、鼻息と一緒にもぞりと潜り込んできた、あの声。

 ぞわぞわと脊髄に怖気が走る。

 

 そして、仰け反るわたしの首筋に、ねちゃりと押し付けられた、あの人の唇。

 

 網膜に赤い光が稲妻を描いて、そして——




「つむつむ?」


 名前を呼ばれてハッとする。

 いけない、ぼんやりしちゃってた。


「ハイ、できたよ。見て見て」

 理緒ちゃんが黒いサインペンにキャップをしながら楽しげに言った。

 サインペン?


 見ると左指に貼られた絆創膏に、文字が書かれている。

 大きなハートで囲まれたその文字——


〝つむつむ〟


 そうだ、ここではわたしはつむつむだ。

 何とも思ってない男に押し倒され、唇を押し付けられて震えていた、絹澤紬じゃない。


 欧風居酒屋Cuore〜クオレ〜の新人バイトの、つむつむ。


 結局、あの後わたしは逃げ出した。

 だからあれ以上のことはされなかった。

 のしかかる大人の男を、どうやって振り解いたのかは覚えていないけれど。


 気づけば自宅のガレージに愛車を停めて、その車内でひとり泣いていた。

 逃げ出す時にテーブルにでもぶつけたのか、足の脛がズキズキと痛かったことは覚えている。


 それから、あの言葉。


「ここまで一緒について来たくせに」


 逃げるわたしの背中に投げつけられた言葉の衝撃を、いつか忘れられる日がくるだろうか。


 その後もあの人とは色々あって、会社に居辛くなったわたしは、社会に出て一年足らずで会社を退職した。


 酷く疲れ切っていたわたしは、半年ほど自宅で静養して、そして今ここに居る。


「さあ、つむつむはケガしちゃったからね。今日はもう上がりだね」

「なんで?これくらい何ともないよ」

 理緒ちゃんの発言に異を唱えると、わざとらしく真面目ぶった表情を作って嗜められた。

「飲食店で出血はアウトだよ。もう止まったと思っても、万が一傷口が開いてうっかりお皿にでも付着しちゃったら、それこそ大問題だよ」


 な、なるほど。言われてみればその通り。


「その日のシフトが何であれ、出血を伴うケガの場合は大小に拘らず上がっていただく。これが当店の規則です」

 人差し指をぴっと立てて、理緒ちゃんが挑発的な笑みを浮かべる。

「承知いたしました」

 わたしは素直にバイトリーダーに従った。

 笑いを堪えて、だけど。


 ふいに理緒ちゃんが、わたしの絆創膏にそっと触れた。

「また明日ね。つむつむ」

 羽のように白くて軽い指先。

「うん。また明日」

 わたしの胸の奥が、ほわっと熱を持つ。


 今のわたしには、明日がある。




 了


 

 

 


 


 

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