第5話
ぬいぐるみの効果は、なくはなかった。手に力を込めてしまう動作は、ぬいぐるみを握ることである程度解消された。けれどいつも必ずぬいぐるみを手元に置けるわけではないし、皮膚を剥いてしまう方の癖にはあまり効果がなかった。ぬいぐるみを握っていても皮膚は毟れるし、皮膚が浮いているとやはり気になってしまうからだ。
それでも、指の状態は少しだけ改善していた。それは恭一の努力によるものだ。
映画館のデート以来、無意識の時間を共有できるように、一緒に勉強をしたり、映画を見たりという時間が増えた。そして途中で私の癖が出ると、恭一が指摘してくれる。
ただそれを静かな場所でやるのは、やはり人目が気になった。だから家で会うことが増えた。
家に誘ったのは私の方からだった。当然、恭一は渋い顔をした。
「桜一人暮らしじゃなかったっけ?」
「そうだけど。毎回映画館だとお金かかるじゃない。配信の方が安いでしょ」
「そりゃそうだけどさぁ……」
「誤解されたくない人がいるならやめとくけど」
「……いないけど」
苦々しい答えは予想済みだった。気になる相手がいるのなら、そもそもこんなに私と過ごしていないだろう。当人達がどうであれ、他者からどう見えているのかくらいはわかっているはずだ。
「まぁ、桜がいいならいいけどさ」
溜息と共に吐き出された言葉に、照れや期待は一切なかった。
これも予想済みだ。だから私は、傷ついたりはしない。
家に来た恭一は、やはり平然としていた。ただ部屋の様子は、失礼にならない程度に気にして見ていたように思う。多分、何かの判断材料にしたかったのだ。そういう目をしていた。私自身に興味があってのことではない。
二人で見るにはノートパソコンの画面は小さい。スマホをテレビに繋いで、画面に映した。
テーブルに適当な菓子と飲み物を並べて、私は文鳥のぬいぐるみを握って座る。
「そいつ役に立ってる?」
「多少は。触り心地いいしね」
「そりゃ良かった」
私がスマホを操作して、映画が始まる。最初の目的は映画を見る事そのものではなかったが、私と恭一はなかなか趣味が合った。そうでなければ、二人で映画を見るという行為を続けてはこられなかっただろう。
それでもきっと、恭一は私と同じ集中度で映画を見ていない。私の癖の方を優先して気にしているからだ。
当然だ。恭一が私と一緒にいるのは、研究のためだから。仲良くするためにいるんじゃない。
家にまで来て、一緒に映画を見て、すぐ隣にいるのに。友人ですらない。それを寂しく思うのは、私のわがままなのだろう。
何度か家に来て、食事も家で食べるようになった頃。食器を洗い終えた私の手を、恭一がとってじっと見た。
「手のケアって何してる?」
「普通にハンドクリーム塗ったりとか?」
「でも今塗ってないよな」
「あー……毎回は面倒だから、気づいた時に」
「やれよ」
呆れたような顔に、私は不貞腐れて見せた。女子はいつでもハンドケアが完璧だとでも思っているのだろうか。女子だって面倒なものは面倒だ。でもさすがに洗剤を使った後はつけておくべきだったかもしれない。
「爪のケアとかは? 何か持ってる?」
「持ってはいるけど、あんま使ってない」
「……とりあえず、出せ」
言われてコスメ用品を入れてある箱を漁り、ネイルケア、ハンドケア用品をテーブルに並べてみる。全然使っていないが、そこそこあった。こういうものは買った時点で満足してしまうことが多い。
「使った形跡が……」
「だって、面倒じゃんこういうの。買った時はやる気になるんだけど、だんだんね」
「ずぼらめ」
言いながら、恭一がネイルファイルを手に取った。
「ほら、手出せ」
「え、いやいいよ」
「いいから」
恭一が私の手を取って、指先に触れる。手の下にゴミ箱を持ってきて、ガタガタになった爪に慎重にネイルファイルを当てて削っていく。
「そこまでしなくたって……」
「綺麗に手入れしといたら、崩すのもったいなくなるかもしれないだろ」
「だったら自分でやるし」
「やらないから今こうなってるんだろ」
「ぐう」
しゅ、しゅ、と爪を削る音が響く。粗い目のネイルファイルで爪の先の形を整えるとガタガタだった爪は丸くなった。それからオイルを手に取った恭一に、私は驚いた。
「それもやるの?」
「どうせやるなら全部やった方がいいだろ」
甘皮オイルを爪の根元に垂らして、馴染ませる。それからプッシャーを使って丁寧に甘皮を取る。これは失敗するとかなり痛いので、私は決して手を動かさないように注意していた。
それが終わると、またネイルファイルを手に取った。今度は細かい目のものだ。これで表面を滑らかにして、艶を出す。
最後にまたオイル。これも甘皮用とは別のもので、トリートメント効果のあるものだ。先が筆になっていて、爪の表面と、キワのところに丁寧に塗る。塗りっぱなしだとかえって蒸発してしまうので、筆で塗った後に一本ずつ丁寧に指先で塗り込む。
「ん、こんなもんか」
ぴかぴかと光る爪を、私は呆然と眺めていた。
「ほら、ちゃんと手入れすれば、それなりになるだろ?」
恭一は私が仕上がりに驚いていると思ったのか、軽く笑った。
けれど、そうではない。
――なんでこんなの、できるの。
ネイルファイルの目の粗さなんて。オイルの種類の違いなんて。
なんで知ってるの。なんで使い分けできるの。
そんなの答えはわかっている。やったことがあるからだ。手慣れるほどに。
その理由を問う資格は、私にはない。
「手の方もやっとくか」
ハンドクリームを缶から掬って、私の手に伸ばす。指の間まで、丁寧に。
その手つきは、なんだか介護に近い、と思った。
この人は、私を
研究対象だと言っていた。でもきっと、それは後付けの理由に近いのだろう。わかっていた。恭一には情がある。そしてそれは、愛情や友情ではない。
同情だ。
或いは憐憫だと言い換えてもいい。恭一は、私をまるで可哀そうな子どものように扱っている。
初めて出会った時から。恭一にとって、私は救ってやらなければならない、弱くて哀れな生き物なのだ。
だから絶対に対等にはなれない。隣にいるのに、隣に並ぶことは決してない。
恭一は、私を庇護しているつもりなのだから。
――馬鹿にしないでよ。
ぎりりと奥歯を噛みしめる。
けれど事実弱い私は、それを口にはできない。そうしたら、恭一は離れていってしまうから。
「良し、できた」
満足そうに言った恭一が、私の手を握る。
「手入れすれば綺麗になるんだから、普段からちゃんと自分でやれよ」
「ええ、めんどくさい」
「やーれーよ」
念を押すような口調に、私は笑いで返した。できない、と甘えていたら、きっとこれからも文句を言いながらやってくれるだろう。
同情でいい。下に見て、可哀そうがって、施してくれていい。あなたのちっぽけな正義感を満たすための道具にしてくれて構わない。
それでもいいから、
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