青を衝く

織田 弥

青を衝く

 桃色を着飾る木が涙を流した日に、彼は高校二年になった。昇降口に貼り出された紙に自分の名前を探す。西園寺昊太、その名前は二年四組の欄、上から十一番目の場所にあった。特に友人と同じクラスにないことを確認したのち、体育館へと彼は向かった。生憎の雨、外で生徒の騒ぐこともなく、落ち着いていた。

 体育館では、一クラス40人ほどが各学年に九つ。凡そ千人ほどが集まる。ここで新学期、新しい仲間と共に生活を始めるわけだが、昊太にとっては、特に心踊るようなことでもなく、ただ呆けているのみである。

 始業式が終わり、教室へ戻る。この日は大掃除をしてから、試験になっていた。特段成績が良いわけではない。寧ろ悪いまであるが、特に勉強する気も無かった昊太は誰よりも早く準備をして、すました顔で座っていた。そんな彼の日常に特異点が生まれたのはこの時だった。

「準備が早いな。余裕な感じか?」

後ろからクラスメイトに話しかけられる。

「安心しな。平均点は俺が下げてやる」

親指を立てて応答する。洒落た空気を纏った彼の微笑みは、笑い声と共に砕けた。「だめじゃねぇか」と彼は腰をかける。

「面白い奴だな、お前。名前なんて言うんだっけ」

「モロゾフ・スコロヴィッチ、デス」

「え!お前、日本人じゃねぇのか!?その名前だと、ヨーロッパ……クロアチアとかか?」

煌々と輝く目をこちらに向ける彼。昊太の言葉を毫も疑っていないようである。

「え、そうなの?俺モロゾフじゃねぇからわかんないや」

「モロゾフじゃないんかい!じゃあ誰だよモロゾフって!」

新喜劇ばりの転けをする彼に、つい笑みを溢す昊太。今年は昨年より、少しは楽しめそうだ。そんな感情が微笑みに釣られて沸いてくるのである。

「西園寺昊太。これが本当の名前。お前の名前は?」

「なんか少し変わってんのな、お前。まぁ良いや、俺の名前は桂旻矢。よろしくな」

手を差し伸べてくる。少し小さく、指も細い。弱々しく見えるその手を強く握る。その後まもなく、一限目の数学の試験が始まった。

 試験が終わると、教室は途端に活気にあふれた。昊太の周りでは既に幾つかの集団が形成されていた。しかしそれを歯牙にもかけずに帰り支度を済ませると、後ろ髪を引かれるようなこともなく教室を出た。

「平均点は下げられそうか?」

旻矢の声である。向けられた柔和な笑顔に、何故か昊太は首を傾げている。

「あったりめーよ。一桁点数は固いな」

「平均下げるどころか、赤点じゃねぇか!」

温和しい笑顔が、大きくな拍手と共に弾けた。

「昊太、お前このあと暇か?」

昊太はまた、首を傾げる。ここまで自分に近づいてくる人間が現れたのを不思議に思っているのであろう。

「暇なら、このあと何処か行こうぜ!これから頑張ろう!的なさ」

「用事が出来そうな気がするからパスかな」

間隙のない返事。「出来そうってなんだよ、暇ってことだろそれ」とつっこまれた後、どうしてもというので昊太はついていくことにした。

 少し山を登ったところから坂を降りて、畦道を通り抜けると、少し栄えた街がある。長い歴史を持つ商店街があり、日が暮れる頃には帰宅途中の学生や、退勤した社会人などが見られる。しかし昼間はあまり人はおらず、閑静な通りを、二人で並んで帰っているのである。

「ここ、寄ったことある?」

「いや、全然、家から少し遠いし、一緒に来る友達もいないし」

自転車を押しながら、淡々と昊太は答えた。

「そうか……。お前、人に興味無さそうだもんな」

「失礼な。ちゃんとあるよ、多分」

またも優しく、花咲む旻矢。ここで初めて、その笑顔にむず痒い違和感のあるのに気づいた。形容し難いその違和感に支配されたまま、歩き続けている。

 二人は、道なりに歩き続け、気の向いたところで買い食いをしながら、互いのことを話した。家族構成の話、昊太は親と兄妹の話を、旻矢は母子家庭だということを話した。それから趣味の話、ギターや、曲作り、動画制作というインドア派な昊太に対して、旻矢は正反対で、よく散歩をしてあてもなく彷徨しているらしかった。特にこの商店街はよく来るそうで、顔馴染みが多いこともわかった。話の途中、とある地点で旻矢の足は止まった。そこは、古臭さを拭えない肉屋であった。

「カズさーん、いる〜?」

奥の方へ声をやると、初老の男性が出てくるのである。カズさんと呼ばれた彼は、旻矢を見ると、喜色を浮かべ「よくきたなぁ」などとがっしりとした声で言うのである。

「俺がちっさい頃から、カズさんには良くしてもらってんだよ。ここのメンチカツを食って俺はここまで育ってきたんだ」

今度は、むず痒さを感じさせない無邪気な笑顔を見せた。友達を連れてきた記念に、などと、一つサービスをしてもらうと、旻矢は昊太に手渡すのだった。食べてみると、なるほどうまい。と言わんばかりの表情の昊太に、すかさず「な、うまいだろ」と自信ありげの旻矢である。

 肉屋を後にして暫く歩き、商店街の出口へ辿り着いた。丁度ここで帰路が分かれるようだった。

「じゃ、また明日な!」

自転車に乗り、帰っていく背を、暫く呆然として旻矢が見送っていたことは、当然昊太には気づくことは出来ないものであった。

 旻矢との邂逅は、昊太の世界を大きく揺るがした。これまで“友情”の言葉との関係が希薄であったものが、旻矢との間では、確かに感じられるのである。初めて出会ってから二週間も経てば、休み時間には、席替えをして離れていても、どちらかの席に、移動をする時であっても、友情の磁力とも呼べようものが働くのだった。しかしながら、その根源の“何か”を存在にこそ感じてはいるけれども、その正体は明瞭にはならない。そんな有様である。否、わからないならわからないでいい。そう思うのである。

 昊太の他人との関係は、一言で示すのならば“諦め”であった。誰に対しても裏表がなく、ありのままでいること。けれどもこれは、裏を返せば他人に合わせる気はない。そう声高に謳うものでもあった。人の性格は十人十色、そんな言葉は聞こえのいいもので、実際のところは納得のいかないものがあれば、容赦なく淘汰する。昊太のこの“諦め”は運の悪いことに、その都合の良い多様性の群れからあぶれたことに由来するものだった。

 対して旻矢はどうか。本質的なものは昊太と変わらない。どちらかといえば旻矢も、排除される側の人間であった。しかし彼は、その群れにうまく混ざることができたのだ。それを昊太は、隣でひしひしと感じていた。旻矢には意外と多くの話しかけてくる友人が居た。相手の色に合わせた布を継ぎ接ぎして被る。気がつけば昊太の全く知らない人間が出来上がる。八面玲瓏、そう言い表すのに相応しいコミュニケーションの取り方は、昊太と対照的に、人間を諦めないと言うよりかは、諦められない。と言うのが正しかった。

 彼らの性分が手助けにより、瞬く間に二人だけの世界が形成された。何人も立ち入ることのできない、否、彼らのあまりの異質さに、立ち入る気さえ起きないのである。

 桜が散り、紫陽花が元気よく笑い出す季節になった。ある日突然、旻矢は先生に呼び出されていった。戻ってくるなり、慌ただしく帰り支度をするので、昊太は嫌な予感がした。

「どうかしたのか?」

「あ、あぁ……ちょっとな」

あまりの焦りように、返事のままならない旻矢。「じゃあな」という言葉を残して去っていく。旻矢と入れ替わりでやってきたのは、旻矢と出会ってからは感じていなかった身に余るほどの退屈であった。去り際の表情、曇った薄暗い目が昊太の脳にやけに焼き付いていた。なんとか気を紛らわせようと、首をぶんぶんと振って、仕方なく机に伏して寝ているのみであった。

 旻矢の帰ったのは、三限の終わりの事で、そこから四限、昼休憩、五限、六限と過ごした。その間も常に、旻矢への心配は、心を掴んで離さないのであった。週の終わりかけの木曜日七限目、この日は校内放送での全校集会になっていた。部活動で優秀な成績をおさめた生徒の表彰、生徒指導担当教員からの注意喚起等、変わり映えのないものである。(そもそも、そこに刺激を求めるのもおかしな話であるが……)

 注意喚起等の一節、ジェンダーイシューについて触れられた。近頃、多様性の尊重や、表現の自由。それがより高度な水準でなされるようになってからというもの、屡々耳にする話題である。該当者でなければ、聞き逃してしまいかねないその話題は、嫌に昊太の耳に残った。彼には、性別が存在しなかった。もちろん、生物学上では雄という分類にカテゴライズされる。しかし昊太は、そこにある種の違和感と疑念を持ち合わせていたのである。そして性別の不在故に、恋情の矛先も定まって居ないのであった。その帰属意識のズレとも言える違和感と二分化される自我への否定は、今まで誰にも吐露されることはなかった。ここでも彼の平生の“諦め”が壁となるのである。話したところで、誰も解ってくれない。どうせ腫れ物扱いをされてしまうであろう。そんな“諦め”が、昊太の一歩を阻んでしまう。つい最近、人気バンドミュージシャンのボーカリストが、バイセクシャルであることを公表した。その勇姿に客は涙し、会場は賞賛の拍手で包まれたというニュースを昊太は過去に見たことがある。世間体で見て、褒めらるるべきことなのは承知ではあるが、昊太にはどうしても手放しで喜べないでいた。マイノリティの告白により、勇気を讃えられるということは、その性質が未だ十分に受容されていないのだと、穿った捉え方をしてしまうのである。特別扱いをして、尊重に、丁重に扱うことよりも、特別の枠ではなく、日常に組み込んで欲しいと日頃から考える彼には、この一連の流れは、美徳や道徳を盾にした茶番のようにのみ感じられた。

 結局この日は、善意の槍が突き刺さったような心地で、終日過ごすのであった。

 旻矢は一週間ほどの欠席を経て戻ってきた。関わりの薄い他のクラスメイトでも気づくほどに、その背には哀愁が漂っていた。

「……大丈夫……ではなさそうだな。何があったんだ?」

無言のまま、旻矢は昊太を見つめた。いつものようにあの笑顔を浮かべることもない。

「……親父が、死んだ……」

どんな言葉掛けも、無意味だと悟った。昊太はただ、俯くしかなかった。盗難車両の逃亡中、交差点の信号を無視して強引に渡ろうとした時、運が悪く帰宅中の父の車と衝突したのだ。

「……運び込まれた時にはもう、どうしようも無かったって……」

ドア一枚の壁はあれども、法定速度を大幅に超えぶつかればひとたまりもなかった。悲しいはずの旻矢であるのに、一縷たりとも涙の流れることはなかった。

「……そうか」

昊太はその場をそっと離れた。自席につき旻矢から目を逸らすように外を眺める。灰色の空の下で、風が木々を揺らしていた。



 それから、少しずつ二人の距離は離れていった。その乖離を止める術を、昊太は知らなかった。時間が経てば経つほど、声は掛けづらくなって行く。気持ちのはやるだけで、事態は変わらぬまま。鎖で捕縛された心地がした。旻矢といえば、父が亡くなり母と二人暮らしになった。専業主婦だった彼の母は働きに出て、彼自身もアルバイトをして、少しでも家計の助けになるよう努めていた。勿論心理的距離が空いたのもあるが、生活の変化も二人が疎遠になる一因になったのである。

 旻矢との距離が離れていくのと代わりに、昊太は今まで一線を画し続けてきた他のクラスメイトとの距離が縮まっていった。彼らの雰囲気、所謂“ノリ”は昊太にとっては解しがたくコミュニケーションを困難とした。会話はかろうじて成り立つが、常に少しのズレが生じる。そのたびに旻矢を恋しく思うのであった。

 あっという間に、昊太はマジョリティに溶け込んだ。底に溜まった澱には、意外にも誰も気づかないものであった。そう溶け込めば溶け込むほど、旻矢はますますの孤独を辿っていくばかりであった。クラスの誰とも言葉を交わすことなく、影を潜めて過ごしている。そんな彼の沈黙を、根も葉もない言い草で揶揄するものまで現れた。ある日突然、旻矢について急に話を振られた。

「お前もどうしようもなく、付き合ってやってただけだろ?」

昊太は言葉に詰まった。そして、「まぁな」と笑うので精一杯だった。しかしこの日は運が悪かった。話をしている側を人影が通り過ぎた。通り過ぎる旻矢を見て、昊太は心臓が止まったような心地がした。聞こえていないわけがない、決定的な確執となったことを悟った。

 これが契機となったのか、旻矢は学校を休むようになった。単なる心配か、罪の意識であるか、昊太の頭からは、より一層彼のことが離れなくなった。学校が終われば一目散に、商店街へと足を運び、どうにか会うことが出来ないかと、目を皿にして探すのである。こうして旻矢に会えぬまま、畦道で向日葵が見られるようになった。旻矢との再会の機会は、急にやってきた。久方ぶりに学校へ来たのだ。あれほど会おうと探し回っていたのに、いざその場面が訪れると、どうしていいかわからなかった。その日の五限目の授業は体育で、昼食後に男子が教室で着替え始める。そのタイミングで旻矢が着替えを持ち、教室を出たのを昊太は見た。ただ衝動のみで、一応バレぬように後を追った。旻矢はトイレに入っていった。着替えを持って行ったので、勿論中で着替えているのだが、昊太は中に入ることが出来ない。あの時と同じに、掛ける言葉が思いつかないでいるのである。それでも、やっとの思いで入ることができた。

「……旻矢……お前、それ……」

体の至る所に痣が、左の手首は黒味を帯びた赤、鮮明な赤で彩られていた。

「……別に。なんでもないよ」

更衣を済ますと、旻矢は足早に立ち去ろうとした。その瞬間、昊太は、自らの手が旻矢を掴んでいたのに気づいた。

「なんでもなくないだろ。どうしたんだよ、それ」

「だから、なんでもねぇって」

先ほどより語気を強く、手を引き剥がそうとする旻矢。昊太は話そうとせず、繰り返し何があったか問い続ける。数回繰り返したのち、旻矢のフラストレーションが最高潮に達したようだった。

「ほっといてくれよ!」

驚きのあまり、そっと手を離す昊太。昊太を睨む旻矢の鋭い目つきは、蛇のようであった。

「今更なんなんだよ!1番辛かった時に俺から離れてったくせに、俺との付き合いは仕方なくだったんだろ!?」

次の瞬間、昊太は強く突き飛ばされた。そこにはもう旻矢の姿はなく、五限後も会うことはなかった。

 その日の学校終わり、急な雨に襲われたので、昊太は商店街で雨を凌ぐことにした。腹を空かした彼はある場所へ向かった。旻矢と疎遠になるまで、足繁く通った精肉店。いつものように店主は店の奥の住居スペースに戻っているようである。ただ呆けて立ち尽くしていると、奥から店主が出てきた。

「おや、ひさしぶりの顔だ」

「ひさしぶりです。カズさん」

最初は呼び慣れなかった、カズさんの名前も、今では滞ることなく出てくる。そのことにさえ、旻矢との繋がりを彷彿とさせてしまうのであった。

「どうしたよ。なんか、元気がないなぁ?何かあったんか」

昊太は、その日のことを赤裸々に話した。カズさんはただ静かに、かつしっかりと頷くのみであった。そして昊太が一通り話終わると、ただ唸った。

「うーん……確かに心配だなぁ……けれど、ちゃんと何が起こってるか確認しなきゃ、何も出来ないな。一回ちゃんと話すことが出来ればいいんだが……」

カズさんも、永らく旻矢には会っておらず、二人には、現状解決策を見つけ出せずにいた。

 夕立が過ぎると、途端に辺りは暗くなり始めた。当然家に帰っても昊太は煩悶に苦しみ、一日を終えていくのであった。

 不思議なことに旻矢は、今度はほぼ毎日学校に来るようになった。然し矢張り、二人の間の溝は一層深まったようで、旻矢はあからさまに昊太を避けるようになっていた。二人の関係以外は、以前までの生活を取り戻したようだった。クラスメイトは勿論のこと、担任の先生迄もが変わったことはなく、ただ日常を浪費しているのである。

 大きく空いた穴の埋め方を探し求めるうちにも、無情にも時は流れていく。そのまま夏季休暇に入ってしまった。学校にいれば、話せずとも姿は確認できることから、少しほど安心していた昊太であるが、休みに入って仕舞えばそれも無く、ますます焦燥に駆られてしまうのであった。焦燥は、睡眠を阻む魔物となった。夏休みに入って三日経った。蝉が煩く鳴く熱帯夜、訳もなく昊太は家を飛び出した。ギターケースを大事に抱えて彷徨う。この時期になると、河原の方へ行けば、蛍が飛び交うようになっていた。あたりには街灯も無く、灯りといえば蛍の光と、頭上を群がる星のみであった。生命と宇宙の神秘に囲まれて、昊太は無心でアコースティックギターを弾いた。弦を弾く指が弱々しく動く。夏に似合わぬほどの冷たさで音を奏でるのである。

「初めて聞いたけど、なかなかうまいもんだな」

言葉と共に足音が近づいてきた。深まったはずの溝を飛び越えてきた友との遭遇に驚き、思わず音を外してしまった。

「旻矢!?ど、どうしてここに」

「……外、散歩してたら、ギター弾いてるやつがいて、近づいてみたら、昊太、お前だったんだよ」

昊太の右隣に旻矢は座った。風の吹く音と、蝉の鳴き声だけがこだましていた。

「この間は……悪かった、ちょっと前に、クラスのやつとお前が話してるの、聞いてさ」

予期せぬ旻矢からの謝罪に昊太は目を丸くした。

「いや、こっちこそ……、その話、なんだけどよ。あん時は、どうしてか上手く言葉が出なくて、なんというか……」

またもや口が止まってしまう。それでも、まっすぐに自分を見つめてくる旻矢に応えるため、昊太は懸命に言葉を繋ごうとする。

「だから……なんていうか、仕方なく、なんかじゃ無くてさ。少なくとも、お前と話してる時が、1番楽しかったよ」

息が詰まる心地がしながら、そう言い終える。旻矢は未だ昊太を見つめ続ける。しばらくして、「そうか」と一言だけ残して、頭上の星を眺めるのだった。

「それで、もし、嫌じゃなければ、何かあったんなら、俺に相談、してほしい。俺にできることなら、協力するから」

今度は溝を掘らぬようにと、勇気を出して放った言葉。旻矢はただ固まっているかのように見えたが、体を支える両手が雑草を強く握りしめているのに気づいた。

「……親父が死んでから、俺も母さんも、必死に働いてさ。次第に疲れとか、ストレスとか、親父が死んだショックもあったんだろうけど、母さん、よく酒を飲むようになってさ」

次第に震えるその声に、昊太は止めようか迷った。けれども、勇気の告白を遮ることは、彼にはできなかった。

「それで、どこで知り合ったのか、知らない男を連れ込むようにもなって。家を閉め出されたり、酒の瓶で殴られたり、散々だったよ」

自らを嘲笑う旻矢。「殴られたのが、あの痣か」そう昊太が問いかけると、旻矢は静かに頷く。

「じゃあ、あの左手首の傷は……」

「あぁ……あれは……自分で切った」

「リストカット……ていうやつか?」

昊太の問いに、今度は爽やかに笑って、頷いた。

「不思議なもんだよ。こんなの、一生やることなんてないと思ってたし、女子がやるようなもんだと思ってた。そう思ってたのに、気づいたら、止まんなかったよ」

群れからはぐれた蛍を手のひらに乗せて、笑いながら旻矢は言う。今度は、昔よく見た笑顔、むず痒さを感じる、そんな笑顔であった。そして昊太は、このむず痒さの正体が何か、わかったような気がした。そうして、すぐそこにある旻矢の手を、強く握りしめた。

「夏休みに入ってすぐ、母さんが家に帰らなくなってさ。家の鍵が開かなくって、前の扉には万札が二枚。出かけるって紙と一緒にさ」

握り締めた手から、昊太は震えを確かに感じた。

「そこで、なんか。プツって自分の中で糸が切れちゃってさ。死のうと思って、それでここにきたんだよ」

「じゃあ、ここには死にに来たってことか?」

旻矢の頬に伝う涙が、振り落とされる。心のダムは今にも決壊しそうに見えた。昊太は、必死で掛けるべき言葉を考える。何をすべきか考えるのである。

「まだ、死にたいって、思うのか?」

「……あぁ。俺はもう、疲れちまったよ」

力なく立ち上がり、川へ近づいていく旻矢。今にも飛び込んでしまいそうな雰囲気である。

「……じゃあ、最後に、俺に時間をくれないか?」

「お前に時間を?どう言うことだ?」

「明後日の昼まで、死ぬのを待ってくれよ。お前と、最後の思い出を作りたい」

決して暖かくはないが、冷め切ってもいない、そんな声をあげて旻矢は笑う。

「それはいいけど...思い出作るって……何するんだよ」

「それは……まだ決めてないけど、とりあえず時間をくれよ。あ、お前、家入れないんだよな、だったらうちに泊まればいいからさ」

手を引き、旻矢を川の方から引き離した。そのまま二人は、昊太の家へ向かった。昊太の母には、その晩と次の日、泊まると言うことを話すと、日頃家に友人を連れてこないせいか、やけに喜ばれた。旻矢は夕食を馳走になり、風呂に入ると、すぐに寝てしまった。昊太は、夜通しギターを小さくかき鳴らすのであった。

 翌朝、旻矢が目を覚ますと、彼は昨夜のことは夢では無いと再確認した。部屋を見回すと、ギターを抱えたまま眠る昊太がいた。その昊太が目を覚ますと、二人は朝食を済ませて、その日の計画を立てるのであった。二人の住む街には、大きな遊園地などは無い。商店街と家屋以外には、田畑や花畑が広がっているのみである。結局、街を隅々まで探検しようと言う、子供じみた話に落ち着いた。

 街を歩いてみると、意外にも新たな発見はあるものであった。近くに聳える山を登ると、おそらく今は使われていない社や祠があった。

「人が参拝しなくなると、こうも酷くなるもんなんだな」

「今まであったものが無くなるってのは、嫌なことに思えるな」

と荒れ果てた神社跡に神妙な気持ちになるのである。

 山を下る最中、こちらも現在は存在を忘れられているであろう展望スペースを二人は見つけた。街の奥には別の港町と海が、また別の方角には、木々の緑一色に美しく生える森の広がっているのが見えた。

「なかなかいい眺めだな」

「そうだな。二人で山に登ろうって思わなきゃ見えない景色だったな。二人だけの秘密の場所だ」

また山を下る道、彼らは多くの話をした。それは、二人を隔ていた時間によって、妨げられていた、着々と親交を深めるためのものであった。

 朝、早めに家を出たこともあり、山を下り切ったところで、時刻はちょうど正午を迎えようとしていた。昼食をとるため、近くの定食屋に二人は入った。二人の食の好みはある一点を除いてほぼ一致していた。然し彼らは、その一点で軽い喧嘩をすることになった。まさか唐揚げに檸檬をかけるかかけまいかで喧嘩になろうとは、本人たちも思っていなかった。結局は丸く収まり、二人は楽しい食事の時間を過ごすのだった。

 午後になり、二人が向かったのは、定食屋からそう遠く無い、花畑である。夏であるので、向日葵が元気よく、まっすぐ伸びて咲き誇っていた。

「……こんなに大きい花畑があるだなんてな、全く知らなかったぜ」

「あぁ……そうだな。ところで、向日葵の花言葉って何か知ってるか?」

「いや、しらねぇな。どんな花言葉なんだ?」

昊太は答えなかった。旻矢だいぶ気になったようで、不服そうな顔をする。

 一日を大いに楽しんだ後、また昊太の家に帰り、夕飯と風呂をすませた。この夜は遅くまで話し込んだ。この日のことは勿論、数少ない二人の今までの思い出の話など、なかなか盛り上がったのである。

「なぁ、旻矢。今日、楽しかったか?」

「……あぁ、すっげぇ……楽しかったよ」

その後、旻矢は眠りについた。昊太はまた、ギターを小さく弾くのであった。ぱらぱらと降り始めた通り雨の音が、やけに心地よく感じた。

 そして瞬く間にその日はやってきた。とうとう旻矢が死んでしまう日。何がなんでも、思い出を、脳に、目に、心に、焼き付けよう。それと共に別のことも考えて上の空になりがちな昊太であった。

 約束は昼までであったので、残り少ない時間、昊太がどうしても行きたい場所があるというから、そこへ足を運んだ。その時、ギターを持ってきていた昊太に、思わず旻矢は突っ込むのであった。暫くして、目的地へ辿り着くと、旻矢は唖然とした。

「どうしても行きたいっていうから、どこかと思ったら……まさかここかよ……」

虹のかかる畦道を通り抜け、二人は商店街にきた。二人にとっては、始まりの地。昊太はそこを終わりの場所にしようともしていたのである。

「覚えてるか?初めてここに来ようとした時のこと」

「……あれだ、お前が、“用事ができる気がする”とか言って断ろうとしたやつだ」

二人は懐かしんで、顔を合わせて微笑む。しばらく歩いて、カズさんのいる精肉店に着いた。

「ここが俺のどうしても来たかったところ」

「どうしてだ?」

「最後に、一緒にここのメンチカツ食いてぇなぁって思っただけだよ」

二人は声を揃えて、カズさんを呼んだ。慌てて出てくる彼に、どこかおかしく思って元気に笑う。

「久しぶりに二人揃ってるのを見たなぁ。仲直りしたみたいで何よりだ!二人とも、本当に幸せそうな顔をしているよ」

一瞬、旻矢の、はっとするのを昊太は見逃さなかった。見逃さなかったが、心のうちに留めて置いた。

 河原までは少し距離があるので、早めに商店街を出て向かった。二人の顔には、先ほどまでの笑顔はなかった。あれほど、死にたがっていた旻矢でさえもである。約束の昼頃、二人は河原に辿り着いた。

「とうとう、着いちまったな」

「……あぁ」

どこか緊張している昊太に対して、心ここに在らずのように思える返事をする旻矢。それをお構いなしに昊太は続ける。

「最後にさ、俺、これ弾くから、聴いてってよ」

「…………わかった」

入れ物から身長にギターを取り出して、昊太は大きく深呼吸をした。そしてゆっくりと演奏を始める。趣味にしてはなかなかの練度であった。聴いていく中に、聞き覚えのあるメロディ、あの日、全てを打ち明けた二日前聞いたものがあるのに旻矢は気づいた。そう自覚してから、涙を止めるにはもう、遅かった。

 「……どうだった?一応、自分で作ったりしたんだけどさ」

「…………よかったよ、本当に」

「そっか。なら、よかった。じゃあ、もう終わりにしなきゃだよな……今までありがとう。すごい短かかったけど、お前との時間は楽しかったよ、本当は名残惜しいけど、俺にお前を止める権利は無いから……」

絞り出すように昊太は言う。精一杯の強がり。そして意地悪である。

「……確かに、楽しかったよ。昨日今日と、お前と居て」

微かに啜り泣き始める旻矢。その様子を、静かに昊太は見守っていた。

「正直……まだ生きていたいって思った。だけど、生きていても俺一人じゃこの先……どうしたらいいかわかんなくて……」

一粒、また一粒と雫の垂れる間隔は狭くなっていく。

「なら、俺が力になるよ。俺だけじゃ無い、お前が泊まることを許してくれたうちの母さんだって、お前がよくお世話になったって言うカズさんだって、きっと学校の先生だって、力になってくれるはずだよ」

今度は唸り声が加わってくる。

「今はまだ、色んなことが完璧には信じられないかもしれないけど、昨日今日で作った楽しかった思い出。それをお守りにでもしてさ、少しずつ信じてくれよ」

「どうして、そこまで……」

旻矢の表情は、季節外れの大雨。その向かいの昊太の表情は曇りのない快晴であった。

「俺はお前が大好きだから。ただ、生きていて欲しいってだけだよ」

その刹那に放たれた、竜の咆哮如き慟哭は、際限のない青を衝くのであった。

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