ともした先の幸福
サトウ・レン
少女がマッチを売っていた。
たくさんあったクリスマスのロウソクはみんな、ぐんぐん空にのぼっていって、夜空にちりばめた星たちと見分けがつかなくなってしまいました。そのとき少女は一すじの流れ星を見つけました。すぅっと黄色い線をえがいています。「だれかが死ぬんだ……」と、少女は思いました。なぜなら、おばあさんが流れ星を見るといつもこう言ったからです。人が死ぬと、流れ星が落ちて命が神さまのところへ行く、と言っていました。でも、そのなつかしいおばあさんはもういません。少女を愛してくれたたった一人の人はもう死んでいないのです。――――ハンス・クリスチャン・アンデルセン「マッチ売りの少女」(大久保ゆう訳)
指のささくれを見つけた日、妻が死んだ。
あるいは、妻が死んだ日、指のささくれを見つけた、と言い換えてもいい。
このふたつの事柄はまったく関係ないことなのに、私は繋げて考えている。
今年は、私にとって、悪い意味で慌ただしい一年になった。会社をクビになり、最愛の妻が死に、自棄になって死のうとしたが、死ねなかった。死ねなかった私は、ただ漠然と街中を歩いている。年の暮れの賑やかで、どこか浮かれた世界を足早に歩くひとたちを見ながら、憎しみの感情さえ、わきあがってこないのを自覚して、あぁもう末期だな、と思う。
私だけが同じ世界の中にいて、別の世界に閉ざされているような感覚だ。
このささくれを剥けば、すこしは穏やかな心でも得られるだろうか、と馬鹿らしい考えが頭に浮かんだ時、耳馴染みのない声を聞いた。
「マッチはいりませんか?」
エプロン姿の少女がマッチを売っていた。もし私たち夫婦に娘がいたなら、きっとこのくらいの年齢だろう。赤毛の長い髪が印象的な、愛らしい少女だ。ただ、そんなことよりも私が気になったのは、小雪の舞う季節に似合わない格好だ。エプロンの下は薄着で、足は素足だった。
「こんな格好で」
私は自分の身にまとっていた外套を、少女の背に掛ける。
「おじさん……?」
少女がびっくりした表情で、私を見た。
「風邪を引くぞ。……マッチを売っているのか?」
「うん。だけどひとつも売れなくて。売れないと、お父さんに殴られちゃう」
少女が悲しげな顔を浮かべる。
「……そうか」
ろくでもない父親なのだろう。親を選べない不幸を、少女は一身に背負っているのか。だけどそんな少女がすこしだけ顔を明るくして、
「さっき、一本、擦ってみたんだ。そしたら私、ストーブの前にいて、美味しそうな料理がいっぱい並んでたの。きっとこれは特別なマッチなの。おじさん、ひとつあげるよ」と言った。
「……じゃあ、ひとつ買おうかな」
少女の言葉は信じていなかった。ただ哀れだったからだ。同情したところで、少女を助けられるとは思わなかったが、同情せずにはいられなかったのだ。
「お金はいらないよ」
「払うよ。きみはマッチを『売って』いるんだろ」
「うん。でも、おじさんからはもらえない。だって、『買えない』でしょ。お金、持ってないんだから」
「持ってるさ」
「ううん。いい。気持ちだけもらう」
少女が箱からマッチを一本取り出し、私の代わりに、火をともしてくれた。
ふいに私の前に、映像が広がる。
そこには妻がいて、私がいて、テーブルのうえには、妻の自慢の手料理が彩られている。私の仕事に使う愛用の鞄が、私の座る隣の椅子に置いてある。ということは、この映像の中の私は、まだ仕事をクビになっていないだろう。これから新しい職を求めながらも、どこからも相手にされず、優しかった妻の瞳に蔑みが混じることなど、かすかにさえ想像もしていなかった頃の、私がいる。
火は消え、映像も消える。
「おじさん、泣いてるの?」
少女に言われてはじめて、私は泣いていることに気付いた。
「あぁ泣いているみたいだ。……妻がいた頃の、まだ幸せだった頃の記憶だ」
職を失ってから、何もかもが嫌になり、無気力になった私を、最初の頃は妻も叱咤してくれた。激励もしてくれた。だけど一度沈んでしまった私の心が浮き上がることはなく、喧嘩も増え、やがて汚物を見るような目を向けてくるようになった。妻の心が新しい男に傾いていることも知っていた。
ささくれ立った心が、妻を殺そうと決めたのは、指のささくれを見つけた日だった。
「おじさん?」
「大切なひとは、もういなくなってしまった。自らの手で、やり直せたかもしれない未来を消してしまったんだ」
私は妻を殺した。そして自らも、死のう、と思った。だけど死ねなかった。
「そうなんだ」
「きみはこれからどうするんだい?」
話を変えたくて、私は聞いた。
「家には帰れない。きっとお父さんに殴られて、次は殺されるかもしれない。最近のお父さんだったら、きっとそうする。だから死ぬまで、ここでマッチを売ってようかな、って」
「私が殺してあげようか。きみのお父さんを」
「無理だよ」
「私の心はもう、ひとを殺すことにためらいがないよ」
「だとしても、おじさんには無理だよ」
「そうか……じゃあ、おじさんと一緒に逃げるか、どこかに幸せな世界があるかもしれない」
私の言葉に、少女が頷く。少女の覚悟を決めた表情を見た瞬間、私は思い出してしまった。私の正体について。
そうだ。死のうとして死ねなかった、のではない。
私はもう死んでいる。
こんなおさない少女を、私たちの側に連れて行くわけにはいかない。
「おじさん?」
「いまの言葉は忘れてくれ。きみはまだ生きろ。絶対に死ぬな」
勝手なことを言っている自覚はあった。少女は私の言葉に、何も答えてはくれなかった。
私は少女に背を向けて、歩き出した。
夜の闇に、流れていく星を見つけた。
ともした先の幸福 サトウ・レン @ryose
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