ささくれ地蔵

ゆかり

横恋慕

今の若い人にはあまり馴染みのない言葉だと思うんですが、『横恋慕』って、ご存じですか? ね、あまり聞かないでしょう? 『不倫』ともまたちょっと違うんですけどね。ま、簡単に言いますと既にお付き合いしてる二人や結婚してる二人のうちのどちらかを、横から好きになってしまう事をいうんですね。

 で、好きになった後どうするか。これはまた人それぞれでして、ただじっと想いを胸に秘める人もあれば、構うもんかと行動に出る者もいる。

 既婚者の場合、横恋慕の相手と良い仲になってしまいますと、これはつまり不倫という事になる訳ですな。


 さて、そんな横恋慕を今まさに行動に移そうとしている者が居りました。

 その男、熊五郎には同じ長屋に住む八兵衛という幼馴染がおりまして、これが最近、女房をめとったんですが、それがまた所作の美しい女で、熊五郎は一目惚れしてしまうんですな。幼馴染の嫁に横恋慕してしまうとは情けない、と熊五郎も最初はいろいろと葛藤しておったのですが、募る恋心にのみ込まれ、ついにはある恐ろしい計画を実行に移す決心をいたします。


「なあ、八兵衛、おめえさん指にささくれが出来て困るって言ってただろう?」

「おお、そうなんだよ。これが一つ治ったと思ったらまたすぐ次が出来んだよ。こーんなちょびっと爪が横に飛び出てるだけで痛てえんだ、これが。こないだなんか女房の手まで引っ掛けちまって。なあ、ほれ、ここ、傷になっちまって、すまねぇなあ」

 八兵衛は熊五郎の気も知らず女房の手を握って見せるもんだから、熊五郎の邪な企みは更に燃え上がる訳です。

「それなんだけどよ、ささくれはどうやら誰かの呪いだって話だ。八兵衛、お前、誰かに恨みでも買った覚えはねえか?」

「へえ。呪い・・・・。恨まれる覚えなんざねえけどなあ」

「けど、現にそうして次から次にささくれが出来るって事ぁ尋常じゃあねえ。ここはひとつ、ささくれ峠のささくれ地蔵にお参りした方が良いんじゃないか?」

「ささくれ地蔵? そんなもんがあるのかい? ささくれ峠は知ってるが地蔵は初めて聞いたなあ」

「あるんだよ。ささくれ峠の中ほどあたりに。そのお地蔵さんに笹だんこをお供えすれば、ささくれの呪いは綺麗さっぱり解けるってぇ話だ」

「ほう、それは有難てぇ。ささくれ峠なら朝早くに出れば、あくる日には戻れるし、ひとつお参りに行ってくるか」

 この八兵衛と言う男、素直で人の話を信じやすい。ましてや幼馴染の熊五郎の話ともなれば何一つ疑いもしない。そんな八兵衛に多少は心の痛む熊五郎だが恋心というのは魔物のようなもので、そうやすやすとは逆らえない。


 結局、八兵衛は、そういう事なら早い方が良い、場所が判りづらいから俺も付き合うという熊五郎の言うまま、翌朝早くに出かけることにいたしました。


 次の日の朝、早くから笹だんごをこさえた女房に

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」と手を振って送り出され八兵衛と熊五郎はささくれ地蔵を目指します。


 熊五郎はお参りにかこつけて、峠の何処かで八兵衛を亡き者にするつもりでおりました。クマザサに覆われた峠は滅多に人が通らない。更にその登山道を少しでも外れれば人に見られる事はない。

 道中、足を滑らせて転んで頭を打ち付けて死んだとでも言って、悲しむ八兵衛の女房を慰め、悲しむ心の隙間に入りこむ算段をしておりました。今で言う計画的犯行ですな。

 もちろん、その峠にささくれ地蔵などありません。


 道中、他愛のない話の中にちょいちょい女房との惚気を挟み込む八兵衛に、熊五郎はいよいよ殺意を募らせます。まあ、実際は些細な話も熊五郎には惚気に聞こえてしまうだけなんですが。

 峠の麓あたりで、

「そろそろ昼飯にするか」

 そう言いながら熊五郎はあたりを見回し、人気ひとけのないのを確かめると頃合いの石を拾って、ごそごそと昼飯を取り出している八兵衛の背後にまわり、石を持った手を振り上げる。

 八兵衛の頭めがけて振り下ろそうとしたまさにその時、八兵衛がくるりと振り返って

「これ、どっちが握り飯でどっちが笹だんごだあ?」

 慌てる熊五郎。手に持った石を力いっぱい遠くの木めがけて投げた。

「熊さん?」

「危ないところだった。カラスが笹だんごを狙ってたぜ」

「カラスが? 油断も隙もないなあ。しかしさすが熊さん、おかげで笹だんごも昼飯も無事だ」

 そうして仲良く握り飯を食い、再び歩きだすが熊五郎は気もそぞろ。早いとこ殺っちまわねえと帰る頃には日が暮れる。この峠は昼間は良いが夜になると獣が出る。 日暮れまでには麓に降りねばならぬ。そんな事ばかり思いめぐらし、手ごろな崖や石、岩場を捜しております。

「熊さん、ささくれ地蔵まであとどれくらいだい? 日暮れまでに麓に戻るにゃ、そろそろ引き返さねえと」

「おかしいなあ。この辺なんだがなあ。八兵衛、お前そっちを捜してみてくれ。俺はこっちを捜してみる」

 そうして八兵衛の隙を狙って、手ごろな石を拾い、こっそり背後から近づいて腕を振り上げるつもりが、何かに、けっ躓いて斜面を転がり落ちる。

「うわぁぁぁぁぁ」

 驚いて声の方を見る八兵衛。その目に映ったのはクマザサに覆われたお地蔵さんだ。熊五郎はどうやらそのお地蔵さんに躓いたらしい。

 お地蔵さんは見つけたが、それより今は熊五郎が大変だ。八兵衛は慌てて、熊五郎の落ちた斜面を覗き込む。熊五郎は斜面の中途で木の根に引っかかった形で倒れている。八兵衛はそろりそろりと気を付けながら斜面を降りて熊五郎のところまで辿り着いた。

「熊さん、大丈夫かい?」

「大丈夫じゃねえな。足を挫いちまった」

「さっき、上にお地蔵さんがあったから、ちょっと参ってくるよ。それから峠を降りよう」

「お地蔵さんがあったのか?」

「あった。クマザサに埋もれてたから見えなかったんだな」

 結局、熊五郎の邪な計画は失敗に終わったが、どう言う訳か熊五郎は安堵していた。

 よくよく考えれば八兵衛とはガキのころから一緒に遊びまわり、大人になってからも何かと助け、助けられてきた。

 その女房に横恋慕して、あろうことか幼馴染の命を奪おうとしていたとは、自分はなんと恐ろしいものになり果てようとしていたのだろうと、今になって慄いた。


 その後、熊五郎は八兵衛の肩を借り、何とか日が暮れきる前に麓まで辿り着いた。

「熊さん、見てくれ。ささくれが綺麗さっぱり治っちまった」

 ささくれ地蔵など熊五郎のだったというのに、本当にささくれが治ったとは、そう考えながら熊五郎はハッとした。

(俺は心のささくれが治ったんだ)


 後に判った事ですが、あのお地蔵さんは本当に『ささくれ地蔵』と呼ばれていたそうです。いつの間にかクマザサに埋もれ忘れられていましたが、八兵衛がまわりのクマザサを刈ってきたこともありまして、再び『ささくれ地蔵』として皆に愛されるようになったそうでございます。

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ささくれ地蔵 ゆかり @Biwanohotori

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