本編

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「実はさ、この前マンホールで祈ってみたんだけど、めっちゃすごくて!」

「え、まじで! どうだった?」


 ゼミ室でそんな興奮した声が横から聞こえてくる。昼も過ぎて、特に講義もない大学生の溜まり場になりがちなゼミ室ではそんな話題が最近持ちきりだ。あまり知らないが、最近噂となっている"マンホールの巡礼者"についてだろうか。

 声の主の方をチラッと見る。確か、春川さんだったか。いや、流川さんだったっけ。同じゼミに所属しているけど、名前をよく覚えていない。きっとあちらも私の名前など覚えていないとは思うけれど。


「これは体験してもらわないとうまく伝わらないし…。このあとみんなでやりに行かない?」

「おー、いいね。行く行く。今日もう講義もなくて暇だし」


 だよねー、と囁き合う彼女らはゼミ室から出ていくが、もちろん私に声をかけることなどない。ゼミ配属が決まってからもう2ヶ月。私は彼女達と話したことさえない。私は彼女達と鉢合わせないように、数分と待ってからゼミ室を後にするのが日課となっていた。


 電車に揺られながら、変わらない帰路につく。大学に入って早3年。ドラマで見たような大学生活などなく、かといって何か不満もあるわけでもない毎日がただただ過ぎていく。マンホールの巡礼者? "マンホール"に祈ると人生が変わる? そんな噂に踊らされている、お気楽な彼女らを羨ましい、と感じる感情さえ湧かない。むしろ、今の私にとってはどこかマンホールのように重たい蓋を閉めたような閉塞感だけが、私の胸の中に閉じ込められていた。


 別に都市伝説とか好きなわけではない。だからといって、決して今日聞いた話が気になったとかでは決してない。それでも塞ぎ込んだ何か、その蓋を開けたい、変化が欲しい、という期待を込めてしまったのか。大学から帰り、自宅のアパートに向かう道で見かけたマンホールの上で私は立ち止まってしまった。

 スマホで「マンホールの巡礼者」の噂を検索する。まず、マンホールの上での祈り方には所作が決まっているらしい。

 マンホールの上に立ち、周りの音を遮断するように耳を塞ぐ。耳栓やイヤホンがある場合は尚良し、とのことだった。私は音楽を聴いていたイヤホンをつけたまま、マンホールの上に立つ。

 見ていたサイトのページをスクロールすると、次にそっと目を閉じ、数秒間瞼の裏の暗闇に目をむける、とあった。暗闇と光の輪郭のぼんやりしたその先をずっと見つめ、耳を澄ませると、きっとわかる、とのことだ。

 あたりを見渡す。まだ夕方前ということもあり、ほぼ人通りはないものの、先の道では数人の往来があった。目が気にならないわけではないが、一瞬試す分にはきっと人目を惹かないだろう。恥ずかしくなったらすぐ目を開ければいい。

 私はゆっくりと目を閉じ、耳を澄ました。目の前は瞼の裏の暗闇と、夕焼け近くの微妙な明るさがうっすらと透ける視界のみ。そんな世界で、私は何かいつもと違ったものが私の身に起こらないかなと、ほのかな期待込め、じっと祈りを込めた。

 耳を澄ませ続ける。音のならないイヤホンを込めた耳の中はひたすらに沈黙を続けている。外の環境音がうっすらこもって聞こえてくる。近くの通りを車が通った振動と音が一瞬伝わってきて、ビクッと体を動かしてしまった。なんだか、人の歩く音も近くに聞こえてきたような。マンホールの上で何やってんだ?と思われているのかもしれない。恥ずかしさから、もう目を開蹴てしまおうかと思った瞬間。

 耳の中でジリジリと不思議なノイズがなんだか聞こえてきた。なんだか規則的に聞こえる音。イヤホンの接触不良かのようなそのノイズは、次第に大きくなり、私の意識はその音に集中せざるを得なくなっていった。

 気づくとこもって聞こえていた環境音が聞こえていないことに気づく。そして目の前、正確には瞼の裏にうっすらと何かの残像のような後が見えることに気づいた。

 真っ暗なはずの空間に、透けた光で影のように輪郭のはっきりしないその形に、なぜだか私には見えている景色がなんなのかわかった。あの行き慣れたあの場所。ゼミ室だ。次第に数人話している声が耳に入ってくる。


「実はさ、この前マンホールで祈ってみたんだけど、めっちゃすごくて!」

「え、まじで! どうだった?」


 どこかで聴いた声。言葉。今日大学で聞こえてきた言葉だ。でもなぜだろうか。声質が全然違う。でも聞いたことのある声質。そう、もっと馴染みのある声。でも、なぜかその声をどこで聞いたのかうまくはっきりしない。


「この後、みんなでマンホールに祈りに行くんだけど、小島さんも行かない?」


 ぼんやりとした光の中、私の名を呼ぶ声が聞こえてきた。あれ、こんなことは聞かれてはいない。そんなことはありえない。あの子達が私に声をかけることなんて。

 そんなことを思っていると、次第に視界の光がグググとまた変化して動いた。うっすらと人型の影が映ったような。


「うん、私も行く」


 さっきまでの声と聞こえ方の違う声が聞こえる。聞こえる、というよりも、まるで自分の胸、いやもっと言えばお腹のずっとの奥から下、足元。そうマンホール。その下から声が迫り、私を通過して耳まで上がって聞こえてきたような。

 それに何より、今の声。これは確実に。私の声だった。でも私が発するとは思えない優しい響き。私の発しないはずの私の声が、じっとりと甘い響きに包まれ、胸の中をサワサワと迫り上がってきていた。まるで耳が口になったかのように、その声が耳から漏れ出ていくような感覚が。

 私は気持ち悪さを覚え、咄嗟に目を開けた。同時に駆け出し、その場を離れる。

 落ち着き、周りを見渡すと、さっきまでなぜか見えていたゼミ室ではなく、元の居たアパート近くの見慣れた景色に戻っていた。それに、たまたま通りかかったサラリーマンみたいな人が怪訝そうにこっちを見ていた。私は恥ずかしくなり、そのまま走って自宅のアパートに向かって身を隠すように帰った。


 アパートに帰ってから、あの聞こえた声がずっと耳を離れなかった。一人暮らしの家では特に音もなく、声が耳の中に残像を残し続ける。

 あの光景はなんだったのだろうか。私の願望が見せた景色なのか。話しかけられたかった? むしろそんな些細なことが無意識の願いだったのなら笑えてくる。

 それにあの声。あれは私の声だった。でもなんだか私と思えないような不思議な声。気持ち悪さを、それにどこか耳をくすぐるような優しさ。

 でもそんなことを考え、呆れとも恐怖ともつかないような感覚に襲われながら、不思議と私はずっとどこか興奮している自分がいるのを感じていた。空腹を感じないほど、ずっとあの声の残像が私の心を満たしているのを感じる。何か、塞ぎ込んだ私の日常に何か風穴を開けてくれるような、そんな期待がなぜか私の胸をコンコンと叩き続けている。

 

 だからだろうか、深夜にもう一度、あのマンホールに来てしまったのはその影響だろうか。時間は夜の11時過ぎ。車も人のこの時間はほぼ通らない。この時間なら一眼も気にせずに、存分に祈ることができる。

 マンホールの上に乗り、夕方の時のように目と耳を塞ぎ、あの世界へと耳を澄ます。次第に目の裏にぼんやりと光が見えてきた。ふわふわとした光が目の裏に焼き付く。

 ゼミ室ではない。徐々に輪郭を帯びていく光景を見るとそこは大学前の道路脇のように感じられら。うっすら大学前の喧騒の音も聞こえてくる。明るさと音から昼休みの時だろうか。


「どう、小島さん?」

「すごくない? ねえ、どんなのが見えた」


 前方から声が聞こえた。春川さん達の声だ。夕方と同じく、彼女たちの声とは思えないけれど、どこか聞き慣れた声がするすると耳の中を滑り響く。

 深夜だというのに、瞼の裏のぼんやりとした光は消えず、絶えずホワホワと光っている。外は肌寒かったはずなのに、どこか暖かさも感じる。


「うん、マジですごい。すごい」


 あの私の声が迫り上がってくる。私とは思えない口調に声のトーン。どこか楽しげなその声。なぜだかその声を聞いていると、どこか胸の辺りのわだかまりがなくなったような開放感を覚える。


 だよねー!と春川さん達の声が楽しげに響く。羨ましい。同時に、そこに自分が透明人間のように立っているような、重なり合うような感覚がして、どんどんと楽しげな声が自分に近づいてくるようでもあった。まるでその景色が本当にあったかのように。そう、楽しい。いや楽しかったなぁ。


 感情に追いつくように、自分の頬が自然と迫り上がっているのを感じる。なぜか今笑っている? ふふふ。なんで。そんなつもりはなかったのに。なんだろうか、この感覚。そう、私の閉塞したあの生活とは違う、些細な幸せを私は今しっかり噛み締めている。そう、きっと、きっと、きっと、


「ねえ、聞こえてる?」


 そう私に呼びかける声が突然耳元で囁かれた。でもこれは春川さん達の声などではなく。私の、私の声だ。私の内側を、内臓をずるっと滑り透けて通ってきた声が、私に呼びかけている。そう、これを聞いている、私に。


「ねえ、こっちがいい? いいよ。出してあげる」


 私は咄嗟にイヤホンを耳から抜き、目の前に放り投げた。電信柱にあたり、落ちて転がる軽い音だけが響く。静まり返る空間。いつの間に耳元で囁くあの声が消えていた。

 さっきまで私の心をとらえていた音が消え、私は目を開け周りを見た。暗闇に電灯だけがチラチラと照らされている。来た時と同じく夜。どれくらい時間が経ったかもわからない。何も音が聞こえない。でも、その静けさが今私の心を落ち着かせてくれる。

 早く、ここから離れよう。もう二度と、マンホールの上で祈ったりなんかしない。そんなこと思い、離れようとした。片足を、投げ出した瞬間だった。

 耳の奥のほうから空気がするすると抜けていくような妙な感覚がする。


「そう、どいて。もう少し。もう少し」


 今まで以上にはっきりとした声が耳の奥から抜けて、聞こえた。私は咄嗟にその足を戻し、尻餅をつくようにへたり込んだ。

 耳の中に手を突っ込むがそこにもうイヤホンはない。さっき一瞬感じた開放感とは逆に、耳の奥の方にまるで一円玉が詰まったような圧迫感がなぜか残っている。声はその奥の方からジリジリと響くように聞こえてくる。

 耳に蓋を閉めたかのようなその妙な圧迫感、正体不明のそれを震わすような奇妙な声が私の脳に直接響く。

 

「ねえ、なんで。通して。そこをどいて。ここから、出して。ねえ」


 私の声をした私じゃない声が、体の奥から反響し、耳のすぐ奥で囁いていた。

 私はその声をかき消すように喉の奥から声を張って叫んだ。つもりだった。その声はくぐもってうまく聞こえることはなかった。次第に周囲の音が消えていく。彼女の声も聞こえない。静けさが耳を支配する。

 そして、うっすらと感じる、耳の圧迫感を引っ掻くような感触だけが、音の名残を残していった。まるで耳を閉じた蓋の裏側を静かに静かに引っ掻くような。キリキリとした痒み。そして、次にはコツコツと叩く音が。耳の奥から。響く。



 出して。ねえ。


 <了>

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マンホールに祈る 蒼井どんぐり @kiyossy

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