「月が綺麗ですね」なんて言ってない
まなつ
(お題:澪つくし、ペット、アップデート)
わびぬれば 今はた同じ 難波(なには)なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王 『後撰集』(巻13・恋5・960)
「こうして思い悩んでいる今となっては同じこと。難波の海に差してある澪つくしではないが、この身を滅ぼしてもあなたに逢いたい」――情熱的な恋の歌に聞こえるけれど、これは不倫相手に贈った歌だ。高校生の頃は「うげっ」と思ったけど、今ならその気持ちが少しわかる気がする。
近所に住んでいた幼馴染が大阪の大学へ進学することになった。彼の3歳年下の私は当時15歳。別れを惜しんで盛大に泣いた。そんな私のために、彼が作ってくれたのが電子ペットだ。それは金属のボディーで、犬を模したものだった。可愛くはないが、私を慰める大切な相棒になった。
彼は大学を卒業後に美人の奥さんと結婚した。その時も、私は泣いた。周囲は感動の涙だと思ってたみたいだけど、私にとっては失恋の涙だった。告白もしないうちに失恋するなんて。玉砕しないままの恋はくすぶったまま、今もじくじくと心の奥底で爆発するのを待っている。
そうして思い出したのが元良親王の歌だった。いつからか、電子ペットの名前は「ミオツクシ」になった。今思えば、なんと怨念のこもった名だと思う。
「それにしても、変な名前だよな『ミオツクシ』って」
「別にいいでしょ。好きな名前つければいいっていったの、そっちだし」
「僕は『ポチ』とか『ラッキー』とかそんなのを想像してた」
彼がミオツクシのボディを開いて、いろいろな工具でいじっているのを後ろから覗き込む。私の髪が触れてしまったのか、彼が居心地悪そうに身を縮ませて、話題を振ってきた。
「なんか、和歌から取ったんだっけ」
最初は興味なさそうにしてたくせに、彼はいつからか名前の由来を気にしだした。それも私が、不調が多くなったミオツクシのメンテナンスのためだって口実で、大阪に通うようになってからだったと思う。どういう風の吹き回しなんだか。
「そう。元良親王ってひとの歌だよ。『身を尽くす』の掛詞が『澪つくし』っていうのが、なんか気に入ってる」
澪つくしっていうのは、海に建てられた船用の標識のこと。彼の住んでる大阪市の市章と同じ形。私じゃない女の人と結婚した彼のもとに、バイトで稼いだお金で新幹線に乗ってせっせと通っている私。澪つくしみたいに動かない彼。私はそこに引き寄せられる船みたい。
「調べたけど、それ不倫の歌だろ」
「別にいいじゃない」
「…………そっか」
確かにこの歌は、元良親王が宇多天皇の愛妃、京極御息所に贈ったもの。浮気がばれて、会えなくなってから送ったラブレターだ。でも私にとって重要だったのは、「身を滅ぼしてもあなたに会いたい」って強い思いに共感したから。電子ペットのメンテナンスなんて口実で、せっせと彼の元に通う私の想いを、彼に自分の気持ちに気づいてもらうための道標を、なんとなく、澪つくしに重ねてしまった。
彼の奥さんは、少しそっけないけどいい人だと思う。彼の幼馴染である私を、妹みたいに可愛がってくれる。ミオツクシのアップデートをするためだって言って家に上がり込んでも、彼と二人きりになっても、全然文句を言わない。彼女は今日はお友達と飲み会だって。私の相手ができなくてごめんねって出て行ってしまって、むしろ、彼は愛されてるのかな、なんて、余計な心配をしてしまうくらい。
彼と奥さんの住む高級マンションの最上階。カーテンを閉めずとも外から誰かに覗かれることもない。
「それにしても、この部屋から見る月は綺麗だねぇ」
「……月が綺麗ですね」
「えっ? どうしたの急に」
「夏目漱石が言ったんだろう『月が綺麗ですね』」
「え? あ、うん、そういうの、あるね」
突然彼がらしくないことを言うから、戸惑ってしまった。だって『月が綺麗ですね』って言葉は、すなわちI LOVE YOU.ってこと。英語教師だった漱石が、学生に「I love you」を訳させたときに、日本人らしく情緒ある翻訳にせよって出した回答例だ。なんだろう、どきどきしてきた。どうして急に、そんなこと言うんだろう。
私たちは、しばし見つめ合う。この瞬間は、学生時代に戻ったみたいだった。彼の奥さんの存在も、全部忘れて。はじめての恋に夢中になる、あの甘美なしびれを感じたかのように思えた。ぴくり、と彼の右手が動いた気がした。
『アップデート ガ カンリョウシマシタ』
ぷつり。無機質な機械音が、私たちの静寂を破る。
「……でもそれ、本当は漱石が言ったんじゃないって説もある」
ふっと、肩の力を抜いた彼がつぶやいた。その途端、魔法が解けて、私たちはただの幼馴染に戻った。
「なんで知ってるの?」
「調べたんだ。ネットで」
せっかくどきどきしたのに、台無しだ。そう、I love youを「月が綺麗ですね」って訳すっていうのは、後世の人の勝手な解釈。本人が言ったって証拠は残ってない。だけどとっても素敵な誤用だから、嘘だってなんだってよくて、使う人はたくさんいる。まぁ、鈍感な彼とは、そんな情緒的な話をしたって意味ないけど。
「どうしてそんなこと調べたの」
「奥さんにプロポーズするときに、気の利いた言葉がないかと思って」
「ふふ。そういうロマンチックなとこ、あったんだ」
結局、私たちは身を滅ぼすようなことにはならなかった。
アップデートされたミオツクシは、それから10年故障することもなく、電子ペットとしての天寿をまっとうした。
「月が綺麗ですね」なんて言ってない まなつ @ma72
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