終:龍になれなかった鯉
天正三年四月。武田家の家督を継いだ武田
設楽原の戦いに勝利を収めた後も徳川勢の下で氏真も戦いに従軍していた。因みに、同年七月十九日付の文書で“
天正四年〈一五七六年〉三月には遠江・牧野(旧名:
家康の下で目覚ましい活躍を遂げ、駿河を自力で取り戻す。その最後の機会を失った氏真に、怒りも落胆も感じなかった。嘗ての家臣だった家康から実質的な戦力外を通告されても、ささくれ立つ事も無く素直に受け入れられた。半ば諦めきれない想いを家康が
解任された後も徳川家の元に居た模様で、それを示す史料も残されている。天正十年〈一五八二年〉には今川家を滅亡に追い込んだ仇敵・武田家が滅亡、家康は駿河一国を信長から与えられているが、『続武家閑談』にこういう記述がある。
『家康は「氏真に駿河を与えてはどうか」と提案するも、信長は「役にも立たない奴に与えられようか、不要な人を生かしておくより腹を切らせた方がいい」と素っ気なく返したとされる。これを聞いた氏真は危害が及ぶのを恐れて身を隠している内に、信長が非業の死を遂げた』
永禄十二年の折に『駿河は氏真へ返還する』旨の約束を交わしているが、効力は消滅しているに等しいのでこの逸話の信憑性はかなり低いと思う。ただ、“旧主・氏真に国を返還した事で徳川家に災いを招く恐れがある、氏真を反徳川の神輿に担ぎ上げるだけの価値がある”と信長が捉えたと
天正十一年〈一五八三年〉七月に浜松へ下向してきた
慶長十九年〈一六一四年〉十二月二十八日、氏真死去。享年七十七。氏真の遺領は孫の
時代の激流を昇り鯉から龍になった戦国武将は多くも、戦国乱世を生き抜いた家は数える程度しかない。それを思えば、家を潰しながらも家名を後世まで残した氏真こそ立派なのではないか。
瀑布に呑まれた鯉 佐倉伸哉 @fourrami
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