終:龍になれなかった鯉

 天正三年四月。武田家の家督を継いだ武田勝頼かつよりは、約一万五千の兵を率いて甲斐から出陣。信濃から奥三河へ侵攻した。侵攻の予兆を察知した家康は織田家へ援軍を要請、信長も雌雄を決すべく大軍を率いて三河へ向かった。氏真も今川家滅亡へ追い込んだ仇敵と戦うべく京から三河へ急行、手勢を率いて牛久保城に後詰で入った。氏真自身は五月二十一日に起きた設楽原したらがはらの戦いに参戦しなかったが、家臣の朝比奈泰朝は家康の元へ使者に送られた際に徳川勢に加わり敵方の内藤昌豊まさとよを討つ武功を挙げている。この功から泰朝は徳川家の直臣となった。

 設楽原の戦いに勝利を収めた後も徳川勢の下で氏真も戦いに従軍していた。因みに、同年七月十九日付の文書で“宗誾そうぎん”と記していた事から、この時点で剃髪していたものと思われる。

 天正四年〈一五七六年〉三月には遠江・牧野(旧名:諏訪原すわはら)城を任されるも、翌天正五年〈一五七七年〉三月に任を解かれている。その真相は定かではないが、家康が氏真を武将として評価していない事が一因にあるのではないかと思われる。

 家康の下で目覚ましい活躍を遂げ、駿河を自力で取り戻す。その最後の機会を失った氏真に、怒りも落胆も感じなかった。嘗ての家臣だった家康から実質的な戦力外を通告されても、ささくれ立つ事も無く素直に受け入れられた。半ば諦めきれない想いを家康が介錯かいしゃくしてくれた、そう捉えていた。

 解任された後も徳川家の元に居た模様で、それを示す史料も残されている。天正十年〈一五八二年〉には今川家を滅亡に追い込んだ仇敵・武田家が滅亡、家康は駿河一国を信長から与えられているが、『続武家閑談』にこういう記述がある。

『家康は「氏真に駿河を与えてはどうか」と提案するも、信長は「役にも立たない奴に与えられようか、不要な人を生かしておくより腹を切らせた方がいい」と素っ気なく返したとされる。これを聞いた氏真は危害が及ぶのを恐れて身を隠している内に、信長が非業の死を遂げた』

 永禄十二年の折に『駿河は氏真へ返還する』旨の約束を交わしているが、効力は消滅しているに等しいのでこの逸話の信憑性はかなり低いと思う。ただ、“旧主・氏真に国を返還した事で徳川家に災いを招く恐れがある、氏真を反徳川の神輿に担ぎ上げるだけの価値がある”と信長が捉えたと穿うがった見方も出来る。人を安易に信用せず使えるか使えないかで判断する信長が『腹を切らせるべき』と家康へ進言したのは、そういう背景があったのかも知れない。


 天正十一年〈一五八三年〉七月に浜松へ下向してきた近衛このえ前久さきひさを家康が饗応した際に氏真も同席した事を最後に、天正十九年〈一五九二年〉まで消息が途絶える。扶持を与えられたか定かではないが、交流のある公家達と会っていた記録は残されている。

 慶長十九年〈一六一四年〉十二月二十八日、氏真死去。享年七十七。氏真の遺領は孫の範英のりひで(後の直房なおふさ)が継ぎ、高家こうけ(幕府内の儀式等を任せられる程の高い位の旗本はたもと)として今川家再興を果たす。大名への復帰こそ叶わなかったものの、清和源氏の流れを汲む名門今川家は幕末まで系譜を繋ぐ事となる。

 時代の激流を昇り鯉から龍になった戦国武将は多くも、戦国乱世を生き抜いた家は数える程度しかない。それを思えば、家を潰しながらも家名を後世まで残した氏真こそ立派なのではないか。

 瀑布ばくふ――川の水が高い所から落ちる事。一般的には“滝”と呼ばれる――に一度は呑まれながらも、懸命に生きた鯉。思い通りにならずささくれ立つ事もあっただろうが、その生き様は立派と言う他あるまい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瀑布に呑まれた鯉 佐倉伸哉 @fourrami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ