ささくれのある教室

江東うゆう

第1話 ささくれのある教室

「ああー」


 掃除そうじの時間が始まったばかりの五年一組の教室で、理子りこが残念そうな声をあげた。糸葉いとはが見ると、理子の人差し指から血が出ている。赤黒い血は、ぷっくりと丸くふくれていた。

 糸葉はポシェットから絆創膏ばんそうこうを出して、理子の人差し指に巻いてあげた。


「どうしたの? つめの横、けがしちゃった?」

「ううん。ささくれがあって、ひっぱったらむけちゃって」


 理子がぎゅっと絆創膏を押さえる。茶色い絆創膏の内側に、血の黒いみができた。


「当番、床ふき係だったよね? できそう?」

「うーん、ぞうきんがけのときに指に力を入れたら、また血が出そう」

「わたし、ちりとり係だから代わろうか」

「ありがとう。次に私がちりとりになったとき、代わるね。あ、私のぞうきん、使っていいよ」

「ありがと」


 糸葉は笑顔えがおで少し首をかしげ、理子からぞうきんを受け取る。それから、前の黒板の下から、ぞうきんをかけはじめた。

 五年一組は全員で二十九人。もうすぐ、どの学年も三十人以下の学級になるというけれど、この学校はどの学年でも、実質的に三十人を上回るクラスはなかった。転校生が来ても、越えることはない。タイミングよく別の子が転校していったり、学校に来なくなったりしてしまうから、けっきょく、学校に来ている子は一クラス三十人以下になる。

 五十年くらい前にこの近くに団地ができたときには、一学年に七クラスもあったという。でも、団地の人たちがどんとん年をとってしまい、子どもの人数もった。それでも、古い団地の安さを魅力みりょくに感じて子育て世帯が引っしてくることがあり、この学校は廃校はいこうにならずにすんでいる――と糸葉のお母さんが言っていた。糸葉の家も、そうやって団地に引っ越してきたのだ。


 ――代わってあげたけど、ぞうきんがけっていやだな。


 糸葉は教室の真ん中くらいをふきながら、小さくため息をつく。

 学校の建物は団地よりも古い。床板は一部がれたり、はしがささくれたりしている。先生が学期終わりにワックスがけをしているが、はりかえないときれいにはならないだろう。

 糸葉は五年一組の床板のささくれを、そうっとく。

 床板のささくれは、どの教室にも一つはある。先生方も知っていて、四月になると、いつも同じ注意をする。


「床板のささくれをがさないようにしてくださいね。たいへんなことになりますよ」


 たいへんなことってなんだろう、と五月の初めの遠足のときくらいまで、話題になるのも恒例こうれいだ。クラスの陽キャ男子によると、ささくれをはがすとパラレルワールドに飛ばされてしまうらしい。女子同士にはやさしいのに男子相手だときびしい理子が、「どこ情報じょうほうよ」と男子にっていた。その男子によると、先輩せんぱいから代々受けがれた話らしい。

 ばかみたい、と理子は言っていたけれど、糸葉は少しこわかった。


「なんだ、ささくれ、気にしているの?」


 理子がやってきて、ちりとりを持ってしゃがんだ。


「そういうわけじゃないけど」

「パラレルワールドなんてないよ」

「だから、そういうんじゃなくて」


 気にしてないよ、とか、関係ないよね、とか言ってしかったのだろう。理子はほほに空気をふくんでだまんだ。


「ごめん」


 糸葉は、どうすることもできずにあやまる。立ち上がり、拭く場所を変えようとしたときだった。


「こんなもの」


 理子がささくれにちりとりの端を当てた。そのまま力を込めると、ささくれはバリッと音を立て、剥がれた。


「理子」

 名を呼んだきり、糸葉は立ちすくむ。クラスメートは理子がしたことに気づいていなかった。教室の真ん中で、二人だけが沈黙ちんもくしていた。

 しばらくして、理子が、あはは、とわらった。


「ほらっ、何にも起こらないじゃん」


 糸葉はホッとした。

 いつもどおりに授業じゅぎょうが終わり、糸葉は団地へ、理子は学校から徒歩二十分くらいの建て売り住宅の家に帰った。


 翌日、理子は来なかった。

 朝の会の後、先生がいちど職員室しょくいんしつもどり、知らない女の子を一人、連れてきた。


「今日から五年一組に加わった、佐藤さとう結菜ゆいなさんです。仲良くしてください」


 結菜が挨拶あいさつをした。先生がすわるようにしめしたせきは、糸葉のななめ後ろにある理子の席だった。


「えっ、理子は休んでいるだけで」


 り返って、糸葉は口を閉じた。飲み込んだつばが、音を立ててのどりていく。

 理子の音楽バッグがかかっているはずの机のフックは空だ。椅子いすおおっていた防災ぼうさいずきんもない。


「さあ、これで五年一組は二十九人になりました。みなさん、仲良くがんばりましょう」


 先生の声は明るい。糸葉は目のおくに冷たさを感じながら、床のささくれを見る。

 ささくれは、昨日、理子が剥がす前と同じ形で、床からき上がっていた。


〈おわり〉

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ささくれのある教室 江東うゆう @etou-uyu

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