君のいない道を【KAC20244】
深川我無
歩きだす。
隣を歩くチビスケを何の気なしに撫でた。
その途端、チビスケが顔を仰け反らせて庇うような素振りをする。
「どおしたん?」
「なんか痛かった」
見ると瞼の上に、薄っすらと切り傷の跡がある。
「なんか擦りむいとるなあ」
「しんちゃんの手、ガサガサで痛いんよ」
慌てて今度は手を見ると、たしかにチビスケの言う通り、僕の手は荒れてささくれ立っていた。
「ほんまや。ごめんな」
そう言って僕は、今度は肌に触れぬようにチビスケの頭を撫でる。
子ども特有の、細くて柔らかな髪の質感。
少し汗ばんだ頭皮の湿度。
冷たい風が畦道に吹き抜けた。
「帰ろか…」
頷くチビスケと並んで歩き出し、僕らは家路についた。
田園地帯の脇にある、山にほど近い一軒家。
そこに残っているのは、君と二人で夜な夜な交わした辛い過去の話の残渣と、今もぶら下がったままの君の遺体。
最初に君を見つけた時、僕は同じように、梁にロープを結んだ。
所詮傷付いた者同士、支え合うには無理があったんだ。
なんの躊躇いもなく椅子に立って、それを蹴り飛ばそうとした僕の目に飛び込んできたのは、開いたドアから覗くチビスケの姿だった。
トラウマになるよな…
そう思った途端、僕のトラウマが蘇る。
何処までも自分を追い掛けてきては、手元に連れ戻そうとする母の顔。
職場にまで現れては、片っ端から僕の居場所を破壊していく母の言葉。
徒党を組んで僕を責める母の取り巻き。
誰にも理解されない苦悩を分かちあえた唯一の君は、僕の隣でぶら下がったまま、涎と尿を垂れ流している。
顔を上げるとチビスケと目が合った。
チビスケは心配そうにつぶやいた。
「しんちゃんも死ぬん?」
「死なへんよ」
こんな時でさえ、僕は気を使った。
貼り付いたような笑顔で言った。
それからチビスケを連れて、僕は散歩に出かけた。
家の前まで帰ってきたとき
僕は自分の手に目をやった。
ささくれて荒れ果てた手。
この手は柔らかいものを傷つけてしまう。
この心は、柔らかいものを壊してしまう。
どうせ死ぬなら、生きるのも同じだと思った。
人生がどうでもいいなら、この子が一人で生きられるようになるまで、生きればいい。
適当に働いて、適当に人付き合いして、適当に生きればいい。
「もうどうでもいいねん」
それが君の口癖だった。
僕が死にたいのも、君が死んでしまったのも、突き詰めれば自分の苦しみのためだった。
奪われ慣れた人生のなか、切り札にとっておいた最後の自己愛。
どうでも良くない…
本当は死にたくない…
本当は幸せになりたい…
君と幸せになりたかった…
僕はいつしか声を上げて泣いていた。
チビスケも隣で、堰を切ったように泣いていた。
この手じゃ、この心じゃ、大事な人を傷つけてしまう。
だから僕は前に進まないといけない。
君のいない世界をチビスケと生きないといけない。
君の元夫から、無遠慮な世界から、チビスケを守らないといけない。
大切なものを大切にするために、どうでもいいものは捨てて、前に進まないといけない。
泣きじゃくってから、僕は携帯を取り出した。
「もしもし…警察ですか…?」
やがてパトカーのサイレンが聞こえてくる。
寒々しい田園にサイレンを響かせやってくる。
僕はチビスケを膝に乗せたまま、その音に耳を澄ましていた。
君のいない道を【KAC20244】 深川我無 @mumusha
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