目のささくれ

λμ

目のささくれ

 昼食ランチの帰りのことだった。

 ふいに突風が吹き、舞いあがった砂埃が坂本さかもとの顔を襲った。


「――っ!」


 と思わず顔を伏せ、坂本は右のまぶたを押さえた。ゴロゴロするような感触と、チクチクと刺してくるような痛み。

 坂本は右目を擦りつつ、左目を何度か瞬いた。こちらは無事だ。

 しかし、右目は――


「あっ、クッソ……」


 開けようとするだけでズキンと傷んだ。瞳は一気に潤んで視界が滲んだ。右目を擦りつ瞬きを繰り返し、顔をしかめて会社に戻る。砂粒が流れてくれないのか、はたまた目に傷がついてしまったのか、あまりに痛むせいで開けているのも難しかった。


「あれ? どうされたんですか、坂本さん」


 同僚に声をかけられ、坂本は右目を固く瞑ったまま顔を向ける。


「あー、なんかさっき目になんか入っちゃったみたいで」

「え、大変じゃないですか」

「いやすぐ治ると思うんだけど……あ、ダメだ。痛ぇ」

「開けてられないんですか?」

「ああ、うん。前にもあったんだけど、いってぇ、くて、うわこれキツいな」


 坂本は右目を擦った。瞬間、刺すような痛みが走り、悲鳴をあげた。

 よほど大きい声がでたのか室内の誰もがこちらを見ていた。


「あー……坂本くんさ」


 課長が気遣うようにいった。


「今日はもういいから、すぐ眼科に行きな」

「へ? いや、大げさですよ。こんなのすぐに――」

「ダメだって!」


 怒鳴るような声に、坂本も、同僚たちも背筋を伸ばした。

 課長はしまったとばかりに顔をしかめ、頭を掻きながらいった。


「あ、いや、ごめんな。怒ってるわけじゃないんだ。ただ心配で」

「それは……いやそんな心配することあります?」


 内心で息をつき、坂本は目を眇めた。なんとか開くが、二秒と開けていられない。

 ああほら、と課長が顔を歪めた。


「いや、俺さ、半年くらい前、目がすごい霞んでさ。老眼かなって眼科に行ったんだけど、めちゃくちゃ怒られてさ」

「はあ」

「加齢黄斑性変性、だったかな? まあ歳のせいなんだけど、もっと早く来てればって言われてさ。――なんか、目の細胞って再生しないんだって? 見えなくなる前ならなんとかなるんだって。でも、見えなくなったら、もう終わりなんだって。今の医療でも直せないんだと。――だから」


 切々とした課長の言葉に、坂本は思わず声をあげた。


「わ、わかりました! 明日すぐ行きますから――」

「だからダメだって!」


 課長は真剣だった。


「すぐ行きなさい。早く。大丈夫。坂本くんがいなくても会社は回るから」

 

 シン、と部屋が静まり返った。

 同僚が口の端を下げて言う。


「課長、それ完全にパワハラですよ」

「あー……うん。笑えなかったよね。ごめんね。でも早く行ったほうがいいよ。本当に。みんなでカバーするからさ」


 室内の冷えた空気が解け、坂本は吹き出すように笑った。


「わかりました。じゃあ、今日は……」

「うん。お大事にね」


 そうして、坂本は会社を早退、近場の眼科を探した。

 右目が使えないというのは意外と不便なものだ。スマートフォンの画面もどこか見慣れない風景に思える。ましてや時折、思い出したように痛むため、ひっきりなしに目尻の涙を拭わなくてはならない。


 いつもなら五分もすれば治るのに、と坂本は眼科に立ち寄った。

 やはりというか、待合室は人でごった返していた。

 眼科はいつも混んでいるから嫌だったのだ。

 初診手続きを済ませ、クリップボードに挟まれた問診票に回答する。


「スマホの使用時間……? 五時間とか? そんなないか?」


 この問診票も嫌いだ。パソコンの使用時間、睡眠時間くらいならまだしも、瞬きの頻度なんて考えたこともない。目が乾いた感じはあるか? あるに決まっている。そうでもなければ来ないだろうに。

 坂本は痛む右目を左手で押さえ、まばたきを繰り返しながら、滲む文字を睨む。やっとの思いで回答を終え、待つこと一時間、ようやく診察室に呼ばれた。


「はいそれじゃ、見せてください……って」


 若い男の医者は、坂本の右目を見るなり怒鳴った。


「なんでもっと早く来なかったんですか!? 失明しますよ!?」

「へ!? え!? し、失明!?」


 怒鳴られたことよりも、失明という単語に腰が引けた。


「あの、え、俺の目、ひどいんですか?」

「ひどいも何も、眼球にささくれができちゃってますよ!」

「さ、ささくれ……?」


 坂本は首を傾げた。その間にも、医者は看護士を呼びつけ、瞼を閉じられないようにする機器を右目につけさせた。そして、すぐに点眼薬を落とした。

 ヒヤリとした感触と、鋭い痛み。坂本は思わずうめいた。


「いった……! 痛いッスよこれ、なに?」

「我慢してください! 鎮痛剤と眼筋の弛緩剤です。瞼を閉じたらまずくて」

「瞼を閉じたら……? さっき、ささくれって言ってませんでした?」

「ええ、そうです。ささくれです。眼表面が剥けちゃってるんです」

「……そんなこと……起きるんです、か……?」


 顎をあげさせらている坂本は、なんとか下目に医者を見ようとした。

 しかし、


「こっち見ない!」

「あ、はい」

「まだ眼が動いちゃうんで、引っかかったら最悪、失明です」

「……ど、どういう……?」

「今ご説明しますね」


 そういって、医者は上向く坂本の視線の先に、眼球を横から見た断面図を置いた。


「まず、ささくれはご存知ですか?」

「そりゃ、まぁ……」


 ポツン、と点眼薬が落とされた。けれど、右の瞼は器具で固定され閉じられない。

 

「あれですよね? 指先とかの、乾燥したりとかすると」


 爪の付け根あたりの皮膚が小さく剥ける、アレだ。放っておけば服に引っかかったりして痛み、かといって引っかからないように千切ろうとすると、ピッ、と被害が拡大したりする。大抵は末端で起こるために、一時間はチクチクする、アレだ。


「はい。えーと、それです」


 医者は眼球の表面を指さした。


「えーと、坂本さん、の場合はですね。これ極端なドライアイになっていまして。もう凄い乾燥してるんです。スーパードライです」

「スーパー、ドライ」

「はい。カリッカリですよ。で、パリッパリ」


 カリカリで、パリパリか、と坂本は左目だけを瞬いた。

 医者は頷いて続ける。


「で、見れば分かるんですが、よく擦られますよね?」

「あー……ですね。ついつい」

「それが最悪な形になったんですね。傷にゴミが引っかかって、ピリッ、と剥けちゃったんです。また場所が悪くて――こんな感じで」


 言って、医者は眼球の図の、黒目と白目の境目あたりにボールペンで絵を書き足した。まさに逆剥け――バナナの皮のように、つるりと少し剥けた図だ。見ているだけで不快感が胸をついた。


「これ本当にまずい状態で、眼の細胞って再生しないんですね?」

「あ、それ、聞いたことあります」


 まさに、ついさっき課長から。

 医者は返事など興味ないのかさらに続ける。


「で、皮膚と違って眼球って一枚の膜になってるんです。坂本さんの眼は極度に乾燥しているので、こう、ピッタリ貼りついたラップみたいな感じだと思ってください」

「ラップというと……あの食べものにかけたりする、ビニールの?」

「です。それを、ピーンと張った状態です。で、そこのちょうど真ん中あたりが破れてるんです。もし、その破れたところをつまんで引っ張ったら、どうなります?」

「どうって……」


 我知らず、坂本は喉を鳴らした。

 皮膚は繊維の方向に裂けるため、ささくれと同じ幅で剥ける。けれど膜は――


「そうなったらもう、見えなくなります」

「ヤバいじゃないですか」

「ヤバイんです。でも大丈夫。今は治療法がありますし――処置しますね」

「お、お願いします!」


 坂本は勢い込んでいった。

 医者はもちろんですよと答えつつ、細いピンセットを手に、眼には単願の顕微鏡のような機材をつけた。


「動かないでくださいねー……まぁ、動かせないでしょうけど」


 医者が笑った。言葉通り、薬のせいなのだろう坂本は目を動かせなかった。ピンセットが迫ってくる。視界が無事なだけに躰が強張った。いつのまにか看護士が一人増えていて、動けないよう両手をがっちりと掴まれてもいた。

 

 ピンセットが、触れた。


「――うわぁ」

 

 と、坂本は情けない声を上げていた。

 医者が細く息をついた。


「はい、終わりです。とりあえず貼っつけておきました」

「は、貼っつけた……?」

「はい。簡単にいうと接着剤みたいなものですね。眼球の表面に人工涙液みたいな、涙に似た成分の接着剤を流し込んで、めくれたところだけくっつけてあります」

「じゃあ、これでもう……」

「いえ、後処置が大事で。――あ、もうこっち向いて大丈夫ですよ」


 坂本が正面を向くと、医者は机の上に奇妙な器具を置いた。片目だけの水中眼鏡のような形で、縁がゴムパッキンになっている片眼鏡である。


「これにですね、この薬を入れてもらって、目につけて過ごしてください」


 そういって、医者は片眼鏡に薬液を注いだ。


「内側に線がついているので、そこまで薬液をいれてください。そうしたら――」


 医者は席を立ち、右目を指で大きく開いて、片眼鏡に顔を押し付けた。そして片眼鏡を手で押さえつつ、キツそうなゴムバンドを頭にかけた。


「こうです。これで瞬きと乾燥を防ぎつつ、接着剤の定着を待ちます」

「瞬きを防ぐんですか?」

「はい。接着剤なので、瞼の裏の膜――眼瞼結膜っていうんですが、瞬きするときにささくれとくっついちゃうことがあるんです。そうなると……」


 医者は脅しをかけるように、目のささくれをつまんで引っ張る真似をした。

 坂本は思わず身震いした。


「め、めちゃくちゃ、怖いじゃないですか」

「はい。すごく危ない状態です。でも他に治療法がないんです。なので、明日から三日間は必ずこれをつけてもらって、絶対に瞬きしないように――もちろん、手で擦るなんてもってのほかですからね?」

「は、はい……」


 失明は、嫌だ。坂本は医者の指示に頷いた。

 それからの三日間はまさに地獄だった。器具自体が悪目立ちするのもあるが、しっかりと見開いた状態でつけなくてはいけないので、顔がつりそうになるのだ。


 また、毎朝、薬液を交換しなくてはならないが、その間に瞬きしたらと思うと、瞼を押さえる指には無駄に力が入った。

 

 なにより大変なのは夜だ。

 寝ている間が一番、危険とのことで、瞼を擦るのはもちろん、長時間、瞼を閉じているのがよくないのだという。というのも、ただでさえ涙液が補充されずに乾燥するというのに、結果として接着剤の粘度が増して目のささくれと結膜がくっつきやすくなるのだ。


 もちろん、器具をつけていれば防げるが、今度は片目を強制的に開けたまま眠らなくてはならない。これがとにかくキツかった。薬液には眼球を麻痺させて動かないようにする効果もあるが、見えなくなるわけではない。


 ちょっとした光が嫌になるほど気になるし、押さえ込まれた瞼が痙攣する度に生きた心地がしない。最初の夜は一睡もできず、二日目の深夜に黒い布で顔を覆うという妙案にたどり着き、とうとう三日目の夜には遮光カーテンを導入した。

 

 ――だが。

 坂本は耐えきった。極度の睡眠不足と緊張で朦朧とし、正直まったく仕事にならなかったために三日目は有休を使わざるをえなかった。

 

 けれど、耐えきったのだ。


 長い長い待ち時間を経て、診察室に通されたとき、


「坂本さん、よく頑張られましたね」


 という医者の言葉には泣きそうになった――いや、実際に、薬液のなかに泡の粒として涙が浮かんだ。


「それじゃあ、外しますねー?」


 と、医療用トレイの上で片眼鏡を外し、坂本はホッと一息ついた。


「もう瞬きしても大丈夫ですよ」


 言われ、坂本は三日ぶりに右目を瞬く。大丈夫だ。痛みはない。凝り固まった瞼の筋肉がほぐれ、じわりと温まるのを感じた。

 医者はいった。


「それではこれから最後の処置をしますので――」


 坂本は目元に残った薬液を拭おうと、


「絶対に瞼に――何してんだ!」


 指の付け根をあてがった。ぐり、と瞼と眼球のあいだで何かが引っ張られるような感触があった。


「目を開けるな!」

「え?」

 

 ――あっ。あっ、あっ……あ、あぁっ……!

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目のささくれ λμ @ramdomyu

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