人間失格・太鼓の達人

 この掌篇の魅力を集約するなら、太宰治の三行部分だろう。
 太宰治の叫びに惹かれた作中の者の叫びに惹かれたわたしが読んで叫ぶのだ。
 太宰治さまさまだ。

 何に惹かれるのかといえば、誰しもが、ささくれた気分になることがあるからだ。
 報われる書き手と、報われない書き手。
 賢明でそつのない書き手と、そうではない書き手。

 ハヤシダさんもわたしも、そうではない書き手の部類に入るので、たまには太鼓でも乱打したくなる。『太鼓の達人』なんかではとても晴れない。頭の上にある曇ったものを、書けば書くほど泥沼に沈んでいるような気がするこの鬱屈を、世界をも破れとばかりに、腹底に響く音でどんどんと打ち鳴らしたいのだ。

 ウケる作品も、ホワイト社会に合わせたイイ子ちゃんの小説もくそくらえ。
 賢い小説も、AI任せの小説も要らない。

 心臓がもぎとられるほどの、叫び声を上げたいほどの、誰かに届いてという祈りに耳を澄ましていたい。

 こんな想い、こんな寂しさは、小説を書かない者は知らぬことなのだ。
 しかし、たとえ陽のあたる地上に出ても、やっぱり私たちはいつも届かぬものに向かって大砲のように太鼓を叩いているのだろう。

 小説を書くことは、叫ぶこと。
 無言で泣くこと。
 笑うこと。
 そして倖せになること。
 大空に向かって無限に足掻き、訴えるもの。

 そんな音楽は世界中を捜してもないだろうと嘆いた太宰治には、顔を上げてこう応えよう。『世界中を捜してもない音楽を捜すために書いている』と。