ねことはこ

月代零

あなたが落としたのは……

 スペランツァは猫である。


 ある建物の庭に迷い込んでひもじい思いをしていたところ、そこに住む女の子に、建物の中に入れてもらった。以来、毎日決まった時間にごはんをもらい、遊んだり撫でたりしてもらい、温かく快適な寝床で眠っている。


 さて、飼い主である女の子は、昼間は「がっこう」というところに行っている。他にも人間はいるが、皆昼間は「しごと」をしているので、いない。なので、スペランツァはひとり気ままに過ごす。


 とは言っても、大体の時間を眠って過ごす。猫はよく寝る生き物なのだ。

 スペランツァには、お気に入りの寝床がいくつかある。飼い主の女の子のベッドや、リビングの日当たりのいい窓辺、階段の下の狭くてひんやりした空間などなど。


 さて、今日はあの子が帰って来るまでどこで寝ようかなと、とことこ歩く。

 やっぱり、あの子の部屋にしよう。大好きなあの子の部屋が、一番落ち着く。

 鍵のかかっていないドアを器用に開けて、スペランツァはするりと女の子の部屋に入り込む。


 そこには、先日買ってもらったばかりの、新しい猫用ベッドがあった。ふかふかふわふわしていて寝心地は悪くないが、そんなものよりもスペランツァの目には魅力的に映る寝床がある。それが梱包されていた、段ボール箱だった。


 身体にフィットするサイズがちょうどいいし、通気性や保温性もなかなかだ。


 スペランツァはすとんと箱の中に入ると、もぞもぞと丸まっていい具合の姿勢を探す。


 そうしてあくびを一つ漏らして目を閉じたが、ふと周りの空気が変わった気がして、目を開けた。

 すると、このところ見慣れた室内ではなく、葉を茂らせる背の高い木々が目に入った。森の中のようだった。


 突然知らない場所に来てしまい、スペランツァは不安に包まれた。だが、元いた部屋のにおいが残るこの箱に入っていれば、不思議と落ち着く。そろりと周囲をうかがいながら、スペランツァは箱の中できゅっと身を縮めた。


 しかしその時、箱がずるずると下の方に滑り始めた。坂道になっていたようで、箱はスペランツァを乗せたまま、次第に加速していく。その先に大きな水たまりがあるのを、スペランツァは捉えた。


 猫は水が苦手だ。あそこに落ちては大変と、急いで箱からジャンプし、しなやかな着地に成功した。しかし、箱はぽちゃんと水たまりに沈んでいってしまった。


 安心できる箱を失って、スペランツァは途方に暮れた。けれど、そのとき水たまり全体がぼうっと光り出した。

 眩しさに少しの間目を瞑って、光が収まったのを感じてまた開くと、水の上に裾の長い服を着た、髪の長い女の人が浮かんでいた。


「わたしはこの泉に住む女神」


 女の人はそう言った。そして、両の腕を開いて、手の平を上に向ける。そのそれぞれに、一抱えほどの何かが、それぞれ浮かんだ。


「あなたが落としたのは、このふかふかもふもふが気持ちいいベッド? 金糸銀糸の刺繍入りよ。それとも、こちらのゆらゆら揺れるのが楽しいシルクのハンモックかしら?」


 泉の女神さまは、歌うような声で言う。

 けれど、スペランツァはどちらも違うと首を横に振った。

 自分のお気に入りの寝床は、あの段ボール箱なのだ。


「まあ、どんな高級なベッドよりも、ただの段ボール箱がいいだなんて。飼い主に負担をかけないよう、遠慮しているのかしら。なんて健気なのでしょう」


 感極まったように女神が瞳を潤ませるが、何を言われているのかよくわからない。スペランツァはただの猫なので。

 それよりも、安心できるあの箱を返してほしいし、家に帰りたい。


「正直で健気なあなたには、この二つの高級ベッドを両方プレゼントしましょう」


 そんなものはいらない。話の通じない女神とやらに、スペランツァはみゃうみゃうと抗議の声を上げる。


「……まあ、本当にあの汚い箱が好きなのね……」


 猫ってよくわからない生き物だわ、などと女神がぼやくのが聞こえる。二つのベッドがスペランツァの足元に下りてきて、次いで泉に沈んだ段ボール箱も、水の中から浮かんできた。


 スペランツァはふんふんとそれのにおいを嗅ぐ。不思議なことに、水に濡れた跡はなかった。自分のにおいも残っているし、スペランツァは箱の中に入って、ふうと一息ついた。

 安心したら眠くなってきて、スペランツァは目を閉じた。




「ただいまー。スペランツァ、いる?」


 あきらが学校から帰宅して目撃したのは、先日購入した猫用ベッドではなく、それが入っていた箱で眠る愛猫の姿だった。通学用の鞄を下ろして、そっとその寝顔を覗き込む。


「やっぱり使ってくれないね、このベッド……」


 晶は苦笑する。小遣いをはたいて可愛らしいベッドを買ったのだが、使っている様子はない。この箱にばかり入ろうとするので、邪魔なのだがなんとなく捨てられなくなってしまった。猫ってそういうものだと聞いたことはあったが、どうやら本当らしい。


 けれど、すやすやと眠るスペランツァを見るにつけ、安心できる場所があるならなんでもいいか、と思うのだった。


 晶はそっと手を伸ばし、スペランツァの頭を撫でる。スペランツァは一瞬うっすらと目を開けたが、晶の姿をちらと確認すると、また目を閉じた。

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ねことはこ 月代零 @ReiTsukishiro

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