姪箱

千羽稲穂

大切な箱たち

 幼いころ菓子箱の中に小さな家具をつめて小人の家を作っていた。それをいつでも持ち運んで、何か私がいないと養っていけない、大切な生き物がいるんだと思い込んでいたんだと思う。それは小学生から中学生にかけて灯るペットのほしがりと似ていた。他に目をかけられているから今度は何かを養いたがる。若いからこその無鉄砲な責任能力があった。

 その箱の中に今は姪が入っている。段ボールの中、じっと蹲って姪は出てこない。湿気がたちこめている夏に汗が滲みだす。汗をふく。周囲を見やると誰もいない。ここは家の玄関前で、蛾がぱちぱちと電灯にぶつかっていた。姪はこんなところで段ボールに入って気持ち悪くないのだろうか。私は、過去に持ち運んだ菓子箱と同様に、家の中へ無言で持ち運んだ。

 しかし、私はあの菓子箱をどこへやったのだろうか。


 家のクーラーをつけて姪の箱を置く。すぐに妹のLINEにメッセージを送ったが既読にはならなかった。すんっと鼻をすする姪のしゃくりだけが部屋に反射した。そもそも私は声を出すことに抵抗があり、彼女に声をかけることも躊躇われた。姪も確か同じ気質の持ち主であったと記憶している。以前、妹が私の家に挨拶に来たとき、気難しい姪に苦心していることを話していた。疲労が見られる目の下の隈が痛ましく、それもあってか鮮明に姪を覚えていた。どのような気難しさかは、私には分からない。とりあえず冷蔵庫にお菓子類がないかまさぐる。ちょうど昨日食べ損ねたアイスがあったので姪の段ボールの傍に置いた。じわじわとアイスの袋が汗をかき、絨毯を濡らしていく。無言のまま私と姪は時間を過ごした。

 すると、LINEに「姉ちゃんとこにいたんだ。すぐ行く」とようやく返ってきた。「待ってる」と淡泊に返す。

「私が引っ越し前で良かったね。危うく知らない人の家の前にいるところだった」

 アイスはなくなっていた。姪がアイスの棒を咥えていた。汗でひっついた姪の髪を持ち上げる。目の下に涙の痕がついていた。

「大人って、いっつもそうやって小言を言うよね」

 私は口元が震えて、彼女の髪を下ろした。

 いつから私もそんな偉そうなことを言えるようになったのだろう。首をひっつかみ、姪のために声をだそうと思っても、もう無理だった。口がぱくぱくとしか動かない。こういうときに「ごめん」の一言すら言えない。だからいつも申し訳なくなる。仕事も上手くいかないし、一所に定住できない。それは『私』という箱の中に大切なものがないからかもしれない。

 しばらく声をだそうとして、数分。姪の寝息がたちこめた。段ボールの中に小さな生き物が丸まっている。アイスの棒だけを抜き取り、姪の前髪をさらさらと指先でいじった。


 私が彼女のように小さかったとき夜中に起きてトイレに駆け込んで、吐いてしまったことがあった。間に合わずにトイレ直前で吐いてしまい、水浸しにしてしまっていた。どうしようどうしようと戸惑っていた。そんなとき父が手伝ってくれて片付けてくれた。しかも、その後も数回、同じようなことをしてしまって、そのたびに苦労をかけさせた。朝になって、病院に連れていってもらったが身体に異常は見られなかった。

 なぜか吐いてしまうときがある。いつも溜め込んでいるものが破水してしまうのだろう。今でもたまにそんなことがある。トイレで数回吐く。その後、夜中に父が片付けてくれた記憶が紐付けられる。

 あの時、父は私に何も言いやしなかった。苦労しただの、ごめんを言えだの、ありがとうを言えだのと要求はしなかった。それが当たり前のように何か大切なものを包みこんでくれた。

 私はあれを誰かに与えようとしていたのだろう。お菓子箱を持ち運んだのもその頃だったように思う。入れていた人形は知育菓子に入れてあった簡素なものだった。何かあるたびに箱を開けて無事を確認した。大丈夫大丈夫、と頭を撫でて、蓋を閉めた。

 常にその菓子箱とともにいた。


 妹から電話が入った。焦った声色で姪のことを訊いてくる。怪我がないか、お腹すいてないか、何か怖い思いをしていないか。そのたびに、「大丈夫」と返事をした。何かあったの、と尋ねる前に妹が矢継ぎ早に教えてくれた。多分、状況整理と気持ちを落ち着かせたかったのだろう。

「今日、お弁当を作り忘れたの」

 それで怒ってしまった姪は、段ボールの中に入ってしまった。最近は布団で寝ずに段ボールの中に入って寝ているらしい。彼女なりの身の守り方なのだろう。妹は仕事の疲れもあり、彼女の特殊な性質も相まって、これまでの不満を姪にぶつけてしまったのだ。びっくりした姪は、どうしたら良いか分からず、私のもとへきたのだろう。お気に入りの段ボール箱を持って。

 私たちの父や母はほとんど勘当状態で、妹が頼れるあては旦那か私、そして旦那のご両親くらいしかいない。

「姉ちゃん、迷惑かけてごめん」

 妹からの電話をきると、姪が段ボールから頭を出していた。物珍しそうに家の中を見回す。

「箱だらけ」

 段ボールの山に姪は声を傾けた。

 引っ越すんだよ、と言おうか言うまいか悩んで、姪と一緒に見渡すことにした。また同じ轍を踏みたくなかった。ガラスのように繊細な姪を、妹が心配を一心にもらっている姪を、私が何かの声をかけて傷つけたくはなかった。こんなものを育てている妹が改めてすごいなあと心の中でぼやいた。


 朝が弱い私が珍しく早く起きたときがあった。まだ日もでていない。深い紺色が水を浸し、薄青の世界が窓に映しだされていた。中学は各自で昼食を用意しなければならなかったから、父がお弁当を朝早く起きて作っていた。お弁当箱は二つ、私と妹の。彩りの野菜、簡単な冷凍食、ご飯を詰めて、おまけにデザートのフルーツがあった。

「おはよう」と父。

 毎日、父は同じように用意してくれた。起きたら必ずあって、私たちは安心してそれらを持って学校に通った。しばらくして、父が蒸発し、母がお弁当を作るようになった。冷凍食に冷凍食を重ねて、時間がないからか、ご飯にお魚だけを載せる日々が続いた。

 味気ないお弁当を作られるくらいなら、と意気込んで妹は自分でお弁当を作るようになって、私は少ないお小遣いで購買でパンを買うようになった。

 朝早く起きても父はいないし、お昼は冷たいパンだけだった。お昼が終わるときに、急いでトイレに駆け込んで吐いた。そうすると、私の身体は軽くなり、何でも出来るような気がした。私には何も持っていなかったから、何でもできた。定職をつかずふらふらするのも、居場所をつかずにすぐにどこかへ引っ越すことも。この身には、お弁当も菓子箱も既になかった。


 箱だらけの部屋が珍しいのか、姪は声を出し始めた。何にも訊かない私に安心していた。

「この箱の中には、何が入ってるの」

 私は頭を振った。大事なものは何も入っていなかった。姪のように、大切なものを私は作ることができなかった。

「どうして」と私はようやく声を振り絞った。どうして、私に頼ったのか。

「お弁当、なくて、恥ずかしくて」段ボールの中にきゅっと姪は収まる。「そういうの、おばさんは責めないと思う。だって、おばさんは、お母さんと違って、そういう、大切なことをいっぱい知ってる気がしたから。私のこの箱も、変って言わないと思う」

「変、とは思わない」

「私、こうすると落ち着くんだ。お弁当はないと落ち着かない」姪はしゃくりをあげて、「お母さん、弁当作らなかった。それって私のこと、嫌いになったのかな」と肩をふるわせた。私は段ボールごと彼女のことを抱きしめた。ほとんど条件反射だった。

 馬鹿だな。

「そんなことない。お弁当がなくたって、何にもなくたって、あなたはとっても大切にされていることに代わりはないのよ」

 ほろっとなぜか私は自身の発言で涙が頬を伝った感触があった。そして、今までの記憶が行き交った。父はいなくなって、お弁当もなくなったって、この身には大切な記憶が詰まっていた。

 確かに私はあの頃、大切にされていたのだ。

「だから大丈夫よ」

 彼女の背中を撫でてしゃくりが止まるのを待った。

 大丈夫大丈夫。

 延々と繰り返した。


 やがて妹と旦那が迎えにやってきて、姪を段ボールごと引き上げた。ごめんなさい、とずっと繰り返している妹に下手な笑顔を作りながら頭を振った。二人は大事そうに、起こさないように姪を車に段ボールごと乗せて、台風のように去っていった。

 私は振り返って、荷造りしていた段ボールを開けた。しばらく引っ越すのをやめよう。姪も来るかもしれないし、このたくさんある段ボールの中になくしてしまった菓子箱もあるかもしれない。もし見つけたら、私は大丈夫大丈夫とそっと記憶に蓋をかけるのだ。

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