第一話 天使の梯子
いなくなった親友。両親からの愛情、クラスメイトの友情。雨傘てるひ(雨傘照日)には、持っていないものや失ったものがあまりにもたくさんあった。
そして今日、照日はまた新たなものを捨てに行く。自分の命だ。
雨傘てるひは既に満身創痍であった。
その証拠に、彼はもう10分後には地面に叩きつけられて肉の塊になっているだろう。彼自身が、その選択をした。
何で生きてるんだろう、その言葉を幾度も飲み込んできた末路がこれか、と、雑居ビルの屋上に繋がる階段で照日は思った。この言葉をどこかの場面で、少しでも誰かにこぼすことさえできれば、もしかしたらこの階段にいるのは薄汚いネズミと愚かな餌を待つ蜘蛛だけであったかもしれない。
「...今と変わらないじゃん」
学校という狭い場所の一クラスは、しかし学生である照日にとっては世界の全てであった。死へと続く階段の途中にいる意地の悪い蜘蛛に自由も身動きも奪われた照日は、彼らの嗜虐心と力を誇示するための愚かな餌でしかなかった。そして照日は何度か助けを教師や親に求めた。しかし返ってくるのは冷たい視線と冷たい言葉のみであった。
でももう、それも終わりだ。深く息を吸い込んだ。終わりを選ぶことでほんの少し得られる自由を照日は存分に味わった。吸い込んだ息は、すぐにため息へと変わったけれど。死ぬことすら清々しい気持ちでできないのかと思い、途方に暮れながら階段を登った。
光が、屋上へと通じる扉から漏れ出ている。ここをくぐれば、いよいよ終わり。
今までの人生を思い返そうとしたが、黒く靄がかかったように鮮明に思い出せない。明確にあったのは、血の匂いと痛み、あざだけだった。それ以外の何も思い出せないほど疲弊していることに、照日は気付けないまま、死という選択をしてしまった。
扉を開ける。瞬間、冷え込んだ風が吹き込んできた。寒いのは苦手だったので、思わず手のひらで顔を覆う。しばらくして風が弱まり、手のひらを顔から退けると、そこには無機質なコンクリートの床と、境目の曖昧などんよりとした曇り空があった。
「...寒い」
そのあまりに無感情な風景に、照日は思わず自分の人生を重ねた。そして照日は、走馬灯代わりにちょうどいい、と世界と自分に嫌味を垂れた。
歩みを進める。冷たい風がクラスメイトに殴られた傷を刺し、その度に嫌な記憶がフラッシュバックしてきた。心の痛みは増すばかり、もはや時間がないと、照日は歩みを進める。
そして照日は辿り着く。ビルの屋上の端を囲うような出っ張りと、出っ張りに設置された、肩の高さまでの柵に。
「長かったなぁ...ほんとに」
いじめが始まってから3年、好きだった読書や音楽鑑賞が苦痛に感じるようになってから2年、心の限界を感じてから1年、このビルの階段を登るまでに10分。後の出来事になればなるほど、時間の進みは遅く感じた。
そして今、このビルの屋上を流れる時間は完全に静止している。風もいつしか止んでおり、次第に降り始めた雨の音によって、鳥の羽ばたきすらも照日の耳に届く前に掻き消された。照日の叫びが、誰にも届かなかったように。
「もう、良いか...。飛ぼう、もう」
靴を脱いで、出っ張りに踵を合わせビルの内側へつま先を向けて脱いだ靴を揃える。穴が開いてボロボロのくせに礼儀正しく良い姿勢を保つ靴が、ほんの少しだけ愛しく思えた。
少し気持ちが晴れ、視界が前を向く。
相変わらず、晴れ間一つ見えない空、灰色のビル。地面に見える道路は細くて今にも消えそうなのに、目に焼きついて離れない。
今日は寒くて人通りも少ないから辺りの歩道に人はいない。だから、見知らぬ通行人を巻き込むことも、ないはずだ。自分一人で死ねる。
こんな瀬戸際になってまで人に迷惑をかけることを憚るのだから、全く自分ってやつはお人好しだ。
「...よし!」
覚悟は決まった。風もない。いつしか降り始めた雨は激しさを増し、既に土砂降りであったがそんなものはもはや関係なかった。滑らないようにしっかりと柵に捕まり、慎重に乗り越える。そうして柵を乗り越えて、両腕で体の後ろにある柵に掴まった。この手を離せば、もう終わり。この街に降る大粒の雨よりも、もっともっと速いスピードで地面へ翔けるのだ。それが、死というものだ。ここまで来れば後一瞬...
「ちょ、ちょっとまって!」
...一瞬何か聞こえたような気がしたが、いや気のせいだろう。これもきっと走馬灯の一種...
「君だよ君!雨傘くん!ストップストップ!」
明らかにここから聞こえてくるはずのない声が、続けて聞こえてくる。
「...え?」
人が、いる?
照日は驚きのあまり、体が硬直する。
その声は続ける。
「いいよ雨傘くん、その調子...そのまま体を柵に預けて、こっちに戻ってきて...」
「いや、ちょっと、この声はどこから聞こえてるんだ?いや幻覚?なんだこれ...?」
照日の体は手を離せばビルから離れていく向きのため、視界に屋上の様子が入ってこない。
そのため、
「いやちょっと?!私はここにいるって!幻聴じゃないよ!」
という声が聞こえてきても、その存在の一切を信じることができない。
おそるおそる振り返る。しかし屋上には誰もいなかった。いよいよ恐ろしくなった照日は、その恐怖に任せて片腕を離そうとする。すると、先ほどの幻聴じみたその声は、今度は照日の右横から聞こえてきた。
「横にいるよ...私そんなに存在感ないかな...?」
右横を見る。しかしそこには、柵と空の灰色があるだけであった。照日しかいない空間にひたすら雨のみがこだまする。
しかし、その声は確かに照日の耳に届いていた。
「なんなんだよこれ...ついにほんとにおかしくなっちゃった...」
いないのに、聞こえる。聞こえるのに、どこにもいない。自殺しようとしている最中で、頭は既に混乱を極めていた。
すると、その声の主は言った。
「あれ、もしかして透明化オフにしてなかった...?」
そう言うとその声の主は、
「ちょ、ちょっと待って...?雨傘くん、ほんとに見えてないんだよね?」
「はい...ていうかどこから声出してるんですか...?」
照日は何もない空間に向かって、恐ろしさを交えながら質問した。
「そっかー...やらかしたな...じゃあちょっと待っててね、今透明化解除するから」
そういうと、先ほどの灰色の虚空からなにやらカチャカチャとベルトを外すような、何かを弄る音が聞こえた。
気がつくと雨は弱まっており、分厚い雲の隙間から陽が放射状に地上へと降り注いでいた。何度か見たことがあり、名前もどこかで聞いたことがあった。薄明光線、またの名を天使の梯子。空から天使が舞い降りてくる様によく似ていることから、その名が付いた。
「よし...雨傘くん、これでどうかな...?」
照日は、右を向いたまま硬直した。
今ここでなにが起きているかの一切を把握できなかったからだ。
しかしその目は、その光景を本物だと伝えている。
照日の目は、何もない場所から透明化の効力が次第に切れるように姿を現す人間を映していた。そして、
「ごめんね急に屋上に現れちゃって...びっくりしたでしょ?」
そうはにかむ彼女の背中には、身長の3分の1ほどにもなる、大きな翼が生えていた。
「私はしずく!君が寿命の前に死にそうだったから、空から翔けつけてきた、天使です!」
その『天使』との出会いは、暗雲の立ち込めていた照日の人生を、その後大きくひっくり返すことになる。
天使が微笑む。その背後には天使の梯子と天気雨が光を湛えていた。
その屋上には、天使が潜む━自殺志願者の少年と空から舞い降りた天使の物語━ @second2
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