シュレディンガーの猫と箱

清瀬 六朗

シュレディンガーの猫と箱

 「シュレディンガーの猫」という「思考実験」がある。


 ある確率で発動するさつねこ装置のついた箱に、猫を一匹閉じ込め、一定時間、放置する。その一定時間のあいだ、箱を開けることは絶対にできない。

 その時間内に、箱のなかで、殺猫装置は発動するかも知れないし、発動しないかも知れない。

 一定時間後に箱を開けることによって、その猫が生き残ったか、死んでしまったかは確実にわかる。つまり、猫の生死は「確定」する。

 では、放置されているあいだ、猫は生きているのか死んでいるのか?


 いや。

 生きているのか死んでいるのか、以前に、猫に対してそんな非人道的なことをするとは何ごとか!

 というわけで、これは、猫好きには絶対に許せない思考実験である。


 だから、「猫好きバージョン」も考えておく。


 ある確率で開くチューブに、猫が大好きな液状のおやつを入れておき、一定時間、猫が出て来られないようにする。そのあいだ、猫が何をしているかは絶対に観察できない。

 一定時間が経過して猫が出て来たとき、猫はチューブに入った液状おやつを食べられてハッピーか、食べられなくてとても不機嫌かが「確定」する。

 では、猫が出て来ないあいだ、猫は液状おやつを食べた状態なのか、食べていない状態なのか?


 「猫が出て来られないように」というところはひどいかも知れないけど、こういう「実験」なら猫は一日じゅうでもつき合ってくれそうである。

 でも、あのおやつは、人間が見ているところで猫が食べてくれるから猫も人間も幸せ度が増すのであって……。


 いやいや。

 そういう話ではなく。


 「箱の外から、猫が生きているか死んでいるかが観察できないとき、その猫は、生きている状態と死んでいる状態のの状態にある」

 「箱の外から猫がおやつを食べたかどうか確認できないとき、その猫は、おやつを食べ終わった状態とまだ食べていない状態のの状態にある」

……というのが、その答え。


 わけ、わかる?


 わからなくても当然。

 かのアインシュタインも、この問題について、現在、正しいとはされていないほうの答えを選んでしまったのだから。


 これは、何のたとえかというと、「量子力学的不確定性」というもののたとえである。

 たとえば電子のような小さな小さな粒子の運動を考えたときに、ある時刻に一個の粒子が存在する位置と、その一個の粒子がどんな運動をしているか(運動量)とを両方とも確定できますか、という問題の比喩である。

 普通に考えれば、ある時刻の位置と運動の様子は両方とも確定できる。

 たとえば、マラソンランナーが、ある時刻に、どの地点を、どれぐらいの速度で走っているかは、確定できる。

 野球のボールが、ある時刻に、どのへんを、どれぐらいの速度で飛んでいるかも、確定できる。

 ところが、電子のような粒子のばあい、それが原理的にできない、というのだ。


 なぜできないか?


 「観測する」というのは具体的にどういうことか?

 それは、そのものに当たって計測器のところまで到達した光を観測しているのだ。

 「音」というのもあるかも知れないけど、音は、粒子が別の粒子を振動させることで伝わるので、複数の、それもかなりたくさんの粒子が存在していないと伝わらない。ここでは「一個の粒子」について見ているので、「たくさんの粒子」の存在を前提とする「音」での観測は除外する。

 そこで、ランナーを観測するのでも、ボールを観測するのでも、テレビの画像を使うにしてもスピードガンのような装置を使うとしても、そこから来た「光」で像をとらえて観測しているわけだよね?

 で。

 電子のような粒子の場合でも、電子に当たった光を観測することになるのだが。

 電子というのは、光に反応してその運動の様子が変わったり、自分で光を放出して運動の様子が変わったりする性質があるのだ。

 したがって、電子から飛んで来たらしい光をとらえることができたとしても、その電子がもともとどこかから飛んで来た光に触れて反応したのか、または電子が自分から光を放出したのかということについてさまざまな可能性がある。電子に当たったらしい光がどこから来たか、または、電子がいつどこで光を発したかについても、さまざまな可能性がある。

 そのさまざまな可能性のなかのどれがほんとうか、ということを、私たちは確定的に知ることは絶対にできない。

 これが「量子力学的不確定性」というものだ。


 ……と、「粒子が光に反応するから」などと延々と語っても、何のことだかさっぱりわからないのに、「猫を箱に閉じ込めて」という話にするとなんかわかったような感じになる、というのが、このたとえの優れたところだ。


 「殺猫装置といっしょに箱に入れられた猫」について、「箱が開くまでは猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの状態にある」とか言ったって、それを「重ね合わせ」とか言ってないでさっさと猫を助けろよ、ということにしかならないけど。

 電子については、電子が光に触れた確率が何パーセント、自分で光を放った可能性が何パーセント、とかの確率を計算し、観測されていない電子は「確率何パーセントの状態Aと確率何パーセントの状態Bの重ね合わせの状態にある」としてその先の計算を進めていくことで、電子の性質や電子の絡む反応の性質の測定が効果的に行える。

 エレクトロニクスはそれに支えられた技術だ。

 さらに、大量の「殺猫装置といっしょに箱に入れられた猫」について、一匹ずつ箱を開けて生死を確認するのではなくて、「箱は開けず確認はしないので、大量の猫の生死は重ね合わせの状態にある」として計算をずんずん進めて、効率よく目的の計算の答えに到達する、という方法で圧倒的な計算速度を実現する、という技術が実用化されつつある。それが「量子コンピューター」というもの、らしい。


 ところで。

 このたとえ、「猫」と「箱」でなかったとしたら、こんなに量子力学的不確定性を印象づけるたとえになっただろうか、ということだ。


 犬とかねずみとか、カピバラ(広い意味でねずみの一種だけど)とかバッファローとかだったら、「なんか謎ですねぇ」、「生きているのと死んでいるのとの重ね合わせの状態にあるんですよ」と言われても、あんまり「鮮やかなたとえ」という感じはしないのではないだろうか。

 でも、猫ならば、「生きているのと死んでいるのとの重ね合わせの状態? うーん、そういうのもあるかもなぁ。猫だもんなぁ」と思えてしまう。

 その感覚が「シュレディンガーの猫」のたとえの鮮やかさを支えているんじゃないだろうか?


 それと。

 この「シュレディンガーの猫」の状態、じつは私たちもよく経験するのでは?

 入学試験の合格発表前(いま高校入試を受けに来る少女の話を連載していることでもあるし)、入試の合否は決まっているのに、自分が合格したかどうかを知ることは、よほど不正な手段を使わないかぎり、知ることはできない。

 「カクヨム」でコンテストに応募して、入賞したかどうか、でも同じだ。

 あるいたずらを仕掛けて、相手が笑ってくれているか、本気で怒っているかも、会って確かめるなり、SNSで確認するなりするまでは、やっぱりわからない。確認してもはぐらかされたら、「いや、ほんとうはものすごく怒っているのでは?」とか想像がふくらんでしまい、さらに「確定」しない。

 じつは、私たちは、日々、そういう「確定しない重ね合わせの状態」のなかに身を置いているのだ。


 「なかで何が起こっているか絶対にわからない仕掛け」として「箱」を用意し、「不確定」を「その箱に入れられて絶対に様子を確認できない猫」と表現することで、私たちが日々感じている「不確定」の感覚と、量子力学的現象を直感的に結び合わせてしまったところが、このたとえの優れたところだと私は思った。

 それが「量子力学に対する俗流の誤解」を生み出しているところもあるだろうけど、最初から関心を持たれないよりも「俗流の誤解」のほうがずっとまし、とも、私は思っている。


 (終)

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シュレディンガーの猫と箱 清瀬 六朗 @r_kiyose

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