静止した箱の中で

日乃本 出(ひのもと いずる)

静止した箱の中で


 一人の男が、あるデパートのエレベーターに乗り込んだ。


 男は実に憂鬱そうな表情をしていて、誰が見てもわかるほどに暗い陰を身にまとっていた。


 このデパートは、つい最近できたばかりのデパートで、デパートとしては世界一高いことで有名になっていた。


 それゆえ、休日には家族連れやカップルなどで大賑わいとなり、事実このエレベーターもそういう人々によって満たされていた。


「御客様、どの階へ向かわれますか?」


 今どき珍しいエレベーターガールが、人々に聞く。


 人々が思い思いの階をエレベーターガールに告げる中、男はただ黙っているままだった。


 人々が目的の階へと降りていき、エレベーターの中の人間が男とエレベーターガールと中年の男だけになったころ、男が行き先を告げた。


「屋上まで」


 それを聞いたエレベーターガールは顔をしかめた。


 屋上は子供のための遊園地となっている。とてもではないが、大人の男が一人で楽しむような場所ではない。


 変だと思ったが、エレベーターガールは伝えられた行き先に送り届けるのが仕事。かしこまりましたと男に告げ、屋上行きのボタンを押す。


 それを見た男は、なぜか安堵の笑みを浮かべた。


 ああ、これでやっと俺は解放されるのだ。


 男は、人生に絶望していた。


 小さな町工場を経営していたのだが、続く不況で倒産してしまい、妻には愛想をつかされ、子供と一緒に逃げられてしまった。手元に残ったものは莫大な借金のみ。


 それでも必死になって頑張っていたのだが、ダメ押しとばかりに癌の宣告を受けてしまった。ただ、癌はまだ初期だから大丈夫だと言われたのだが、男が絶望するには十分な宣告であった。


 だから男は、このデパートにやってきた。


 せめて最後くらい、にぎやかな場所で人生の幕を下ろしたいと考え、屋上から飛び降りようと考えてやってきたのだ。


 エレベーターが、ゆっくりと着実に屋上へと近づいていく。


 もう少しで、屋上だ。そう思ったところで、突然、エレベーターが大きく揺れて停止した。


 エレベーターガールが困った様子で、色んな階のボタンを押す。しかし、ボタンは反応することはなく、エレベーターも動くことはなかった。


「あの、申し上げにくいのですが、エレベーターが停止してしまったようです。すぐに復旧すると思いますので、少々お待ちくださいませ……」


 エレベーターガールがそう言うと、男はため息をついた。まあいい。少しだけ時間が伸びただけだ。


 そんな風に思ったところで、中年の男が自嘲気味な笑い声をあげた。


「なんてことだ、神様というものはどこまでも意地が悪いらしい。私の自殺さえも妨害するのだから」


 エレベーターガールが驚きの声をあげる。だが、それよりも男のほうが心の中でさらに驚きの声をあげた。まさか、自分以外にも同じことを考えている奴がいるなんて。


「あ、あの……ど、どうして。その、じ、自殺なんか……」


 恐る恐るといった様子で、エレベーターガールが中年の男に聞く。


「なんということはない。事業に失敗して借金まみれになり、しまいには不治の病にかかって世に絶望した。それで死のうと思ったまでさ」

「なんだって?」


 思わず声をあげてしまう男。まさか、何から何までそっくりだなんて、そんな偶然なんてあるのか。


「びっくりされるのも仕方がない。だが、こうして自殺しようと考えたのだが、それさえもうまくいかない。エレベーターが停止するなんて、それこそかなりの少ない確率だ。それが起こるなんて、こうなると神の意思のようなものを感じてしまう」


 諦観したような雰囲気で中年の男が言う。男としては、中年の男に聞いてみたい――いや、聞かなければならないことがあった。


「……それで、あなたはこれからどうするのですか?」


 自分と同じ境遇の人間が、これからどうするのか。その答えを聞いてみたい。それ次第で、自分の成り行きも考えなおしていいのではないか。


「そうですなぁ。こうまで思う通りにいかないのならば、いっそのことがむしゃらに生きてみようかと思う。自分に残された時間、全力で生きてみるのも悪くはない。どうせ一度は捨てようとした命だ。もう何も怖くはないからね」


 さわやかな笑顔だった。エレベーターの中に流れる、少しの沈黙。やがて、男も笑顔を浮かべた。


「そうですね。確かに、それもいい」


 すると、男の決心がついたのを見計らったかのように、エレベーターが動き出した。


「お待たせして、申し訳ございませんでした。御客様、行き先は屋上でよろしいでしょうか?」


 エレベーターガールが男達に問いかけると、男のほうが、


「いや、行き先を変更してほしい。一階に戻ってくれ」


 と答え、中年の男もそれに同意した。


「かしこまりました。それでは、下へ参ります……」


 一階についたところで、男は中年の男に会釈し、エレベーターから降りた。


 ああ、なんて清々しい気分だ。よし、一度は捨てた命。死ぬ気でやってみるか。


 意気揚々と立ち去っていく男の後ろ姿が見えなくなったところで、中年の男がエレベーターガールに話しかける。


「やれやれ。なんとか思いとどまらせることに成功したようだ。作り話が効果的だったらしい」

「そのようですね、お疲れさまでした。しかし、今週に入って五人目ですね。どうしてこのデパートの屋上から飛び降りようとする人が後を絶たないのでしょう」

「さあね。でも、なんとなくわかる気がするよ。最後の散り際くらい、華やかに飾りたいんじゃないかな。まあだからこそ、私のような仕事が成り立つのだけどね」


 肩をすくめてみせる中年の男に、エレベーターガールが優しい口調で語り掛ける。


「いいじゃありませんか。あなたのような、デパート専属の自殺防止係という役職のおかげで、少なくとも命を救われている方々がいらっしゃる。素晴らしいことじゃありませんか」

「いや、私はきっかけを与えているだけにしかすぎないよ。本当に素晴らしいのは、自殺しそうな人物を見極めて、意図的にエレベーターを止めることが出来る、君のようなプロファイラーさ」


 とんでもありませんとエレベーターガールが謙遜しはじめたところで、エレベーターにまた人々が乗り込んでくる。


 中年の男は目立たぬように後方へと移動し、エレベーターガールは入ってくる人々の様子に神経を走らせたのち、安堵のため息をつき、人々に問いかけた。


「御客様、どの階へ向かわれますか?」

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