動物園の喫煙所

夢月七海

動物園の喫煙所


 同じ檻の前から一歩も動かなくなった先輩から離れた俺は、喫煙所へ向かった。誰も来ないような片隅にあったそこは、透明な箱型で、先客が一人いた。

 野外だから、こういう形にしなくてもいいのにと思ったが、子供が通りかかったり、動物に煙が流れたりするのを避けるためかもしれない。先客は二十代くらいの男で、こんな場所にも拘らず、真っ黒なスーツを着ていた。


 ドアを開けて中に入ると、灰皿に煙草の灰を落としていたその先客がこちらを見て、「アレ?」と言いたそうな顔をした。確かに俺もスーツだが、そういう反応の前に、自分の姿を鏡で見てほしい。

 俺も彼の隣の灰皿を陣取り、煙草に火をつける。一服した後に、こちらから先客へと話しかけた。


「仕事帰りか?」

「ん? あ、ああ」


 先客は、一瞬だけ妙な沈黙をしてから、返答する。妙な男だな、と、相手の真っ黒な髪と瞳を眺めて思う。そういえば、ネクタイや革靴まで真っ黒だ。


「そっちも、仕事帰りか?」

「ああ。一緒にいた先輩が、ちょっと立ち寄りたいと言っていたから、来てみただけだ」

「俺も似たような経緯だな。同僚が、どうしてもと言い出したから付き合った」


 苦笑しながら、先客は遠くを見る。気になってその視線を追うと、どこかの檻の前で何かの鳥がぎゃあぎゃあとけたたましく騒いでいた。


「その同僚、あっちにいるのか?」

「ああ。動物に嫌われるんだよな。だから、どこにいるのかすぐ分かる」

「それなのに動物園に来たのか?」

「動物が好きなんだよ」

「変わっているな」

「ああ。俺も同じくらい嫌われるから、わざわざ見に行こうとは思わない」


 一本の煙草を灰皿に落とした先客が、もう一本の煙草を取り出して火をつける。体のことを一切気にしていない吸いっぷりだ。俺も似たようなものだが。


「あんたの先輩も、一人で巡っているのか?」

「いや、同じ檻の前でずっと動かなくなっているんだよ」

「同じ檻って、そっちの先輩も変わってんな。なんの檻だ?」

「さあ……プレーリードッグか、ミーアキャットだったと思うけど」

「全然違う生き物だろ、それ」

「……興味ないんだよ、動物に」


 遠慮なく先客に笑われて、俺はむすっとする。動物のことを知りたいと思うような余裕など、全く無い幼少期だった。

 そんな風に、過去を思い返して柄にもなくセンチメンタルな気持ちになっている俺だが、先客はマイペースに煙草を吸っている。それだけでなく、また勝手に話しかけてきた。


「俺、大分久しぶりに動物園に来たんだが、ガラスの展示が結構多かったな。最近の傾向なのか?」

「さあ……俺も久々だったから」


 それは嘘だった。動物園に来たのは初めてだ。二十歳過ぎで初めての動物園だなんて知られるのは恥ずかしい。

 ただ、昔にテレビかなんかで見たような映像では、ライオンとか虎のような猛獣は、檻の中にいた気がする。ここの動物園では分厚いガラスの内側にいた。それを思い出し、俺はそれっぽい顔を作って語る。


「人が見やすいとか、安全とか、そう言う理由でガラスでの展示が増えているんじゃないか?」

「そうかもな。檻の中と、ガラスの箱みたいなものに入れられるのと、どっちがいいのかは、分からないが」

「動物の気持ちなんて、分かるはずないだろ」

「はは、確かに」

「そんな話すると、このガラスの箱の中にいる俺たちが、急に哀れになるだろうが」

「悪い悪い」


 先客は、何が可笑しいのか、ケタケタ笑いながら煙を吐く。灰色の煙が、屋根の無い喫煙所から出ていき、青空へと溶けるように消えていった。

 笑いが収まった先客が、咥えた煙草ぐっと一気に吸い込む。喫煙歴の長い俺でも、大丈夫かと思ってしまったが、そいつは平気な顔をして口を開いた。


「社会も、透明な箱のようなものかもしれない」

「急だな。まあ、なんか分かるが」

「箱の中にいると、その外に憧れるが、外は外で色々大変だ」

「天候が悪くなったり、餌がもらえかったりするからか?」

「いや、存外孤独で」


 先程までと違って、先客は皮肉気な笑みを見せた。その皮肉は、箱の中の動物たちに向けられているようで、彼自身のことを言っているような気がする。自分でも、なぜそんなこと勘付いたのかわからず、内心首を捻った。

 と、そこへスマホの着信音が響いた。俺も先客も、同時に自分のスマホを取り出すが、鳴っていたのは先客の方だった。


「同僚からだ。出口まで行ったのかもな」

「ああ、そうか」


 先客は、「じゃ」と軽い調子で片手を挙げて、鳴り続けるスマホと共に、喫煙所から出て行った。ドアが閉まる直前、電話を取った彼の「立木、今どこだ?」という声が一瞬聞こえた。

 彼はすぐに死角に隠れたが、近くの檻の動物が大騒ぎするので、何となくどこにいるのかは分かる。同僚と同じくらい動物に嫌われるというのは、彼の誇張ではないようだった。


 俺は、スマホを取り出したままだったので、煙草を咥えたまま、それを操作する。ネットニュースを調べてみるが、この近くで死体が見つかったというニュースは無かったので、密かにほっとした。

 俺たちが、ここに来る直前、路地裏で一人の男と取引をしていた。だが、交渉は決裂し、ブチギレた先輩に、彼は殴り殺された。


 俺の周囲には、ずっと不機嫌で怒るのも段階を踏む大人たちばかりだったので、先輩のように、前触れもなく沸騰するタイプは初めて見た。しばらく呆然と、先輩の蛮行を眺めてから、やっと止めたが、その時には相手が事切れていた。

 しょうがないので、近くの段ボールでその死体を隠した。組織に連絡して、下っ端が収集することになったのだが、その時に先輩が「江崎、動物園に行こうか」と言われたのには、耳を疑った。


 経験の浅い俺でもこの場は逃げるべきだと分かっているのだが、先輩の言う事には逆らえない。さっきまでのブチギレが嘘みたいに、穏やかな先輩に連れられて、この動物園に来た。

 「こいつらを見てると落ち着くんだよな。何も考えていないようで、何か考えているようで」と言って、ある動物の檻の前から、先輩は動かなくなった。それにまで付き合っていられずに、こうして喫煙所にいる。


 流石に先輩も、飽きている頃だろう。「そろそろ帰りましょうよ」と、スマホで先輩にメッセージを送る。

 丁度一本吸い終えたので、俺も喫煙所の箱のドアを開けて、外に出た。



















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

動物園の喫煙所 夢月七海 @yumetuki-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ