【KAC20244】投手×捕手

阿々 亜

投手の指……捕手の指……

 冷たく乾燥した空気が風となってその場を駆け抜ける。

 周囲に植え込まれた木々は葉が全て落ちており、吹き抜ける風に裸の枝が揺らいでいる。

 そんな冷たい冬の空気を切り裂いて、バシンッと重たい音が響き渡る。


「だいぶ曲がるようになってきたな!!」


 一人の少年が目をキラキラさせながらそう言った。

 まだ顔立ちが幼く、体格も小柄だが、その小さい体に元気が収まりきらないかの如く、両手を上げてぴょんぴょんとはねている。

 そして、その右手には左利き用のピッチャーグローブがはめられていた。


「まだまだだ。それに、どれだけ曲がってもストライクゾーンから外れたら意味ないだろ」


 もう一人の少年が冷たく返す。

 腰を落とし屈んでいるが、それでもわかるほどの長身だ。

 目つきは鋭く……と、言うより目つきが悪く、苛立ちが滲みでているような目だった。

 そして、その左手にはキャッチャーミットがはめられ、その中には先程の音の震源――硬式の野球ボールが収まっていた。


「んなこと言ったって、こんな気持ち悪い投げ方で思い通りに投げれるわけねーよ!!」


「バカ、それが変化球だ」


 ピッチャーグローブの少年の名は入間和樹いりま かずき

 キャッチャーミットの少年の名は梓川尚文あずさがわ なおふみ

 二人とも高校1年生で、同じ高校の野球部だった。


 尚文はキャッチャーミットに収まっていたボールを右手に取り、立ち上がって和樹に向って投げる。

 ボールは大きな弧を描いて、ぽすりっと和樹のグローブに着地する。


「だからー、そんな気持ち悪い変化球なんか覚えずに、ストレートだけで勝つ方法ねーのかよ!?」


「アホ、高校にもなってストレートだけでピッチャーが務まるわけないだろ。何回言ったらわかるんだ」


 彼らのポジションはその手のグローブが示す通り、ピッチャーとキャッチャーだった。

 だが、まだ彼らはレギュラーではない。


 尚文は小学生の頃からずっとキャッチャーをやってきており、現時点でもレギュラーに入れるほどの経験と実力があったが、和樹とバッテリーを組むためにレギュラー入りを辞退したのだ。

 対する和樹は高校になるまで野球部に入ったことはなく、友人たちと草野球をやっていたというほぼ素人に近いレベルのキャリアだった。

 高校で野球部に入ったのも、「どうせ部活に入るんだったらまだやり慣れた野球がいいかな」という程度の動機だった。

 和樹と尚文の高校は強豪校とまでは言わないまでも、野球部はそこそこ強くかなり熱心なところだった。

 そんなところで、和樹のような初心者は3年間3軍で本来終わるところだが、彼の投球は部の全員の度肝を抜いた。

 その小柄な体からは信じられないほどの剛速球を投げたのだった。

 彼は誰からも野球を教わっておらず、見様見真似で野球を始めた人間である。

 そんな和樹が数年間必死に野球に打ち込んできた他の部員たちが到底投げられないような球を投げたのだ。

 和樹の体はまるでバネのようで、その投球は見る者に矢を放つ弓の弦であるかのような錯覚を覚えさせた。

 天賦の才、神のいたずら……いや、神の悪フザケだとそのとき部員たちは思った。

 そして、その球に最も魅了されたのが、他ならぬ尚文だったのだ。

 尚文は思った。


 俺とコイツだったら、甲子園に行ける……


 尚文はすぐに和樹にバッテリーを組もうと申し込んだ。

 当の和樹は何も考えず「ああ、いいよー」と答えた。

 その答えに尚文が喜んだのもつかの間、尚文は愕然とした。

 ちゃんと野球を教わってこなかった和樹は変化球を一つも投げられなかったのだ。

 現代の野球においてピッチャーの投球というものは、さまざまな球種と緩急で打者をいかに翻弄するかという頭脳戦にも等しき世界である。

 いくら天性の剛速球といえど、所詮は素人の高校一年生のレベルである。

 ストレートだけでは実戦で使い物にならない。

 無論、尚文も他の部員も和樹に変化球を覚えさせようとした。

 だが、単純単細胞の和樹は「え、変化球? ヤですよ。俺は常に直球ど真ん中で勝負するんです!!」と馬の耳に念仏状態だった。

 かくして和樹の部内での評価は、稀代の天才ルーキーから元の使い物にならないド素人に転落したのであった。

 そんな中で、尚文だけは和樹の可能性を捨てきれなかった。

 部活中は常に和樹につきっきりで、野球のことを一から和樹に叩き込んだ。

 そうこうしながら、1年目の夏が終わり、3年生が引退し、新しいレギュラーが選定された。

 が、その中に和樹と尚文の名前はなかった。

 依然、和樹が変化球を覚えようとしなかったからだ。

 しびれをきらした尚文はある策を思いついた。

 監督や先輩たちに頼み込んで和樹をピッチャーに据えた練習試合を組んでもらったのだ。

 季節はちょうど冬の直前。

 対外試合禁止期間(12月1日〜翌年3月8日)に入る前の最後の練習試合であった。

 和樹は大喜びで試合に臨んだが、和樹がストレートど真ん中しか投げられないと相手が気付いてから、和樹の球は容易に封殺された。

 結果は20点近い点差をつけてのコールド負け。

 人生初の大舞台でこの上ない敗北を喫し和樹はボロボロに泣き、そんな和樹に尚文は悪魔のように耳元で囁いたのである。


「変化球さえあれば勝てる……」


 その後1週間、和樹は部活を休んだが、練習に復帰した日に和樹は尚文に言ってきた。


「俺に変化球を教えてくれ……」


 尚文は内心ほくそ笑みながら和樹に変化球の基礎を教えた。

 同時に和樹の体格や体質などからどの変化球が向いているか、どの変化球から覚えるか入念に検討した。

 結局、肩や肘に比較的負担のかかりにくいカーブから始めることにした。


 そうこうしているうちに期末テスト期間になり、本格的な練習は冬休みからになった。

 そして、今日は年末で部の練習がない日だったが、二人は近く公園で人知れずカーブの投球練習を行っていた。

 和樹の球はようやく曲がるようになってきていた。


「よし、今日はこのくらいにしよう」


 そう言って尚文は立ち上がった。


「えー、もう!? まだ50球くらいじゃん!!」


「ボケ、元々今日はオフの日だ。週の投球数で考えたら、30球でも多い。それにいくらカーブがまだ負担がかかりにくいって言っても、慣れない投げ方は故障を起こしやすい」


 尚文は和樹に近寄り、左手を掴んだ。


「慣れるまでは、手や腕を痛めてないか、毎回よくチェックしたほうがいい」


 掴んだ左手を表裏入念に確認する。


「わわ、無理に捻るな!! これのほうがよっぽど手ぇ痛めるわ!!」


 ぎゃーぎゃーと和樹が騒ぐが、尚文は気にすることなく観察を続ける。


「あ、ささくれ……」


 尚文の言葉通り、人差し指の爪との境目の皮膚が数mmめくれ上がっていた。


「あー、ほんとだなー」


 和樹はグローブを外して、無造作に右手の指でささくれを引きちぎろうとする。


「わ、バカ!! 何やってんだ!?」


 尚文が慌てて止める。


「何って、ちぎっちゃおうと」


「アホ!! お前は仮にも投手なんだから、利き手の指先には十二分に気を使え!!」


 尚文は和樹を引っ張って、荷物を置いてあるベンチまで連れて行く。

 そして、自分の鞄のなから小さなポーチを取り出し、さらにその中から爪・指用と思しき細い小さなハサミを取り出す。


「わー、お前、女子かよー……」


「うるさい!! どんなスポーツでもこういう細やかなケアが大事なんだよ!! いいから、座れ!!」


 ドン引きしている和樹を無理やりベンチに座らせ、尚文はささくれの根本をそーっと丁寧にハサミでカットした。


「ささくれは空気が乾燥している時期にできやすい。保湿クリームをやるから、毎日指に塗っとけ。それから、無理に引きちぎろうとしたら傷口が広がったり、出血したりするから、絶対にやるなよ!!」


「ささくれ一つでうるせーなー、お前は!?」


「お前が雑過ぎるんだよ!! エースになりたかったら、もっとちゃんとしろ!!」


「偉そうに!! そういうお前はどうなんだよ!!」


 和樹は逆に尚文の右手を掴んで指先をまじまじと見た。


「ほれ、お前もささくれあんじゃねーか!?」


「ケアしててもできるときはできるんだよ!! できても俺は自分でちゃんと処置してるんだからいいんだよ!!」


「いーや、ダメだね!! バッテリーは一心同体!! お互いの体はちゃんとケアし合わねーとなー!!」


 和樹は下卑た笑みを浮かべながら、尚文のハサミを奪い取る。


「わ、やめろ!! お前みたいなガサツなやつにやられたら、かえって怪我するわ!!」


「問答無用!!」


 和樹は尚文のささくれにハサミを入れるが、そんなもみ合いをしながらだったので、刃が深く入ってしまい、少量だが血が流れ出してしまう。


「あ……」


 流れ出した血を見て、和樹は一転して真っ青になる。


「ほらみろ、言わんこっちゃない……」


 怪我をした当の尚文は逆に落ち着いていた。


「ごめん……」


 和樹は今にも泣き出しそうになっており、その様を見て尚文は胸がきゅっと締め付けられた。


 なんだよ……

 急にしおらしくなりやがって……


「あー、もう、気にしなくていいから、こういう悪ふざけはもう……」


 尚文は顔をそらしながら、そう言いかけたところで言葉が止まる。

 怪我をした指先が暖かくヌメヌメした感触に包まれたのだ。

 見ると和樹が尚文の指を口に含んでいたのだ。


「お、お前、何やってんだよ!?」


 尚文は動揺し、真っ赤になりながら問い正す。


「いや、止血しようと思って……」


「お前の衛生観念どうなってんだよ!? 化膿するわ!!」


 尚文はポーチからカーゼを取り出し、唾液を拭き取って圧迫止血する。


 もう、本当にコイツの頭ん中はどうなってるんだよ!?


 尚文の顔はまだ動揺で真っ赤だった。


 その様を見て、和樹は逆に青ざめる。


「え、ちょっと待って……お前、何、顔赤くしてんの?」


「へ……」


「お前、俺に指舐められて興奮したの!?」


「なっ、ちげーし!!」


「キモ!! キんモ!! お前、俺とバッテリー組んだのって、俺自身が目的だったのか!?」


「何言いだしてんだ、てめー!?」


「うわ、もうバッテリー解消な!! 俺、このあとすぐに先輩たちに相談するわ!!」


「おい、ちょっと待て、その内容で先輩たちに言うつもりか!? マジでやめろ!!」


「うわ、抱きつくな!! やっぱり、俺の体が目当てか!?」


「違うわ!! お前をこのまま行かせたら、俺は社会的に死ぬ!! 意地でも止める!!」


 そんな押し問答をしながら、二人は真冬の公園から去っていった。


 翌年、二人はエースと正捕手の座を勝ち取ることになるのだが、それはまた別の話……



 投手の指……捕手の指…… 完

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