第26話 エピローグ

 記者が去ったのを確認した後、腹の辺りで手を組み、椅子にだらしなく背を預けた。疲れが全身に重く圧し掛かる。

 自身でも驚くほど感情的になり過ぎてしまった。あれでは喧嘩を売っているのと同じだ。あの記者はもう当てにならないだろう。折角、隙を見て作った時間を全て無駄にしてしまったようだ。くたびれた顔を両手で覆い、溜息をついた。

「こんなところで何をなさっているのですか?」

 背後から聞き覚えのある声が聞こえた。虚を突かれ、振り返ると白のブラウスと紺色のスラックスと履いた褐色肌の女性が目に映る。

 ここは常連客のみ使用できる防音とセキュリティが完備された個室だ。高級飲食店のため、政府高官や経営陣たちの表に出せない会談に使われることが多く、普通の人々はその存在さえ知らない。

 油断していた。彼女は理事長秘書と仲が良い。店の場所や個室の予約の取り方も知っている。話に夢中で周りに誰がいるか判らなかった。今、座っている椅子の背後には秘書が控える小さな個室がある。ずっとそこで聞き耳を立てていたに違いない。

「君こそ、どうしてここにいる。」

「石井准教授に用がありまして。」

 そう言うと先程まで記者が座っていた椅子に何の断りもなく腰掛ける。向かい合って見た彼女は背筋を伸ばし、薄化粧をしていた。真っ直ぐな眼差しは彼女の強さを相対する者に伝える。いつ見ても強く美しい人だ。

「…どこまで聞いていた?」

「ほぼ最初からです。」

 額に手を当てて溜息をついた。いくら何でも、これはひどい。自分が焦燥感と怒りに支配されると、こんなにも周りが見えなくなるのか。

「でも貴方がここにいるなんて思わなかった。こんなところで何をやっているのよ。」

「一体、何の話だ?」

「6だっけ。貴方の名前は確か番号よね。」

 黙って米神を揉んだ。無言で背もたれに預けている身体を正し、背筋を伸ばす。

 どうやら全てお見通しだったらしい。現在の憑依対象にはまだバレていないだけに、ショックを隠し切れなかった。

「どうしてわかった?」

「どうしてって…、准教授が記憶を消されたのは昨日よ。私達を助けた警備隊の人達が教えてくれたわ。」

 そう。実は昨日、機密情報管理という名目の下、既に医療機密に関する一切の記憶を秘密裏に削除されていた。それは本人さえ知らされていない。

 精神値が医者としての基準を超えているのは本当だった。AIの警告を無視して仕事を続けていたのが裏目に出てしまった。家族や本人の周囲は事件がきっかけで数値が悪化したから、記憶を消されたと思われるだろう。検体に関することを知らなければ、何の問題もない。

 この憑依対象と、その家族は今後機構の監視下に置かれる。これからは機構の息が掛かった医療系大学の異能者専門講師として後任を育てるようだ。

 すべて奴らの思う壺だった。

 だから彼の意思を継ぎ、ムクロとしての能力を使って監視の目を盗み、限られた時間の中で記者に会って、知り得る情報を伝えた。

 お節介だとは分かっていても、この人類社会の有り様に我慢ならなかったからだ。

「貴方は記憶が消された准教授に何の用があって、こんなところまで来た?どうやら監視は付いていないようだが。」

「准教授の能力次第ではあるけど、記憶を消されないように細工して貰おうと思って。警備隊の人が快く店の場所を教えてくれたわ。あの人達、機構が本当に嫌いなのね。」

 監視まで撒いてくれた、と綺麗に微笑んだ。彼女は時々、信じられないくらい対人交渉能力を発揮する。三年間、同じ景色を見て、同じ生活を送ったが未だに驚きの連続だ。

「生憎、この人には消された記憶を確実に復活させる能力はない。」

「みたいね。それで?貴方は何をやっているの?」

「言いたくない。」

 顔を背けると舌打ちが聞こえる。上品な顔に似合わず、態度が悪くて粗野なところは相変わらずだった。何だかそれがおかしくて、思わず笑いが零れた。

 彼女もこちらに気づいて、口角をあげる。

「ねえ、貴方にとって巧君ってどんな存在だったの?」

「…親なんだろうな。会話したことなんて一度も無い。でも私達にとって…郷愁の念が形を取ったら、彼になる。」

 巧は異界の生物だった。人間に神と崇められ、祀られていたが捕獲され研究を名目に非道な実験を受けた。その結果出来た生物兵器がムクロだ。

 ムクロ達が逃げ出した時、彼は既に虫の息だった。兄弟に連れられて、数年永らえた後、死ぬ間際に願った。

 僕を人間にしてほしい、と。

 どんな経緯でその願いを現実にしたのかは判らない。何故、連れ出した兄弟が死んでしまったかも知らない。だが彼は願い通り人間の子供に生まれ変わった。

遺伝子上の親だからだろうか。死んでしまったことと、生まれ変わったことだけは理屈ではなく本能で分かった。

 それから数年後、人に憑依を繰り返し、知識を集めていた自分がたまたま見つけたのが巧だ。会うまで半信半疑だったがモニカに憑いて彼を見た時、確かに分かった。この子はムクロのオリジナルだということが。

 あれだけ痛めつけられ、虐げられた人間にどんな夢を見ていたのだろう。理解したくはない。だが何となく察することはできる。推測だが同じ人間になれば共存できると思っていたのかもしれない。自分自身も約三年間、モニカを通じて研究棟の皆と共に過ごしていくうちに何度かは同じことを考えてしまっていた。

 自分が人間だったら、この一員で居られたのに。そう何度も思った。

 まるで人間の子供のようだ。自分が無い物ねだりをするなんて思わなかった。

「巧君は自分がムクロのオリジナルと知っていたの?」

「最初は知らなかったと思う。だが発作の度に彼の精神は時空を超越して彷徨っていた。恐らく、どこかのタイミングで自分のことが分かった筈だ。異研の人達が知っているか分からないが、オリジナルは過去も未来も飛び越えていけるから。」

「そう…。」

 彼女は俯いて、悲しそうな目をしていた。まるで彼女に出会ったばかりの自分を見ているようだ。確かにそんな顔はモニカに似合わない。

「貴方に憑依したのは、オリジナルを知りたかったからだ。ムクロには親という概念が無い。他の兄弟同様、実は以前から人間を見ていて羨ましいと思っていた。…だからもし人間がオリジナルを痛めつけていたら、全員消してやろうと思っていたくらいだ。」

 でも現実は違う。彼は人体実験されることもなく、他の入院患者と同じように治療を受けていた。吉田が現れてからは普通の子供として育てられ、秘密を知っていた教授と准教授も態度を変えなかった。それどころか裏で検体に認定された巧を口八丁手八丁で守っていた。二人はさぞや難敵だったに違いない。学校に行かせようと尽力していたのも、教授と准教授だったのだと、この身体に憑依してから分かった。

 彼は大切にされていた。いや、愛されていた。それが自分の事のように、とても嬉しかった。

「ふーん。じゃあ巧君の人徳に感謝しなくちゃ。会ったばかりの頃に正体を知ってしまっていたら、どうなっていたか分からないわ。」

「そうしたら貴方はこの世に居なかっただろう。お互いに感謝すべきだな。」

 自分にとって異研は楽園だ。閉じられた箱庭だったが、箱庭の住人は外界へ行こうとする彼を止めず、背中を押していた。成長を一緒に喜び、対等に怒ってくれて、時に優しく見守っている。そんな世界がこの世にあるなんて思ってもいなかった。

 あそこは奇跡の場所だ。今でもそう思う。人間は見てくれだけしか気にせず、野蛮で利己的な下等生物だとばかり思っていた。そんな自分の偏った思想を根底から覆し、もう一度、人間を信じさせてくれた。そんな奴らばかりじゃないと。決して口には出さないが感謝している。

「…だから私たちの味方になってくれたのね。」

「…。」

 そうだと言うのが、何故かとても癪なので無言で頷いた。

「本当に貴方って不器用よね。今の記者もそうだけど、こんな回りくどいことせずに能力で人間を操って記事を書かせれば良かったのよ。でもそれをしなかった。人間を信じているのね。説明すれば、きっと分かってくれるだろうって。」

 何も言わず片手で額を触る。

そんな風に彼女から言われて目の前が開けた感覚だ。

 そうか、人間を信じていたのか。そうなのかもしれない。確かに乱暴な手段を選べば、効率的に人間たちを黙らせることが出来た。でも嫌だった。あの三年間を、あの人達から貰った様々な経験と気持ちを裏切ってしまうような気がした。

「馬鹿ね。人間は信頼に値する存在じゃない。自己中心的の上、拝金主義。何も知らないのを良いことに自分の意見と称して他人の人格を否定する奴らばかりだもの。弱っている人間を見つけたら率先して叩きに回るし。相手の気持ちを察して理解しようなんて考えてない。しかも加工された情報を鵜呑みにする。碌なもんじゃないわ。」

「そんな事言わないで欲しい。何より貴方の口から聞きたくはなかった。」

 語気が荒くなった。そんな自分を彼女は優しい眼差しで見つめている。

「買いかぶりすぎよ。私達も人間だもの。今言ったこと全て当てはまる。でも、そんな風に信頼してくれることが嬉しい。ありがとう。」

 そうだろうか。人間はそんな奴らばかりだとは思わない。たった一部の酷い例を見て、全体を把握した気になるのは愚かなことだ。

 自分は人間に憑いて知識と体験を集める生命体だ。他の兄弟のように人間を捕食しない。また本来のオリジナルと一緒で栄養など必要ない個体だ。だから大勢の人々を見て、ここまで生きて来た。そしてこれからも様々な人生を見る。人間は根っからの悪人なんていない。完璧な善人がこの世にいないように。

 そう達観していた自分が数年でこれだけ素晴らしい人々に会えたのだ。まだ世間には良識のある人間がちゃんと居ると思っている。いや、そう思いたい。例え、それが儚い願望だとしても。

「私も明日、事件の記憶を消される。巧君は事件の前に亡くなっていることになるみたい。研究室の皆の記憶はどうする気なのかしら。まあ、私が心配することではないけど。」

 彼女がポツリと漏らした言葉に眉を顰める。

「もし研究室の方々が三年間に纏わる思い出の品を持っていたら、准教授の力で記憶を思い起こさせるトリガーに出来る。ただ思い出すタイミングが選べない。断片的にしか思い出せず、心理的外傷を負う可能性もある。それでも良いなら力になろう。」

 記憶をぼかす事が出来るということは逆に、ぼかされた記憶を鮮明にさせることが出来るという意味でもある。人間の脳は複雑で思い入れのある曲や、昔食べた食事、見たことのある風景、握った手の暖かさで、いとも容易くエピソード記憶が甦る。

 だが絶対に思い出せるとは限らない。そして思い出したからといって大概の患者は救われるわけでもない。忘れるというのは一種の救いだ。時間と共に心の傷もやがては塞がっていく。そう。心の傷は完治出来ずとも瘡蓋になる。なのに、それを無理に思い出させてなんになるのだろう。今の宿主はそう思い、この能力を心の底で疎んでいた。記憶を操ることは、どんな反応を相手に齎すかまったく予測できないからだ。

 彼女はテーブルの上に小さな巾着を置いた。手に取り、中を確認するとグローブと野球ボールの小さなキーホルダーが入っていた。これは巧の遺品だ。

 モニカはとても悲しそうに、依頼したのは全て私の我儘だから責任に感じることはないと言った。その言葉で何をしたいのか察することができる。

 そう決断した何かがあった事は推して量るべし。不要な詮索はしなかった。彼女は更に続ける。

「それを使って吉田君の記憶を呼び起こさせて。あの子は最後まで記憶を消さないでって抵抗していたの。」

「気骨のある子だ。本来なら被害者ぶっても誰も文句を言わないのに。」

「本当にね。記憶が消された後に主治医としてもう一回会ったけど周りに化物扱いされるからって、怪我が治っても家族の元へは帰らないそうよ。そのまま寮のある学校へ進学するみたい。」

 その話は知っていた。ただモニカの口から聞かされると増々、心が重くなる。

「分かった。これは預かる。…私は憑りついていた貴方なら完全に記憶を復活させることができる。一緒に全てを見ていたから。しかし機構や周囲の人間に迫害されるくらいなら無い方がマシだとも思う。どうする?貴方はどうしたい?」

「あっても無くても迫害はされるわよ。人間だもの。」

 肩をすくめて、溜息を吐かれた。

「でも、そうね。記憶が無いと、理由も判らず突然危害を加えられたら怖いと思っていたけど、無い方が油断してくれるかも。貴方がしばらく預かっていてくれる?私、全自動瞬間沸騰機だから迫害されても心配いらない。おかしい事はおかしいって言ってしまう性質なの。知っているでしょ?」

 だから変なこと言われたら正論でぐうの音も出ないほど叩きのめしてやる、彼女はそう言って胸を張った。

「記憶は物ではない。」

「知っているわよ。でも所有物を無断で奪われるようで良い気はしないわ。形が無くても私の記憶だもの。だから適度なところで返して。タイミングは任せる。」

「我儘だな。」

 今度は此方が肩をすくめる番だ。

 了承の意を伝えると、にやりと意地の悪い笑顔が両方に浮かんだ。あからさまな空元気だ。彼女は他人に理不尽な批判を受けても何でもないように振る舞っていた。苦しい胸の内を明かさず、自分のやるべきことが見えている。

 その強さにただ頭が下がる思いだ。

 モニカの付けている時計のアラームが突然鳴り出した。彼女の腕時計はアナログではなく、デジタルに変わっている。どう見ても男物のブランドなので、彼氏から借りたのだろうか。そのアラームを切ると、相手は座っていた椅子から立ち上がる。

「もう時間ね。私は行くわ。そう言えば貴方は私の中に居た時と口調が変わっているけど、宿主によって変えているの?」

 彼女は厚手のコートの袖を通しながら、どうでも良い質問を投げかけた。

「ああ。現在の宿主に一番影響を受ける。私達には雌雄が無いからな。人称をあまり気にしない。…自分では違和感が無いが、何か変だろうか?」

「ただ疑問に思っただけよ。」

 出入り口に手を掛けて、彼女は背中越しに声を掛けた。

「私達、友達になれるかしら。」

「貴方が望めば、いつでも。扉は開かれている。言った筈だ。私は一度も貴方に嘘をついた覚えはない。それに実は人間の友達を持ってみたかった。」

「ムクロが全員、貴方みたいな奴だったらな。こんな事は起こってないのに。」

「こんな場面で、たらればを言うなんて君らしくない。さあ、密会は終わりだ。また必ず会おう。」

「ええ、また。それまでどうか元気で。」

 そっと扉に手を掛けて、彼女は光の中へ吸い込まれていった。

 彼もまた別の扉から外へ出る。すぐに会計を済ませ、数分後には行き交う人混みに身を任せた。


 どうか私の親が愛した人間達の行く先に、幸多からんことを願っている。



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