足音

旧瀬昧

足音

―ぎぃ、ばたん、がさがさ、どすどす。


扉を開いた時に生じる独特の軋んだ金属音と、続いて閉じる音。

少し間を置いて強めの足音が響き出したので、隣人が帰宅したのが嫌でも分かった。ビニール袋の音がするので、買い物帰りだなとすぐに察しがつく。この後、乱暴に冷蔵庫を開け閉めする音が響くのだろうと予想し、これ以上の騒音は耐えられないと私はワイヤレスイヤホンを装着した。ノイズキャンセリング機能付きなので、隣で聞こえるとんちきな合奏を少しは緩和してくれるはずだ。


「もう帰ってきちゃった…。レポート終わらせたかったのに。」


こうして音楽等は流さず、耳栓変わりに使うのが日常茶飯事になりつつある。結局音が貫通してくるので気休め程度にしかならないのだが、むき出しの鼓膜に直接騒音を響かせられるよりはマシだと、ここ最近はずっとイヤホンを装着し続けている。やや遠く聞こえるがちゃん、ばたばた、どすどす、と忙しなく奏でられる騒音をBGMに、私は溜息を吐きながらなんとか手付かずだったレポートに取り掛かった。

「はぁー…もう。」

入居前にこのアパートの壁は薄いと不動産屋から忠告を受けてはいたが、まさかこれ程とは。予想していなかったとはいえ今更ながら後悔している。いくら家賃が学生割引が利いて格安だからといって、それに釣られるのも考えものだと過去の自分を責める毎日である。


それ程までに、隣人の生活音はやかましい事この上なかった。


―どすどす。どすどす。


「…ほんと足音大きいなぁ。」


生活音の大きさもそうだが、特に足音がうるさい。これが目下の悩みだった。


―どすどす。どすどす。


耳にこびりつくような、響く足音。最初は対して気にもならなかったのだが、日に日に音が大きくなっているような気がしてならない。


「あー、駄目だ…、集中できないや。」


まるで同じ部屋にいるかの如く鳴り響くその足音に気が散ってしまった私は、文章作成アプリを開いていたノートPCをシャットダウンし、今日はもう店じまいだとスマホ片手にベッドへと沈んだ。こうなってしまったらもうレポートどころではない。潔く諦めて暇つぶしにとSNSを開く。友人やサークルの仲間の投稿、流行りのスイーツなどをチェックしているうち、次第に意識が薄らいでいくのが分かった私は抗わずそのまま目を閉じた。


今日は、眠れるだろうか。


―――


―どす。どすどすどす。


「…っ…なに…?」


鼓膜を揺らす重低音に、ふと目を覚ます。どうやらいつの間にか眠っていたようだ。隣人は朝の支度もやかましい。こんなに騒がしいということは、もう朝なのだろうかと慌ててスマホで時刻を確認する。


「…は?夜中の2時?」


嘘でしょ、と吐き捨て白い壁を睨みつける。深夜にも関わらずどすどす、どすどすと全くお構い無しの大騒ぎ。いい迷惑である。

「…っ!いい加減にっ、しろっ!」

腹いせに隣の壁に向かって怒号を投げるが、効いた試しはない。ただの気休めである。苛立ちが収まらない私はイヤホンを装着し、布団を深く被った。


―どすどす。どすどす。


嗚呼うるさい五月蝿い煩い。


ここ最近、ろくに眠れていない。


この足音のせいでまともな睡眠を取れていない私は授業に遅れ、遅刻で出席を落とすという事を繰り返していた。

明日は一時限目から必修授業だ。次遅刻をすれば落単は免れないと釘を刺されており、絶対に遅刻は出来ない状況にある。無理やりにでもなんとか眠ろうと瞼をぎゅう、と強く閉じるがあの足音が邪魔をする。


―どすどす。どすどす。


本当、なんてやかましいのだろう。隣の部屋である私はともかくとして、下の階の住民はたまったもんじゃないだろう。ひょっとしたら、余りの騒音に耐えかねて退去しているかもしれない。それか不動産屋に相談をして―


「あ。」


そうだ、不動産屋だ。


何故今まで思いつかなかったのだろう。騒音を止めさせるよう、不動産屋に頼めば良いのだ。昨今騒音トラブルは多いと聞く、きっと相談すれば解決の糸口になるだろう。

私は明日の朝一番に不動産屋に電話することを決意して、イヤホンをした上で両手を両手で塞ぎ、目を瞑った。早く、眠らなければ。


―どす。どすどす。


明日でこの忌々しい足音ともおさらばだ。そう思うと自然と微睡む事ができた。


翌朝、無事定刻通りに起床した私は遅刻を防ぎ、なんとか落単を阻止する事ができた。次は無いぞと教授に睨まれ、へこへこと水飲み鳥のように頭を下げつつ、ほっと胸を撫で下ろした。次の二時限目は幸い空きコマだ。この間に不動産屋に電話をしようと人気の少ない中庭まで移動し、講義中に調べた電話番号にかける。幸い、3コール以内に窓口に繋がった。


『はい、こちら███不動産です。』

「あ、あの、コーポ███の403号室のものなんですけど…。」

『はい、403号室の███様ですね。お世話になっております。ご要件はなんでしょうか。』

「はい、あの、実はお隣さんの事で相談がありまして…。」


私は事の経緯を簡単に話す。すると窓口の女性は大変訝しそうにこう言った。


『お隣の404号室は現在空室のはずですが。』


まさかそんなはずは、と返そうとしたその瞬間。


―どすどす。


ふと、すっかり耳にこびりついたあの足音が、私の蝸牛を震わせた。


―どすどすどす。


ここは、室内では無い。ましてや私の部屋では無い。するはずの無い音。居るはずのない隣人。何故、が頭を埋めつくしその場に立ち尽くす。電話口で女性が何か言っているが、私にはもう聞こえなかった。


足音がするから。


―どすどすどすどす。


足音が段々とうるさくなっていたように感じたのは、気のせいではなかったようだ。


―どすどすどすどすどす。


足音は、私に近づいて来ていたのだ。


―どすどすどすどすどすどすどすどすどす。


「あ、」


振り返るとそこには、

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