沈む箱

 前も後ろもわからない。

 宵闇に充満する灰色の靄。

 深い霧が辺りを薄い布のように隠す。


 遠くで鳴り止まない金属音。

 氷に金属の杭でも打ち付けているかのような音。

 あの黒い箱を何度も沈めている音。


 歩いてみても周りの景色は変わらない。

 ただそこで足踏みでもしているかのように。

 でも、私はあの場に背を向けて歩いているはず。


 帰り道に進んでいるのか。

 深淵の奥に向かっているのか。

 どこだってかまわない、あの場所でなければ。


 何もわからない道をいたずらに進む。

 何もかわらない道をひたすらに迷う。

 少しでもあそこから離れたくて止められない足。


 まるで誰かの作った箱庭のような場所。

 もしや誰かが語った昔話に似せた世界?

 それならその誰かは相当、悪趣味だと思う。


 遠くから聞こえる人の嘆きが止まらない。

 遠くから這い寄ってくる人の叫びが終わらない。

 早く止まれ!早く消えろ!早く……死んでっ!!


「――――っぁあぁぁぁっ!!」


 突然の悲鳴に胸が弾かれる。

 その衝撃に私の目は開かれた。

 その声には聞き覚えがあったから。

 開かれた目の先にあったのは湖に浮かぶ黒い箱。

 沈んだはずの黒い箱が浮かび上がってきたことで、周囲の人間はひどく動揺していた。

 そして、声をあげながら箱から溢れ出てきた女。

 あの一人、場違いな装いの女。


 その女の顔は、紛れもなく、彼女だった。


 その衝撃に私の目は開かれた。

 開かれた目の先にあったのは優しい彼女の笑顔。

 スマホのアラームが彼女の手によって止められた拍子に、私は目を覚ました。

 彼女は優しい声音で言った。


「次は見捨てないでね♡」


 私は力なく頷いた。

 



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沈む箱 うめもも さくら @716sakura87

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