10000分の4

栗尾りお

とある日の話


 コトリと音を立てる。


 ページを捲る白髪頭の意識は本の中のようだ。湯呑みと『それ』を置いた私に目もくれない。


 大事なのは期待しないこと。


 本を読む夫と家事をこなす私。会話のない老後の生活にもすっかり慣れた。



 「おい」



 台所に戻る背中に声がかかる。振り返ると本を片手に例のものを持ち上げていた。



 「この箱は何だ?」



 湯呑みより少し大きい黒い金属の箱。元は貴重品入れだったのか。蓋にはダイヤル式の鍵が付いている。



 「バザーで買ったのですよ。私からのなぞなぞです。数字を当てて開けてください」



 「ふん、くだらん」



 そう言って夫は箱を机に戻す。それを見た私は台所へ向かった。


 大事なのは期待しないこと。

 10000回ダイヤルを回すより、物語の世界を選ぶ。60年間を共にした相手の行動は予想通りだった。


 なら、この胸の痛みは何なのか。



 「明日は暇か?」



 呆れながらも振り返る。


 見慣れた夫。その手には箱に入れたはずの2枚の紙があった。

 読みふけっていた本。その側に置かれた箱は大きく開いている。



 「誕生日、結婚記念日、プロポーズした日……そして初デートした日。4回目で開いたぞ」



 「……どうして」



 「60年間共にしたんだ。お前の考えくらい分かる……本当にくだらん」



 そっぽを向く。その顔は少し赤らんでいた。


 偶然、友達から貰ったチケット。初デートと同じ日に同じ所に行きたいなんて、老婆の姿で言えるはずがなかった。


 大事なのは期待しないこと。


 それを分かっていながら、気持ちを箱に込めた。

 初デートの日なんて覚えているはずがない。明日までに10000回もダイアルを回すはずがない。

 そう否定的な未来を自分に言い聞かせて。



 「で、明日は暇か? 俺は問題ない」



 「はいっ! 私も大丈夫です!」



 明るい声が2人だけの部屋に響いた。







 当日は晴れだった。

 少し寒さの残る休日。日向を選びながら、目的地を目指す。

 意図せず触れた互いの手。どちらからともなく繋いだ手は、あの頃と同じ温もりだった。

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