幸せ

 桜のつぼみがぷっくりと膨らみ、今にも咲かんとしている上野公園で、茉由子はたった今、総一郎から芝山家の秘密を聞き終えたところだった。


 話の方に集中しているうちに、いつのまにか不忍池の周りを三周もしていたようだ。心なしか太陽も少し傾きを増している。


 二人は足を止め、のんびりと水上を進む水鳥を眺めながら茶屋で買ったお茶で喉を潤した。


「茉由子さん、驚いた?」


「驚いたというか、驚いたという表現では足りないような感じがします。けれど」


「うん」


「信じます」


 短い答えに、総一郎はやや不安そうな顔をした。それを感じ取った茉由子は丁寧に伝えることにした。


「言葉が足りなかったですね。適当に、信じると言っているわけではないです。


 話の内容自体は、おとぎ話みたいだと思いました。けれど考えてみると、少し分かる点もあるんです。


 たくさんの人を雇ってクリームの評判を作り上げたり、広告を出さず一般のラジオ投稿から名前を売ったり、なんだか近未来の物の売り方だな、って思っていたんです」


「それはそのとおり。『夢』で見た未来の景色から思いついた案だった」


「やっぱり。それに……


 それに、総一郎さんはそんな嘘をつく人ではないし、紅さんたちご家族を巻き込んでお話を作ったりもしないです。だから、信じます」


「そうか」


 総一郎は照れくさそうに笑った。


「ありがとう」


「お礼を言われるようなことは何も」


「それでね、あと二つ聞いてほしいことがあるんだ。これはどういう順番で言えばいいか、さっきまでずっと迷っていたんだけど、思い切って言う」


「前置きがなんだか気になるんですけれど、はい」


「さっき言っていた、紅が見える『光』のことなんだけれど」


「ええ」


「茉由子さんは『光って』いるらしい」


 熱心に羽根をつくろうカモを見つめていた茉由子は、反射的に総一郎を見た。


「私が!?」


「そうらしい」


「私が……」


 茉由子はそう言いながらも、思い当たる節があった。


「だからあの日、紅さんは私を総一郎さんに会わせたんですね」


 初めて紅と言葉を交わした日、紅が妙に眩しそうにしていたことも記憶に甦ってきた。


「そう。これまで黙っていてごめん」


「それはいいのですけれど」


 茉由子は頭の中のさまざまなパーツを懸命に組み立て、考えた。


 自分の存在が芝山家に恩恵を与えるというのであれば、クローバークリームが今大成功し、東京でも大阪でも大争奪戦が繰り広げられているのは、自分たちの頑張りの結果ではなく、何か運命のようなものなのだろうか。

 しかし一方これは家業ではなく総一郎の事業であるため、関係ないのだろうか。


 黙ってしまった茉由子の様子を見て、総一郎が


「今茉由子さんが考えていることは、正直僕も考えた」


 と言った。


「どこまでが努力の成果で、どこからが『光』の恩恵か、とか、クローバー商会は芝山家の事業と言えるのか、とか考えているでしょう」


「総一郎さん、もしかしてそっちの能力も……」


「ないない。けれど僕もその点についてはずっと考えているから。そして答えは」


「出ないですよね」


「そう、出ない」


「たとえ私がある日クローバー商会をやめても、結局『光』がどの程度結果に影響していたかなんて、誰にも言い切れないということですね」


「そう。ただ紅も僕もはじめは、父親から茉由子さんを守るつもりで仲間に取り込んだんだ。あの頃の父親なら、茉由子さんを拉致でもしてしまいかねなかったから。


 今言っても説得力がないけれど、茉由子さんも『光』も利用しようっていう気はなかったんだ」


 総一郎は緊張した顔で、言葉を選びながら慎重に説明しているのが分かる。しかし驚きはしたものの、茉由子はまったく気にならなかった。


「総一郎さんも紅さんも、そういう人たちではないですもの。


 それに、さっきから考えていたのですけれど、クローバークリームは『光』なんてなくても成功するだろう、素晴らしい製品です。

『光』のお陰で『成功』が『大成功』になっているのであれば、それは単なるラッキー、でいいんじゃないかしら」


 一気に言い終えてから、茉由子は少し心配になった。


「考え方が単純でしたか……」


 総一郎はぶんぶん、と大きく首を振った。


「僕も同意。そう考えられるようになるまで、もっと時間がかかったけれど」


「良かった。では、このことについてはあまり深く考えないようにしましょう」


 総一郎が優しく微笑んだ。


「それにしても紅さんは、毎回私を見るたびに眩しいのでしょうか?」


「うーん、慣れたらしいよ」


「慣れるものなんでしょうか…ちなみに卒業式から会っていないですけれど、紅さんはお元気ですか?」


「忙しくしているよ。僕が父親と和解した後、紅も父と話したんだ。


 紅、大学で化学を学びたいらしい。来年の入学を目指して、これから猛勉強するって」


「素敵!紅さんにぴったりですね!」


「耕介に指導してもらうらしい。そう言ってる耕介は、単位が足りなくて昨日留年が決まったんだけど……」


「あら……仕事のせいですね……」


「ほぼそれだよね……。申し訳ないから、学費を出してくれている耕介のおじい様のところに近々一緒に謝りに行く予定」


 茉由子は厳しそうな老人に叱られて小さくなる総一郎と耕介を想像し、思わず笑ってしまった。


「笑いごとじゃないんだよ、本当に恐いらしいから、お仕置きで蔵に入れられるかも。この歳で」


「ふふふ、余計に笑わせないでください。それで、もう一つのお話はなんですか?」


「あ、うん。えっと」


 総一郎はふっと笑顔を消し、真剣な眼差しで茉由子を見つめた。

 その視線で何の話かを察した茉由子は、心臓がきゅっと収縮するのをはっきりと感じた。


 初詣で総一郎への気持ちを自覚してから、三か月近くが経っている。

 あちらに営業、こちらに納品、と日々はちゃめちゃに忙しく過ごしていたことが幸いし、どうにか正気を保っていたが、毎日考えない日はなかった。


 総一郎は自分のことを憎からず思っているだろうとは思っているけれど、その気持ちをどうしたいのかはまったく予想が出来なかった。

 早く聞きたい気持ちと聞くのが怖い気持ちが混ざり合い、茉由子は自分の鼓動が聞こえるほどに緊張している。


 よほど顔が強張っていたのだろう、それを見て総一郎は逆に緊張が解けたのか、目元をふっと緩ませた。


「茉由子さん、僕はあなたが好きだ」


 総一郎はそう言い、一拍置いてあとの言葉をつないだ。


「本当はもう、随分前からあなたが好きだった。

 今日の話みたいな秘密はもうないけれど、もっと僕のことを知ってほしいし、それ以上にあなたのことを教えてほしい。


 仕事はもちろんだけれど、それ以外でもたくさん一緒に時間を過ごして、思い出を作っていきたい」


 そして深く息を吸い込んだ総一郎は、はっきりとした声で言った。


「僕と結婚してください」


 まっすぐ見つめる総一郎の目線に、茉由子はまたもう一度恋に落ちるような錯覚を覚えた。まさか結婚を申し込まれるなんて想像もしていなかったけれど、答えはもう決まっている。


「総一郎さん、私もあなたが好きです。大好き」


 茉由子も深く息を吸い込み、大きな笑顔で答えた。


「喜んで、あなたの妻になります」


 ***


 どちらともなく手をつないだ二人は、また散歩を再開するため歩き出した。


「緊張した……人生で一番緊張したよ」


 そう言う総一郎が、茉由子には途方もなく可愛く見える。


「けれど総一郎さん、私の気持ちには気付いておられたでしょう?」


「嫌われてはいないと思っていたけれど、いきなり結婚っていうのは引かれたらどうしようって思ったんだ。でも中途半端にはしたくなくて」


「とても嬉しかったです」


 茉由子はまた「大好き」と言ってしまいそうになるのを、すんでの所で堪えた。たまりにたまった気持ちがやっと出口を見つけ、あふれ出ようとしているようだ。


「けれど結婚ってなると、心配があるんです」


「なに?」


「うちの家、まだ総一郎さんのお父様に借金があります。

 だからお父様の印象が良くないんじゃないかというのと、借金を返しきるまではいくらなんでも嫁入りできないなと思います」


「心配」と聞いて不安そうな顔をしていた総一郎は、茉由子の説明を聞いてまた笑顔になった。


「うちの父は、茉由子さんを心底気に入っているよ」


「え、本当ですか?」


「うん、それに、借金はもうない」


「え?」


 茉由子は訳が分からなかった。少なくとも三年ほどは払い続けなければいけない金額だったはずだ。


「どういうことですか?」


「裁判で、保険料を持ち逃げした人が払うことに決まったって」


「そんな、まさか!」


 そう言いながらも、茉由子は思い当たる節があった。少し前から、食卓に並ぶ食材が明らかに豪華になっているのだ。母に臨時収入でもあったのかと思っていたが、そうではなかったようだ。


「本当。茉由子さんに結婚を申し込む承諾を穣さんにもらった時に聞いたし、僕の父自身もそう言っているから」


「ええええ……」


「だから、何も心配しないで」



 茉由子は不思議な気分になった。

 一年前には借金を背負い、父の貿易事業が頓挫してどん底だったのに、その借金はなくなって会社は形を変えて復活した。

 家族は生き生きと毎日働いているし、自分は情熱を注げるものと大切な盟友、そして総一郎という存在まで出来た。


 変わってしまってもう戻らないものもあるし、これまでの人生で一番過酷な一年だったけれど、はっきり言えることがある。


「私、いまとっても幸せ」


 そう声に出して言った茉由子は、総一郎の手をぎゅっと握った。 (終)





 ☆☆☆☆☆

 長い話となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!

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崖っぷち大正ガール、誰にも言えないお仕事をする 珠山倫 @kippis

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