第3話 奉公先での芸者時代
時は早いもので、それから一年の時が流れ過ぎた。房江は特に器量の良さもあったために、芸者へと育てられることになった。
房江も見習いとして、一人前になるための、教育を受けた。礼儀作法から始まり、三味線、踊り、接客について、年上の芸者から教わったのである。それは厳しいものであった。
三味線は手先の器用さから、上達が早かった。さまざまな曲を覚えていった。踊りは伝統的なものであったが、器量の良さと体の美しさから、妖艶たる輝きを放ち美しいものであった。しかし、接客がどうしても上手くいかなかった。性格的に大人しいこともあり、積極的に話す事が苦手であったからだ。特に大人びた会話はまだ、若かった事もあり、客と上手く話しを合わすことができなかった。
ある日の事であった。その日は置屋からは良く思われていない、下品な客が来た。しかし、客は富豪であり、置屋もお世話になっていたので、出入りを仕方なく許していたのだ。
「女将、そういえば、房江という器量のいい娘がいるが、今日は私の相手をお願いするからな」
「いえ、房江はまだ、芸者としては半人前ですので、もっと経験のある芸者をおつけしますので」
「いや、私は若い娘が好きなんだ。どうか、頼むよ」
「わかりました……」
そして、房江はその客の相手をすることになった。
「おお、お前は本当に器量がいいな、また、いい体をしているじゃないか」
「いえ、私はまだ、未熟者ですから、とてもではありませんが、お客様を十分にもてなす事ができるか心配であります。」
「そういう、未熟なところが、私は好きなんだ。私と今日は夜を共にしないか」
「いえ、それはできません」
「何、私の言う事が聞けないというのか」
「申し訳ありません」
「いいじゃないか、こっちに来い」
「いや、やめてください」
房江の声は大きく響いた、それを女将が聞きつけて現れた。
「申し訳ありません。他の者を相手させますので、この娘は、まだ、未熟なのです。ほら、あなたも謝りなさい」
「申し訳ありません、申し訳ありません」
客が帰ると、女将は諭すように房江に話した。
「房江、こういう時もあるのよ。その時は仕方がないから、わかっているでしょ」
「はい」
「あんたの体の一つや二つくらい、なんてことないの、しばらく我慢すればいいのよ」
「わかりました」
房江はどうしても、我慢ができずに置屋を飛び出した。しかし、行くところもなかったので、仕方なく置屋に帰ってきたのだ。
女将は気を利かせて、この客には相手をさせないようにしたが、平気で体に触ってくる客も多く、房江には辛かった。
しかし、他の経験のある芸者は客と上手くやりとりをしていたので、その話を聞くと自らの未熟さを痛感するのであった。そして、悲しかった。
哲夫はその姿を見ては不憫に思っていた。そして、助けてあげられない自分が情けなく思うのであった。稽古中でも涙しながらも健気に頑張っている姿を見ており、次第に恋心を抱くようになっていった
ある日、一人で芸者としての稽古をしていた時の事、練習部屋で三味線を強く弾いていたら、糸が切れて、弦が廊下へ飛んでいった。その時に哲夫は廊下にいたのだった。おもわず、二人は視線があった。
「申し訳ありません。私の不注意で、稽古中に三味線の糸が切れてしまいました。そちらに飛んでいったようです。お怪我はありませんでしたでしょうか」
「いえ、大丈夫です。それより、あなたの弾く三味線の音色に惹かれて、ここまでやってきました」
「恥ずかしゅうございます」
「いえ、恥ずかしいのは私の方です」
「どうしてでしょうか?」
「それは言えません」
「申し訳ありません。失礼な事を申し上げてしまいまして」
「いえ、私の方こそ、申し訳ありません。さあ、稽古をお続けください」
「ありがとうございます」
それを一人の芸者が障子の隙間から見ていた。芸者はキリという名の一番、年長であり、経験も豊富であった。そして、哲夫に対して淡い恋心を抱いていた。嫉妬心ゆえ、それ以来、房江に辛くあたるようになったのである。
キリを姉のように慕っている芸者もいたため、房江に対する様々な虐めが始まった。また、その頃、房江は接客は苦手であったが、ある程度はできるようになったため、芸者の中では最も人気が高かったのである。
そのため、嫉妬心のある芸者が多かった。中には客を取った、取られなかったなどの揉め事にまでなったりしたのであった。房江は一番年少であったため、結局は房江が叱責されることになったのである。
それは、ある夜のことだった。女将の大きな声が飛んだ。
「キリ、松平様がお見えよ。早く着替えていらっしゃい」
「はい、すぐに着替えて参ります」
キリにとって松平という客は一番の上客であり、父親のように思っていた。その松平が久しぶりに来たので、とても嬉しく思った。
「女将、そういえば、房江という器量のいい芸者がいると聞いたが、今日は房江に相手してもらえないだろうか」
「松平様、それは少しどうでしょうか。キリも楽しみにしておりますし……」
「まあ、そこを何とか頼むよ」
そのやり取りがキリには聞こえていた。キリは涙に溢れた。そして、置屋を飛び出して行こうとした。
「おお、キリじゃないか」
「松平様の馬鹿」
「キリ、そう言いうな。たまにはいいじゃないか」
「もう知りません……」
「わかった。わかった。じゃあ。キリ、今日も相手をしてくれ」
「本当でございますか?」
「ああ」
「でも、私より、あの、房江という芸者に気があるのではありませんか?」
その後、接客が終わり、松平を見送りすると、房江を呼び出した。
「あなた、松平様に気をひくために、何かしたでしょ」
「いえ、私は何もしておりません」
「嘘をつきなさい。どうせ、あんたが、色気で何かしたのでしょう。恥ずかしくないの?そういうことをして」
パチン
キリが房江の頬を叩く音が響いた。
「あなたみたいな色女はこの置屋から出て行って」
「いえ、そのような事は一切しておりません」
そこに哲夫が現れた。
「どうしたのですか?そのような大きな声で」
「あ、哲男様、聞いてください。この色女が私の大切な客を取ったのです」
「いえ、決してその様な事はありません」
「嘘をつかないで、あんた、恥しくないの」
「本当に何もしておりません。哲夫様、信じてください」
「あら、あなた、哲男様にまで色目を使うのね」
「まあ、まあ、二人ともやめなさい。見苦しいですよ」
「そうでした。哲夫様の言うとおりですね。でも、この泥棒女が一番いけないのです」
「キリも一番経験が長いのだから、この位のことは許す気持ちがないと駄目ですよ」
「あらまあ、そうですね。私としたことが、申し訳ありません」
「いえいえ、キリのおかげで、この置屋は繁盛していますから」
「まあ、ありがとうございます」
「じゃあ、房江の事を許して、仲良くしてくれ」
「わかりました」
その様に哲夫はキリに言い部屋へ返っていった。
「あんた、調子に乗らないでね、今日は哲男さんが、ああ、言うから許してあげるけどね。いつか、痛い目にあうわよ」
房江は新人であり、キリは一番の年上芸者であったので、何も言い返すことが出来ず、辛い思いをしたのだ。
翌日になって、哲男は房江を呼び出した。
「房江さん、昨日は申し訳ありませんでした」
「いえ、哲男様に恥ずかしいところをお見せして申し訳ありません」
「いえ、悪いのは私の方であります。あの時はあのように言わないと収まらなかったものですから。私は房江さんの素直で優しいところが好きであります」
「何を恥ずかしいことをおっしゃいますか」
「本当です」
「それでは、失礼いたします」
房江は恥ずかしさのあまり、哲男の部屋を後にした。その事をキリは部屋の外から聞こえていたのだ。そして、さらに嫌がらせが増えていくのであった。
そのため、一人の芸者を除いて、房江は孤立してしまったのである。一人の芸者というのは、美代という芸者で同じく青森から奉公に来ていた事もあり、唯一の友達、いわば、親友であった。
美代は時々、嫌がらせに近い事をされている房江を、慰めてくれたり励ましてくれていたりして、互いに信頼しあっていたのだ。
ある日、房江の上客が来た時の出来事であった。この客は房江の三味線の音色が特に好きであったこともあり、特に可愛がってくれていたのである。早速、三味線を探したが、どこにも三味線がないのだ。その事を美代に告げ、一緒に置屋のいたるところを探すもどこを探してもなかったのだ。そこで、美代は感が働いた。
「まさか、キリ様の仕業じゃないかしら。この間の一件での仕返しかもしれないよ」
「そうね、聞いてみないと。時間がないわ」
「キリ様、私の三味線はご存じありませんか?」
「あなたのような泥棒女なんかの三味線は川に捨てたわ。どうせ、松平様に色気や体を使って気を引いたでしょ」
「そんな事はありません」
しかし、そう言っている場合ではなかった。慌てて、房江は美代と一緒に川へ三味線を探しに行ったのだ。しばらく探すと三味線が川沿いに捨てられていたので拾った。
その時の満月が、とても美しかったので、一瞬、心に響いた。しかし、客は待っていたので、大急ぎで客間に帰って接客したのであった。こういった、悪質な仕業が多く、悲しい思いをしていた。
このように、房江には辛い芸者の仕事が毎日のように待っていたのであった。しかし、三味線を探していた時の満月は美しく、房江の心にいつまでも残ったのである。
赤い橋と満月の夜 虹のゆきに咲く @kakukamisamaniinori
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