第2話 奉公先での女中時代

 翌日から、奉公が始まった。置屋の中は廊下が縦横並んで複雑な構造をしていた。芸者が客をもてなすためには、そういった建物の構造が必要であった。中には遊女が相手をすることもあり、客同士で顔を合わせづらいということから、女将からそのようになったと聞いたのだ。

 房江はまだ、幼かったため、遊女の意味がわからなかった。まずは、置屋の広く長い床拭きから始まり、庭の井戸から組んでくる冷たい水は、あかぎれをした手に冷たく痛くしみて辛かった。建物は広かったので、最初は何処を拭いているのかもわからないくらいで、年上の女中から、度々、叱られていた。


「ほら、あんた、ここも拭き残しがあるわよ」

「ごめんなさい」

「ごめんなさいではなくて、「申し訳ありません」と言いなさい」

「申し訳ありません」

「ほら、私たちの仕事の邪魔になるじゃない」

「はい」


 あまりの辛さに遠く故郷を想いだしながら、置屋の広い敷地内の庭の木に隠れて泣き出す事が多かった。女将から与えられたばかりの着物の袖は涙で溢れていた。

 床拭きの後は皿洗いの仕事が待っていた。洗い場には、山のように積み上げられた皿があり、大きな皿から小さな皿まで一枚、一枚、洗い上げていった。それは床拭き同様に手が痛くてたまらなかった。

 奉公先は客も多かったので、皿の量は膨大であり、気が遠くなるようだった。洗い終わる頃には忙しさのあまり、その夜は疲れ果てて眠った。

 このような日が続くと思うと、置屋から逃げ出してしまいたいと、思うほどだった。しかし、元々、我慢強かったので、少しずつ慣れていった。しばらくすると、次第に手際もよくなっていった。

 ある日の夜の事、上客が利用する部屋の片づけの際に、大事な壺に当たり割れてしまったのだ。壺は大きく美しい壺であった。


 パリリンと音が悲しく響いた。


「あら、あんた、何てことをしてくれたの、この壺は大事な壺なのよ」


 たまたま、そこに居合わせた女将の厳しい声が飛んできた。


「この壺は藩士様からもらったのよ。一体どうしてくれるの」

「申し訳ありません」

「お前が謝っても済む事じゃないの。そのくらい大事な壺なのよ」


 藩士は身分も高く由緒ある家柄で、房江の奉公していた置屋に、しばしば訪れていた。置屋にとっては、これ以上にないくらいの上客であったのだ。

 何度も畳に頭をつけ、涙を流しながら謝った。そこに青年がたまたま、現れた。


「母上」

「あなた、ここでは女将と言いなさいと、何回も言っているでしょ」

「申し訳ありません。女将」

「どうしたの、哲夫」

「この、女中はまだ、間もないです。どうか、許してあげてください」

「じゃあ、この壺は一体どうするつもり? 取り返しのつかない事をしてしまったのよ」

「大丈夫です。女将。私が藩士様のところへ行く機会がありますので、代わりにお詫びをしてきます」

「それで許してくれると思うの」

「はい、私と美津子様は……」

「それ以上言ったらいけません。まだ、決まった訳ではありませんので」

「はい、そうでした」

「まあ、いずれはそうなるでしょうけれども、あなたがお詫びにいけばすむでしょう」

「はい、私にお任せください」

「あんた、良かったわね。哲夫があなたの代わりにお詫びに行ってくるのよ」

「申し訳ありません」

「いえ、お気になさらないでください」


 優しく、そう言いながら、自分の部屋に帰っていったのだ。哲夫は、女将の一人息子で跡継ぎでもあった。前々から、健気に働く房江の事が気になっていたのだった。普段は身分の違いから出会う事はなかったが、初めて房江と話したのだった。  

 このことを想いだす度に、房江の心の中に恥じらいと、恋心というものが、芽生え始めたのである。廊下を歩く音が聞こえる度に哲夫ではないかと、仕事中も気になり始めた。哲夫は背たけも高く好青年であり、芸者達からも憧れの存在であった。この時、房江は若干、十六歳、哲夫は二十歳である。二人ともに恋愛の経験がなかった。

 実はこの頃から、置屋と親しくしている藩士の娘である美津子と、哲夫との縁談の話が、出始めていたのだった。この時に二人はまだ知り合っていなかったのだ。

 哲夫はこの定めを快く思っていなかったのである。美津子という人物が、どのようなものかも知らずに、親同士で決めるという事に対して、疑問を抱いていたのだ。

 哲夫は房江の事が気になっていたので、房江が置屋の片付けの時には、毎日のように、さり気なく顔をだしていた。気になって仕方がなかったのである。  

 時々、目線が合うと、互いに恥ずかし気に目線をそらすまでになっていった。しかし、身分の違いという事もあり、それ以上に話しかける事はなかった。

 それは、房江も同様であった。哲夫は雲のような遠い存在であり、決して手に届くはずがないと思っていたのだ。その頃は淡い憧れくらいに過ぎなかったが、遠く切ないものであった。


 

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