第5話

「先生。私はこの屋敷に囚われているのです」

「囚われている……。それは一体どういう――」

「自由とはなんでしょうか」

 やはり私の問いに答えることはない。


「先生は自由ですか。学生とはいえ、いろいろなしがらみがあり、ご自身ではそれ程自由を感じていらっしゃらないかもしれませんね。でも私よりはずっとずっと自由なはずですよ。私は生まれてから、この屋敷以外の世界を知りませんから」

 教授から聞いていた話はどうやら本当のことのようだった。


「……何故」

「それは私がこの家に生まれてきたから。両親にとって私は、将来どこかの名家から養子を取り、この家を繋いでいく為の駒でしかないのです。だから決してどこにも出さず、この屋敷に閉じ込めることで万が一の事が起こらないようにしているのです」

「……そんなことが今の日本で許されるはずがない」

「そうでしょうか。現に今先生の目の前にいるではないですか」

 薫子は頭を伏せたまま話しているので、今どのような顔をしているのかは分からない。


「私は籠の中の鳥。決して自由に空を飛ぶことの出来ない哀れな鳥なのです」

「……逃げようとは思わないのか」

 そこまで思っているのであれば、ここから逃げ出すことも出来るだろう。

 しかし薫子は頭を振る。


「どこに逃げろというのですか。本でしか世間の事を知らない子供が、ここから逃げ出したとしてどうして生きていけましょう。それにすぐに捕まって連れ戻されてしまいます」

 そこで初めて、薫子の小さな身体が震えていることに気付いた。


「だから私は待っていたのです。ここから連れ出してくれる勇気のある人を」

 私の身体を抱く腕に力が籠る。


「先生。あなたは他の人とは違う。きっと私をここから連れ出してくれる。私に本当の自由というものを教えてくださる方です」

「待つんだ薫子君。僕は――」

 私は薫子の両肩を掴んで引き離そうとするが、それまで以上の力で抱き着いてくる。


「離すんだ薫子君」

 私は力の限り薫子の体を引き離すと、その勢いで小さな薫子の身体は尻もちを突くような形で倒れた。


「――ああ、ごめん。大丈夫かい」

 私はその様子に慌てて薫子へと手を差し出す。


「何故です……」

「――え」

「あなただと思ったのに、何故……」

 そう呟きながら上げた顔は、怒りとも悲しみとも取れる――哀しい表情をしていた。

 そしてその両まなこから流れ落ちる涙が頬を伝って真っ赤な絨毯へと落ちた。


「出て行ってください……」

 そして再び顔を伏せた彼女に、私はそれ以上かける言葉が見つからず、無言で部屋を後にしたのだった。



 私は翌朝一番で荷物をまとめて、家庭教師を辞することを使用人に告げて屋敷を後にした。

 おそらく彼女は部屋を、ではなく、ここから出て行けという意味で言ったのだろうと解釈した。もし違っていたとしても、私にはこれ以上家庭教師を続けることは出来なかった。


 教授に家庭教師を辞めたことへの謝罪に向かったのだが、「そうか、君も駄目だったか」と言い、特に咎められることもなく、残りの給与に関しては教授の方から話をしてくれるとまで言ってくれた。

 そして、「出来るだけ早く忘れなさい」と、最後に全てを知っているかのように言った。


 あれから私は大学を卒業し、就職、結婚、子宝にも恵まれた。

 時代は昭和から平成、そして令和へと変わった。

 私は定年を迎え、今は自宅で悠々自適な日々を送っている。


 しかし薫子のことを忘れることはなかった。


 最後に見た彼女の表情は今でも鮮明に覚えている。

 私は彼女の期待に応えることは出来なかった。もしもあの時に彼女の手を取っていれば、そう思った事も何度かあるが、当時の私に何が出来たかと考えると、やはりどうしようもなかったのだ。


 彼女は自分を籠の中の鳥だと言った。

 しかし、私はそうは思わない。

 あれはそのように美しく見えるものなどではない。


 アレはおぞましい呪いの『はこ』だ。


 久我咲家という出口の無い匣に閉じ込められた哀しき少女。

 それが久我咲薫子という存在。


 では彼女が呪っていたのは何だっただろうか。

 自分を閉じ込めた親か、それとも久我咲家そのものか。


『女性は秘密の一つくらいあった方が魅力的だと本で読んだことがあります』


 彼女が私の問いに答えなかったのはそういうことだったのだろうか。

 しかし私はある推論を立てている。

 彼女が呪っていたのはそのようなものではないのではないか。

 彼女が想いを込めて釘を打ち続けていたもの――


 それはこの世界。

 もしくは、彼女を取り囲んでいる世界そのもの。


 今の自分を閉じ込めている世界を呪いで壊すことで現状を脱しようと考えていたのではないだろうか、と。

 それくらいしか当時の薫子には出来ることが無かっただろう。

 いつか誰かが助けてくれるかもしれない。そんな儚い夢を抱えて生きるには、彼女の境遇はあまりにも過酷だった。呪いというオカルトなものに頼ってでもいなければ心が耐えられなかったのかもしれない。もしくはすでに壊れてしまっていたのか。


 あれから薫子がどうなったのかは知らない。

 調べようとすればいくらでも方法はあっただろうが、意識して調べないように生きてきた。きっとこれからも彼女の事を知ろうとすることはないだろう。

 彼女の伸ばした手を振り払い逃げ出した自分にそんな権利は無いのだ。


 それでも想うことが叶うのであれば、彼女が幸せな人生を送っていてくれることを、心の底から願うのだ。




――コンコン コンコン



 それは彼女が世界を呪う音。



――コンコン コンコン



 それは彼女が『匣』の中から救いを求める心の叫び。



 今も耳の奥で響いている。




【了】

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【KAC20243】Knocking on your door 八月 猫 @hamrabi

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