第4話

 迷いは無かった。

 私は昨日と同じく寝間着のままに廊下に出て耳を澄ます。

 何の光も無い廊下は足下すら見えない暗黒の世界。

 私は息を殺し、全神経を両の耳に集中する。


――コンコン コンコン


 音はどうやらこの階よりも下から聞こえてきているようだった。

 私は手探りで壁を伝い、足下を確認しながら階段を下りる。


――コンコン コンコン


 音はある一定の間隔を上げながら続いて聞こえてくる。

 玄関ホールに下り、記憶を頼りに一階の廊下を屋敷の奥へと向かって進んでいく。

 応接室のドアと思われる手ごたえを指先に感じる。ここから先はこれまで入ったことが無い。久我咲氏の集めた骨董品などが置かれてある部屋があるので入らないようにと最初に注意を受けていたからだ。しかし今はそんなことは気にならなかった。聞こえてくる音は明らかに大きさを増し、この先から聞こえてきているのだから。


 ゆっくりと、足音一つ、吐く息の音すら悟られないように進んでいく。

 心臓の音が聞こえてくる音よりも遥かに大きく内耳に響いてくる。額から流れ落ちた汗が首元を伝い、壁に触れている手の平にもじっとりとした汗が滲んでいた。


 突き当りまで進むと廊下は左右に分かれており、僅かな明かりに照らされていた。左側を見ると、その先の突き当りには大きな窓があり、そこから月明かりが差し込んでいた。

 音はその廊下の右手側から響いてきている。

 私はごくりと唾を飲みこみ、それまで以上に慎重に歩を進めた。


――コンコン コンコン


 突き当たったところのドア。音はこの部屋の中から聞こえてくる。

 想像していた、薫子がどこかの部屋のドアをノックしているという予想は外れたが、では中側からドアをノックしているのだろうか。

 ということは、あの部屋がこれまで知らなかった薫子の部屋の可能性もある。

 ある程度の推測は立った。あれが薫子の部屋であるならば、特に徘徊しているというわけではないのだから、これ以上進む必要は無い。

 ましてや真夜中に女性の部屋を覗くなどということは道徳的に許されるものではない。

 そう考えた私は部屋へ引き返すことを決め、今来た方向へと振り返った。


――カーン カーン


 それまでよりも一層大きな音が聞こえ、驚いて大声を出しそうになった。

 今の音は何だ。ドアを手でノックする音とは明らかに異質な音。木槌で何か硬いものを思いっきり殴ったような乾いた音。

 もしかしたら、薫子が夢遊病で無意識の内に何か物を叩きつけているのではないかと考える。ならば下手をすれば怪我をする可能性もある。

 そう考えた私は、反射的に薫子の部屋と思わしき部屋へと向かい、そのドアノブに手をかけた。


――ガチャ


 ノブを回すと内鍵がかかっておらず、私が手に力を入れると、ドアは特に抵抗もなく手前に開いた。


「先生ですね」

 部屋の中を覗こうとした時、先に中からそう訊かれた。

 聞こえてきた薫子の声は、およそ寝起きのような雰囲気はなく、普段話している時と同じように思えた。


「薫子君。大丈夫かい」

 私はそう言いながら体を部屋の内側へと移す。そして室内を見た瞬間、全身が突如硬直したかのようになり、私はその場から動けなくなってしまった。


「もしかして本当に夜這いに参られたのかしら。それとも――この音で起こしてしまったのでしょうか」

 部屋の奥にある机の上には、小さなランタンのような物があり、その弱弱しい明かりに浮かぶ薫子は、全身白のワンピース型の寝間着に身を包みんでいた。


 彼女は部屋の壁の前に立ち、こちらを普段と変わらない感情の乏しい表情で見つめている。

 その手には木槌を持ち、向かっている壁には、大きなが無数に飾り付けられていた。

 その異様な光景に私は一言も発することが出来ず、ただこちらを見つめる薫子から目を離せずにいた。


「どうしました。せっかく来られたのですから、そんなところに立っていないで中に入られたらよろしいのに」

 木槌を机の上に置きながらそう言うと、薫子は口元に僅かに笑みを浮かべる。


「ここに来られたのは先生が初めてなんですよ。これまでの方は、皆途中で逃げ出してしまいました」

 私が動けずにいると、薫子の方から近づいてくる。


「先生はこれまでの方とは違って勇気がおありなのですね」

 すぐに目の前まで来ると、私の顔を見上げるようにそう言った。


「……これは」

 私は恐怖を無理やりに押し殺し、ようやくその一言を話すことが出来た。


「ああ、これは――『呪い』です」

 壁の藁人形の方に視線をやりながらそうはっきりと言った。


「呪い……」

「ええ、先生もご存じでしょう。丑三つ時に藁人形を打ち付ける。古来からある呪いの儀式です」

「誰を呪い――いや、何故こんなことを」

 薫子は私の問いに答えることなく、その華奢な体で私に抱きついてきた。


「――薫子君」

「先生。私はこの屋敷に囚われているのです」

 私の胸に顔を当てたまま呟くようにそう言った。



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