第3話
――コンコン コンコン
ノックの音に反射的に飛び起きる。
すでに室内は窓から差し込む陽の光で明るく、時計を見ると七時を少し過ぎていた。
――コンコン コンコン
私は昨夜の事を思い出し、慎重にドアへと向かう。
そして内鍵がかかっているのを確認すると、やはり昨夜の事は夢ではなかったのだと確信する。
「はい」
「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」
私はその返事を確認すると鍵を外してドアを開ける。
廊下にはいつもの年配のメイドが、朝食の乗ったスチール製のカートと一緒に立っていた。
「あの、すいません」
運んできた朝食をテーブルに移し替えているメイドに声をかける。
「何でしょうか」
メイドは手を止めてこちらを振り返ると、姿勢を正して真っすぐにこちらを見た。
「昨日の夜、というか夜中に誰か来ましたか」
「夜中ですか」
メイドは訝し気な表情になる。
「いえ、昨夜はどなた様も来られてはおりません」
「そう、ですよね」
「夜中に何かございましたか」
「いや、気のせいだとは思うんですけど、誰かがどこかの部屋をノックしているような音が聞こえた気がして」
「……この屋敷には先生とお嬢様しかおられません。おそらく気のせいでございましょう」
それだけ答えると、メイドは残りの作業を終わらせて部屋を出ていった。
珈琲の入ったカップを口に運びながら考える。
やはり、あれは夢でも気のせいでもなかったのだと。
メイドは確かに言ったのだ。この屋敷には私と薫子しかいないと。ならば何故、私の言葉を聞いて不審者が屋敷に来たかもしれないと危惧しなかったのか。
警備体制が万全だという自信があるからか。いや、それでも万が一の事を考えるのが使用人としての務めであるだろうし、薫子の事を全く心配する様子が無いのはおかしい。
つまり、あの聞こえてきたノック音はメイドの心配する必要の無い人物――薫子が起こした音であるということだろう。
メイドはその場を見て知っていたのだろうか。いや、おそらくは昨日が初めてではなく、これまでにもあったことだと考える方がしっくりくる。
薫子はどこの部屋の扉を、何故深夜にノックするようなことを……。
『夢遊病』
寝ている間に無意識で動き回り、本人が目覚めると何も覚えていないという病。まず最初に思いついたのがこれだった。
しかし私にはその病気に対しての知識が無さ過ぎて、どういう理由でどのような行動をとるものなのかの判断がつかない。
深夜の真っ暗な屋敷の中を虚ろな目をして歩く少女。そして何の目的も無く、近くの部屋のドアをノックしていく。
その恐ろしい想像に私は背筋が冷たくなるのを感じた。
「薫子君、一つ聞いても良いでしょうか」
その日の夜。いつものように私の部屋で鉛筆を走らせている薫子。
私はどうしても自分の思いついた考えを確認したくなり、慎重に言葉を選びながら切り出した。
「何でしょうか」
「薫子君の部屋はどこにあるんですか」
「どうしてそのようなことをお聞きになるんですか。ああ、もしかして先生は私に夜這いというものをかけようとお考えになられているのですか」
「い、いや違う。決してそのような不埒な真似をしようなどとは考えていません」
薫子の口から予想もしていない言葉が飛び出した事で、私は激しく動揺した。
「では何故私の部屋を知りたいのでしょうか」
「特に意味があるというわけではなく、強いて言えば興味本位くらいの軽い気持ちですよ。ここに来て二週間が過ぎているのに、考えてみれば君の部屋を知らないなと、そんなことを思っただけです。他意はありません」
私は嘘の理由を言ったことで軽い罪悪感を覚える。
「成程、確かに気になるかもしれませんね。教えて差し上げるのは構わないのですが……。ええ、ここは秘密ということにしておきましょう」
「教えて構わないのに秘密ですか」
「はい。女性は秘密の一つくらいあった方が魅力的だと本で読んだことがあります」
「そういうものなのですか」
「そういうものらしいです」
薫子はそう言うと、少しだけ首を傾げて微笑んだ。ここに来て彼女の笑顔を見たのは初めてかもしれない。
「それでは私はこれで失礼いたします」
その後も部屋の話に触れることはなく、いつものように軽く会釈をすると立ち上がった。
ドアを開け、こちらを振り返る。そして「おやすみなさい」までがいつもの流れなのだが、この日は――
「もし先生が夜這いを目的として部屋を聞いてきていらしたのでしたら、すぐにお教えしましたのに」
「――え」
「おやすみなさい」
驚く私の反応を楽しむかのように微笑み、ゆっくりとドアは閉められた。
相手は美しいとはいえ少女。しかも教え子である。間違っても手を出す様なことは出来ない。それに、あれは私をからかって遊んでいるのだ。ベッドの中でそんな事を考えていると、前日の様に眠れないまま時間が過ぎていった。
――コンコン コンコン
午前二時。そしてまたあの音が聞こえてきた。
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