第2話
私が薫子の家庭教師を始めて二週間が過ぎた。
平日の昼間は大学があるので、薫子の授業は大体は夜に行われる。
しかし、毎日決まった時間にやるのではなく、薫子が一人で部屋で勉強していて分からないことがあれば私の部屋を訪れるという不規則なものだった。
そしてその教えた時間が一時間だろうと、五分だろうと一日分の給料が貰えるというのである。
最初に話を聞いた時は何故住み込みなのだろうかと思ったが、確かにこの形で授業を行うのであれば、住み込みの方が好きなタイミングで質問に来ることが出来て効率的だと思う。
それならば、最初から部屋で勉強を見ようかと言ったのだが、それは薫子に辞退された。あくまでも分からない時だけで良いと。ずっと見ていられると逆に集中出来ないからというのが理由らしい。
私としてはその方が楽では良いのだが、立派な客室をあてがわれているだけでなく、朝と晩の食事まで用意されているのだから、あまり何もしないというのも居心地が悪いのだ。
一通り質問箇所の説明を終えると、薫子は参考書の問題を解き始めた。
腰の辺りまで伸びた艶のある黒髪。
鉛筆を走らせながら、垂れてきた横髪をしなやかな指先で耳元にかき上げる。
美人であることは間違いないが、まだ少し幼さの感じさせる顔立ちは、やはり少女特有のものであった。
「私の顔に何かついているのですか」
私がそんなことを思いながら横顔を眺めていると、薫子が不意にそんなことを言った。
「いえ、いつも真剣に勉学に向き合っていると思ったんですよ」
「それは当たり前なのではないですか。
「それはそうなのですが、世の中には真面目に取り組まない学生も多いのですよ」
「それは少々理解に苦しみますね。時間の無駄でしょう」
薫子の真っすぐな答えに、私は自分のこれまでの学生時代を思い出して苦笑するしかなかった。
薫子は高校に通っていないだけでなく、これまでに学校というものに通った経験が一切無い。
なので、勉強をする時は真面目に取り組むということ以外の考え方を持っていない。
それだけではなく、教授に聞いた話では、薫子は生まれてこの方この屋敷の外に出たことすらないというのだ。
この昭和の世にあって、そんなことがありえるのだろうかと信じられない気持ちでいたのだが、実際に薫子と話をしていると、それが真実だと思えた。
「はい。合っています。きちんと理解出来ているようで良かった」
問題を解き終えたノートを採点して、全て正解していることを確認した。
「ありがとうございます。それでは私はこれで失礼いたします」
薫子は参考書とノートをまとめると、軽く会釈をした後に立ち上がり入り口へと歩き出す。
ドアを半分くらい開けたところでこちらを振り向き――
「おやすみなさい」
そう呟くように言ってから廊下へと姿を消した。
この挨拶までが授業のある日の流れになる。
雑談などほとんどすることはなく、ただ質問に答えて問題を解いて帰っていく。
それ以外の場所で彼女に屋敷内で出会うことはなく、必ず私の部屋での授業時間にしか見ることはない。薫子の部屋がどこなのかすら知らない。
それを言うのであれば、私の雇い主である久我咲氏や、その妻であり、薫子の母親である久我咲夫人にも
私は教授を通して話をしてもらい、面接もせずに採用されたのだ。
この屋敷に現在住んでいるのは私と薫子、それと大勢いる使用人たちだけ。
一見異質に思えるのだが、正直名家がどのようなものなのか皆目見当がつかないので、もしかしたらこういうものなのかもしれない。
ただ薫子が屋敷から出たことが無いというのは、流石におかしいと感じてはいるが。
この日は大学の講義の間が空いたこともあって、珍しく学生会館の一室を無断使用して昼寝をした。
それが災いしてか、ベッドに入ってからも中々寝付くことが出来ずに、何度も寝返りを打っては体勢を変え、何とか眠りにつこうと奮闘していた。
――コンコン コンコン
ノックの音が聞こえた。
しかし音が遠い。この部屋のドアの音ではない。
使用人のいる部屋は離れの建物だ。
今この本館にいるのは私と、おそらく薫子だけのはず。
ならばノックの相手は使用人の誰かで、薫子の部屋のドアをノックしたとしか考えられない。
こんな時間に訪ねる用事があるのだろうか。
もしあるとすれば、不在にしている久我咲夫妻に何か不慮の事態が起こったくらいのものだろう。
私はそんな嫌な想像をしながらベッドから起き、寝間着のままで廊下へと出た。
――コンコン コンコン
廊下に出てもノックの音が聞こえる。
遠くから響くような音が静寂に包まれた屋敷の中に小さく響いていた。
どちらから聞こえているのかと耳を澄ませてみると、どうやら音は下の階から聞こえてきているようだった。
そうすると玄関のドアを誰かが叩いているのだろうかと一瞬考えたが、使用人であれば鍵を持っているだろうし、門を通って入ってくることの出来る者なら久我咲夫妻以外にあり得ないはずだ。
ならば誰がどこをノックしているのか。
私は急に恐ろしくなり、部屋に戻ると、しっかりと内鍵をかけてベッドの布団に潜り込んだ。
そしていつの間にか眠ってしまい、気が付けば朝になっていた。
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