【KAC20243】Knocking on your door
八月 猫
第1話
――コンコン コンコン
時刻は夜の八時を少し過ぎた頃。部屋のドアをノックする音が聞こえ、私は読んでいた本に栞を挟んで席を立った。
「どうぞ」と返事をすると、私がドアに辿り着く前にドアノブが回され、ゆっくりと開いた先には一人の少女が立っていた。
「先生。今少しお時間よろしいでしょうか?」
大きな瞳に通った鼻筋。まるでフランス人形のように長いまつ毛の少女は、その美しい顔に一切の感情を浮かべずにそう言った。
「ええ、構いませんよ。どうぞお入りください」
私は少女を中に招き入れ、自分の机の横にいつものように椅子を並べて、そちら側へと座った。
少女、この屋敷の一人娘である「
「ここの公式なのですが――」
夜分に男の部屋を少女が一人で訪れるというのは、少々常識から外れている行為なのかもしれないが、これはこの屋敷では普通のことであった。
そもそもこのような状況になったのには理由があった。
遡ることひと月程前――
「君、よかったら一つ仕事を頼めないだろうか」
大学の授業が終わった後、私は教授からそんなことを唐突に言われた。
「何か講義で必要なことでしょうか」
「いや、そうではない。仕事というのは本当の意味での仕事だよ。つまりアルバイトを頼めないだろうかということだ」
「アルバイト、ですか」
「ああ。知り合いに家庭教師を任せられる人物はいないだろうかと言われていてね。いろいろと考えたんだけれど、君ならば任せられるのではないかと思ったのだよ」
教授とそれ程親しい間柄ではない。
むしろ直接言葉を交わすことすら、これまでそう何度もあったという記憶がない。
そんな私について何を知っているのかという疑問もあったのだが、それは次の瞬間にはどうでも良いことと思えた。
「給料は日当で一万出すと言っている」
「……冗談でしょう」
普通にアルバイトを探しても、どこも時給は四百円そこそこ。
その上、昨年起こったオイルショックの影響を受けて、不景気の波はアルバイトの雇用の競争率を上げていた。
かくいう私も、先月の末に一年ほど働いていた喫茶店が閉店することになり、今は次のアルバイト先を探しているのだが、そもそもの募集が少ないのもあって難航していた。
「冗談ではないよ。先方は元華族の方で、そこの娘さんの家庭教師を探しておられるのだよ」
成程、相手が金持ちだというのなら納得出来る金額なのかもしれない。
しかも大事な娘の家庭教師となれば、おそらくそれくらいが相場なのだろう。
「その娘さんというのは、お幾つくらいなのですか」
「今年十六の年と言っていたから、高校に
「通っていないのですか」
「ああ、何やら事情があって通っていないそうだ。普段は一人自宅で勉強しているらしいが、やはり教えてくれる者がいた方が良いということだ」
「それはそうでしょうね。しかし、年頃の娘さんなのでしたら、そういう話は同じ女性の方が良いのではないですか」
「それは私もそう先方に言ったのだけどね。向こうが性別は気にしないので、優秀な人を頼むと言うのだよ」
先方の言っている意味が分からなくもない。
実際に女子大学生の数は、男子に比べて三分の一程しかいない。
特にうちの大学に限れば、全体の十分の一程しか女子の割合はなかった。
ある程度の学力があれば良いというのであれば、女子学生をあたるよりも、男子学生に声をかけた方が随分と早いだろう。
おそらく教授もそのつもりで私に声をかけてきただけで、私が断れば同じように他の者に声をかけていく腹づもりだったに違いない。
それは先方も同じで、性別を指定するよりも早く見つかるだろうと考えているのだろう。
「期間はどれくらいでしょうか」
例え一日だけだったとしても、法外な報酬をいただけるのであれば断る理由も無いのだが、もしも決められた期間内に辞めるようなことがあれば給与をいただけないとかの契約だと不味いかもしれない。
「期間は特に決めていないそうだ。やってみて、双方に問題が無いというのであれば、出来る限り続けて欲しいと言っていた。ちなみに給料は一週間ごとに授業を行った日数分を支払うとも言っていたよ」
双方に問題がなければ、か。
もちろんそれはそうだろう。
元華族で、それだけの報酬を支払えるということは、現在でも名家として残っているだろう家柄の娘なのだから、もしも娘が嫌だと言うのならば、私には首になる以外の選択肢は最初から与えられていないのだ。
しかし私の心はすでにその依頼を受ける決心をしていた。
給与面もそうだが、およそ接する機会のない世界の住人に会ってみたいという気持ちが、この時の私の心の中で非常に大きかったのだ。
「そうそう。この話には一つ条件があったんだ」
「条件ですか」
ほらみろ。やはりそんな甘い話は無いものだ。
さて、どんな条件を出されるのかと構えていると――
「ああ、先方の屋敷に住み込みでお願いしたいというのだよ」
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