将棋の名人に弟子入りする三人の子どもたち

六野みさお

第1話 住宅の内見

 東京近くの住宅街で、年季の入った豪邸を見上げている二人の少年がいた。


「うおお、これが名人の自宅か……噂には聞いていたけど、すごいお屋敷だなあ」


 豪邸に見とれつつ呟いた眼鏡の少年に、眼鏡でない方の少年が応じた。


「まあ、ここは桑野くわの先生の昔からの家というわけではないけどな。どこかの名家が断絶して放棄した家を、数年前に買い取ったのだと聞いたよ。それからちゃんと竜王名人と呼べ。まるで桑野先生が竜王を持っていないみたいだろう」

「だって竜王名人は長いじゃないか。それにわざわざ言わなくても、桑野先生が3年間将棋の七大タイトルを独占していることは周知の事実だろ。ここ一年間は無敗だし……別に敬意を持っていないわけではないんだ」

「まさか僕たちがその大棋士に弟子入りできるとは……緊張するなあ。いくら『あれ』で勝ったといっても、それだけで本当に受け入れてくれるなんて思っていなかったしーーわあっ!」


 眼鏡でない方の少年は、突然後ろから突き飛ばされて転倒した。


「……やはりお前か、佐倉芹奈さくらせりな! また手荒なことをしやがって……」


 眼鏡でない方の少年が地面に転がったまま見上げた先に立っていたのは、眼鏡の少年の腰ほどしかない身長の幼女であった。


「仕方がありません。私の身長で人に気づいてもらうには、こうするしかないのです。そして宍喰ししくい君は眼鏡なので、桐原きりはら君に今やったことをやると眼鏡が割れてしまうのです」

「一見論理が通っていそうだけれど理不尽すぎる……」


 桐原と呼ばれた眼鏡でない方の少年は、寝転がったまま拳で地面を叩いた。宍喰と呼ばれた眼鏡の少年は、面白がるように眼鏡を押し上げた。


「うん、俺は桐原が転んだところを見れただけで満足だぜ。それにしても、つくづく芹奈ちゃんは年齢離れしているな。4歳児とは思えない語彙と思考力なんだけど」

「ありがとうございます。正確には4歳と2ヶ月と26日ですね」

「なんでそこまで正確に覚えてるんだよ」


 宍喰の突っ込みを聞き流して、佐倉芹奈は倒れている桐原の背中に目をやった。


「ふうん、桐原君は何やら重そうなものを背負っていますね。おそらく将棋盤ですね」


 桐原は突っ伏したまま、「そうだ……これは俺の小さい頃から愛用してきた将棋盤なんだ……これは俺と一心同体なんだ、手放すわけにはいかない……」とモゴモゴ言っている。


「桐原はこれを背負って大阪から新幹線で来たわけだからな。どうやら腰を痛めて立ち上がれないようだぜ」

「そんなことはない……いてて……」

「ほらな、無理はするなよ」

「なんというか新鮮ですね、こんなに若い人が腰を痛めるだとか……」


 そんなことを言いつつ佐倉と宍喰は桐原を助け起こそうとしたが、そのとき豪邸の門が開き、桐原は自ら弾かれたように立ち上がった。


「おや? 桐原君が倒れていたようだが……まさか宍喰君と佐倉君にリンチされていたのか?」


 宍喰と佐倉も秒速で気をつけの姿勢になった。


「これは桑野先生! 桐原は持ってきた将棋盤が重くて腰痛を起こしていただけです! 僕は何もしていません!」


 宍喰はぎりぎり嘘ではない言い訳をとっさに並べたが、桑野先生と呼ばれた若い男は「腰痛でこんな倒れ方をするかなあ……」と不審そうに呟いた。


「とにかく、今日からよろしくお願いします!」


 佐倉は一人で言って一人で頭を下げた。誰も追随しない。なぜならここでそんなことを言うのはタイミングとしておかしいからである。これで桑野にも、桐原が将棋盤に押し潰される事件の下手人が佐倉であることが理解されてしまった。当の桐原はやっと急に立ち上がったときの腰の痛みから解放されたようで、顔をしかめつつも口を開いた。


「ちょっと桑野先生に確認なのですが……」

「どうした?」

「本当にこんなやり方で、僕たち三人を弟子に取っていいものなのでしょうか? 百人の小学生と一度に百面指しをして、自分に勝った者を弟子にするなんて……将棋界はそんなノリで動いていいものなのですか?」

「いいのだ。これは将棋の人気を上げるための取り組みの一つなのだ。あの百面指しイベントはテレビで中継され、高い視聴率を記録した。これで人々はますます将棋に興味を持つはずだ」


 宍喰が首をかしげた。


「うーん、現代人の将棋離れは、桑野先生が強すぎて人々が将棋への興味を失っているのが原因のような気がするけれど……」

「……まあ、いいから入りなさい」

「「「はーい」」」


 三人の子どもたちは桑野に続いて玄関に入った。玄関には年季の入った木製の靴箱が置いてある。柱や壁も新しいとはいえないが、今にも倒れてきそうというほどではない。そこは桑野がうまく直しているのだろう。


「さて、ここが居間だ。居間といっても、しっかりリビングとダイニングとキッチンがあるがな。とりあえず座ってみようか」


 三人の子どもたちはめいめいにダイニングのテーブルに座った。


「そして佐倉の頭が見えないことが判明したな」


 ここまでやられっぱなしだった桐原が反撃した。佐倉の背が低すぎて、椅子に座ってもその向こう側に座っている桐原からは佐倉のポニーテールの上部がわずかに見えるだけなのである。


「これでは佐倉は飯すら食えないな。背が伸びるまで床に正座して食べるという流れになりそうだ」


 すかさず宍喰が便乗する。


「ひどくないですか!? 百人の小学生と言われつつ、一人だけ幼稚園児の身で桑野先生に勝利した才能あふれる私に何をやらせようとしているんですか?」

「うん、さすがにひどいね。私としては適当に子ども用の椅子を見繕っておくつもりだけどね。まあそれは後でみんなで買いに行くとしよう。とりあえず、みんなには向こうの和室を見てもらいたいんだが」


 顔が見えないまま悲鳴を上げた佐倉を桑野は軽くあしらって、四人は次の部屋に向かう。


「ひゃあ、すごいな……でもこれでは僕の将棋盤の置き場所がない……」


 桐原が息をのんだ。和室には見るからに高価そうな将棋盤がいくつも並べられている。


「自分で買ったわけではないんだよ。ファンが勝手に送ってくるんだ。捨てるわけにもいかないから、定期的に使っているんだけどね。これから使用頻度が増えそうで、盤たちも喜んでいるだろう」


 桑野はスターっぽいことをさらりと言っているが、子どもたちの目はすっかり将棋盤に引き付けられている。


「さあさあ、まだ案内は終わっていないぞ。こっちが我々の寝室だ」


 将棋盤が置いてある和室の隣には別の和室があり、布団が四つ敷いてあった。


「ええっ、これ、まさか全員が同じ部屋?」


 宍喰が目を白黒させているが、桑野は動じない。


「もちろんだ。私と宍喰君とと桐原君は男だし、佐倉君はまだ小さいから、これでいいだろう」


 桑野の言うことはもっともである。それに、この豪邸は他にも空き部屋があり、将来は成長した佐倉を別の部屋にすることもできそうだ。


「ちなみに、トイレはこの廊下の突き当たりだ」


 桑野が布団の敷いてある和室から一歩出て、廊下の向こうを指差した。


「廊下長いですねー」

「そうだなー」


 当たり障りない反応をしている佐倉と宍喰を見て、桐原はあることを思いついた。


「これって夜になったらかなりホラーなことになるんじゃ……」


 桐原はそう言いながらちらりと横を見ると、案の定宍喰が目を泳がせている。


「へー、これは幼稚園児には敷居が高そうな怖さになりそうだな。まあ夜に佐倉がトイレに行きたくなったらいつでもついて行ってやるからな」

「……ありがとうございまーす。宍喰君が漏らさないことを祈っておきますね」


 とは言いつつも、佐倉もやや目を泳がせているし、そもそもいつもの元気さが見られなくなっている。


「……おっ、あっちの部屋に本棚がありますよ!」


 佐倉がいかにも楽しいものを発見した子どもという感じで本棚に駆け寄っていった。他の三人も後に続く。


「うおお、古い将棋の本が大量に……五十年前の名人戦の棋譜もあるぞ! 一度見てみたかったんだ!」


 宍喰は目を輝かせて古い本のページをめくり始めた。一方、桐原は寝転がって漫画を読んでいる。


「おっ、『羽生マジック』の最新刊じゃないですか! 桐原君も読んでるんですね……さては桐原君も康光推しですか?」


 『羽生マジック』は人気の将棋漫画である。主人公の天才将棋棋士・羽生善治がさまざまなライバルたちと将棋のタイトルを奪い合う筋である。最近劇場版が公開されたほどの大人気漫画である。


「いや、僕は森内推しなんだけどね。『羽生マジック』の羽生は桑野先生ほど無双状態ではないから、話に起伏があって面白いよ。流れは完全に森内!」


 桐原はこちらも楽しそうにページをめくっているが、桑野は「ほらお前ら、そろそろ将棋の勉強をするぞー」と宍喰と桐原の腕を掴んで引っ張り、例の将棋盤が置いてある和室に戻った。


「なるほど、今から桑野先生が私たちと三面指しをやってくれるわけですか」

「佐倉君、まずはウォーミングアップからだ」


 桑野はどこからともなくプリントを取り出した。


「将棋の基本は詰将棋である。ということで、君たちにはこの十問の二十五手詰めを解いてもらう。私はその間に佐倉君の椅子を買ってくるから、私が帰ったらこのプリントの空欄に答えを記入して提出するように」


 桑野は部屋を出て行こうとしたが、そこを桐原が遮った。


「本当ですか? 実はガールフレンドと会っているとかないですよね?」

「な、なに!?」


 明らかに動揺した桑野に、佐倉が追い打ちをかける。


「あー、いろいろ噂はありますもんね。有名女優とか強豪女流棋士とか、さてさて誰なんでしょう……」

「まさか! 外出理由はさっき言った通りだ!」


 全然そうではなさそうだが、ここで宍喰が間伸びした声を出した。


「それより、俺はもう一つ目の問題が終わったぜ? うかうかしてると最下位になるぜ? 一番遅かった奴は全員にジュースをおごることになってるって、知らなかったのか?」

「いや聞いてないけど……」


 佐倉は平然と応じたが、桑野は水を得た魚のように「それだ! 一番遅かったらジュースだぞ! 無駄話なんかしているとお小遣いがなくなるぞ! では私はこれで!」とまくし立てて、さっさと出ていってしまった。


「なんだこの体育会系なノリは……」


 桐原は愚痴を言いつつも、慌ててプリントに向かった。佐倉も同様に鉛筆を走らせ始めた。佐倉はこの年ながら、将棋関係の字を中心に普通に字を読めるのである。和室にしては現代的な窓から差し込む太陽は、まだ真南に届いていない。この後誰がジュースをおごることになったかは、また別の話である。

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