彼の横には少しくすんだ赤い三角コーンが横になって転がっていた

葛西 秋

彼の横には少しくすんだ赤い三角コーンが横になって転がっていた

 彼の横には少しくすんだ赤い三角コーンが横になって転がっていた。

 形は申し分なくても、その三角コーンは彼にとっては無用のものだった。


 彼はずっと歩き回って新しい住み家を探していた。

 今の住み家は古くて狭すぎた。何をやっても手足が壁にぶつかる気がするほどだった。彼には新しく、十分に広い家が必要だった。


――あれは、どうだろうか。


 目についた空き家に近寄って見る。新しくはないがこれは仕方がないことだった。どうしても彼の立場だと新しい新築の物件を望むことはできない。


 彼の運命は、誰かが住んだ後の中古物件に住むことを彼に義務付けていた。


 近寄ってみた空き家だが、ふいに中から住人が現われた。空き家だと思っていても存在感の薄い住民が憑き物のように住んでいることは珍しくない。


 住宅事情の厳しい地域では住民を力づくで立ち退かせることもあるらしいが、彼のいる地域は探せば必ず空き家が見つかるはずだった。彼はまた歩き始めた。


 春の日差しは柔らかく天から降りそそいで彼の足元に光の曲線を描いている。町の中を揺蕩いながら歩く夢のような心地を彼は満喫していた。


――あそこの通い馴れた食堂から離れたくはない


 この町は彼が独り立ちをしてからずっと住み続けている町だった。馴染みの店もいくつかある。知り尽くした安心感を彼は手放したくは無かった。


――なるべく新しい住み家が近いところにあればいい。遠くにまで探しに出るのはまっぴらごめんだ


 泡のような独り言を呟いてみたものの、この町で彼が感じる唯一の不満を解消するためには遠くへ出かける必要があった。


 どうにも異性が少ないのだ。

 この町に亭主と住み続けて長い女はいるものの、彼のパートナーとなってくれそうな同じ年ごろの娘がいない。


――それだけがこの町の欠点だ


 けれど彼が独り身の寂しさを感じるのは年に一度程度で、そのぐらいならそのときに重い腰を上げ、隣の、隣の、そのまた隣町にまで歩いて向かうことも厭わないのだった。


――女よりも、まずは住み家だ


 春の日差しは柔らかく天から降りそそぐ。彼の足元には揺らめく光の曲線が踊っていた。三角コーンはもやに霞んで輪郭を失い、ゆらゆらと視界の彼方に溶け込んでいる。


 黙々と歩く彼の目の前に突然、ほんとうに突然に灰色の貝殻が落ちていた。

 あまりに唐突だったので、彼は常になく強く警戒した。


 灰色の貝殻はつやつやと丸く、ゆらゆらと歌うように揺れている。

 彼は指先で貝殻に触れてみた。石灰質の貝殻は彼の指先にしっくりと馴染んだ。


――ああ、これだ。これを探していたんだ


 そうして彼が小さくなった今の貝殻から自分の体をすっかり抜いて、灰色の貝殻にゆっくりと尻尾の先から滑り込ませると、灰色の貝殻の螺旋はすっぽりと優しく彼の身体を包み込んだ。

 試しの内見だけのつもりだったが、彼はこの灰色の貝殻を新しい住み家にすることを決めた。


 春の浅瀬に沈んでいる少しくすんだ赤い三角コーンのすぐわきを、灰色の貝殻を住み家にしたヤドカリが一匹、得意げに、気持ちよさそうに、ゆらゆらと踊る足取りで歩いていった。

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彼の横には少しくすんだ赤い三角コーンが横になって転がっていた 葛西 秋 @gonnozui0123

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