胡蝶の夢

ゆう

第1話

思い立ったが吉日

なんて誰が言ったのだろうか、ニコニコふわふわ笑ってる教師だったか、それとも声の大きいキッチリとした教師だったか...その言葉が本当で今まさに自分が体験しているとはあの頃の俺は思わなかっただろう

まさにド平凡としか言い様のない人生を送っていた俺は気が狂ってしまったようで今登山をしています!



何故今登山をしているのか、色々な分岐点を経ていたが決定打となったのはブラック企業への入社だと思う。人生を振り返れば平凡としか表しようがなく、長年付き合った彼女には「真冬くんといても何も刺激がない」という理由でフラれ、悲しみにくれながらもまぁ平凡に生きれれば!と考えて選んだ会社は上っ面がいいだけのブラック会社だった。

初っ端から怒鳴られ先輩方はフル無視。誰も何も教えてくれないので自分でやるしかなく、やりくりして作った書類を確認してもらったところ地面に投げ捨てられた。バレない様に溜息を吐いて机に戻り入念に直してから提出をする、今度はお得意の無視をして頂いた。これが入社初日。

その日から徐々に怒鳴られる時間が長くなり感情が麻痺して無表情になっていった、ただ限界を迎えると机に戻らずトイレに逃げ込み発作とも言える呼吸困難を落ち着ける。案外冷静に対処していながらも感情は狂っていると悟った

毎日毎日(ア、もうだめだ。このまんまじゃイカれる)とパソコンに向かってそう思っては訳の分からぬ不安に駆られ溢れる涙を拭う。毎秒すりおろし器で精神を擦られる感覚に苛まれ早幾年、すっかり社畜が板についた俺はクマを濃くしながらダークマターと呼ばれる睡眠欲も食欲も性欲もぶっ飛んでなくなる魔剤を飲みながら仕事をしていた。今じゃ安眠ASMRよりも毎秒響く耳鳴りですややかに寝れるだろうとさえ思う、むしろそれでしか眠れない域まで来ているのだ。

本日もまた敬愛なる我社の為に死屍累々を積上げて参りますと呟きながら書類の束を崩していく。敬愛もクソもないクソみたいなクソブラック会社は上に上がれば上がるほど楽なので、もう反抗せずただただ大量に仕事をこなし成果を上げ恨み辛みが募った社長に媚びを振り撒いて一刻も早く昇進出来るように策略を廻らす。

ただ無表情に仕事をこなす最中、山という1文字が不意に浮かび上がってきた。

脳内には荒々しい自然と自業自得な自由が入り乱れる世界。見上げてもなお頂上が見えない標高の高い山は様々な木で埋め尽くされており、どこか懐かしい土の匂いと湿気に包まれる。足元は木の根が張っており凹凸が酷くダンゴムシや百足が蠢いている。鳥の囀りと共に風が吹いて陰鬱な気分を吹き飛ばしてしまう様だ

目を閉じて他の感覚に集中しようとしたとき、酷い耳鳴りが聞こえはっと覚醒する。瞬きすると圧巻な景色は何処へ、ただ積み上げられる紙とブルーライトを発するパソコンがあるだけだ

現実と脳内のギャップが何ともむず痒く何処か急かされている気持ちになる。ぐちゃぐちゃと乱れる思考を強制的に切り替え、その日は何とか仕事をこなした。



その謎の現象から数日、思考はいつも山の中にあった、その山は美しく、どの季節でもまた違った1面を見せるのだろう。だけれどきっと、冬が一番似合う。

峰や山肌は白銀に光り歯や骨は冷たさで折れてしまうだろう、と予想できるほど鮮明に記憶に根付いてしまった。

俺はどうしてか、通勤中の電車の広告、携帯で流し見するニュース、上司がつけているテレビから聞こえる声、それらの中に不意に山を探していた。

何を思ったか、ふらふらと立ち上がり気がつけば上司に有給消化の申請を出していた。無論怒鳴られたが少し経ったら快くうけいれてくれた(違法時間労働の証拠をそっと出して携帯に労基の電話番号を打ち込んでいたら冷や汗を垂らして許可をしてくれたのだが、真冬は覚えていないだけである)

仕事を轟速で終わらせ、ウキウキしながら酒と焼き鳥を買って帰り、これは必要かいやいらないかとかなんだとか独り言を呟いて準備をしちっちゃなバッグにちまちまと詰め、お風呂にゆっくり浸かり、酒と焼き鳥を食べ、歯磨きをし、久しぶりに数時間たっっぷり寝て山に来ている……ここまで掛けて俺は山にたどり着いたという訳だ!!!


胸を踊らせルンルンと来たはいいものの、1度たりとも登山をした事がない俺は電車の中で調べた情報に加えたまに会う登山客に情報を教えてもらいつつ意気揚々と1人で歩いていたのだが、さて。ここはどこか?

スマートフォンで現在位置を確認してみると己を示す赤いピンは辺鄙な場所を指した。久しぶりの休暇に加え待ち望んだ登山にうつつを抜かし、気付かぬうちに道から外れたようである。

それはそうだろう。今いるここはそれなりに高く有名な山であり、エベレストよりも高く高低差が酷いが緩急のある山脈が広々とあらゆる方向へ伸びているので遭難者が後を絶たないと言われている。あだ名は登山家殺しという。

遭難者の数が増えてしまうのに頷けるのはその姿の美しさ故だろう、この山はまさに俺がフラッシュバックの様に脳内に流れ出た圧巻の山だった。なので初心者の癖にこの登山家殺しに登った訳だが、遭難者が多い為数年前に遭難しても一時しのぎができるよう所々にコテージが設置されたらしい。

が、どうも辺りにそれらしいものは見当たらない


歩いたり大声を出して探せばいいものだが、立ち止まってしまったせいで何時間も歩き続けた疲労を無視できなくなってしまった。それに喉も乾いた。少し休憩しようともぞもぞと動き岩のくぼみに腰をかけて一息つく。水筒から味噌汁を注ぎゆっくりと飲んで息を吐いた。

ここで少し休めればいいのだが、そんなことよりなぜ俺は味噌汁を持ってきたのか意味がわからない…ふと数時間前の自分に問いを投げかける。答えはかえってこない。

ふ、と息を吐いて空を見上げると曇っており数時間経てば豪雪になりそうだ。


「しくったな……」


呟いた声は雪に吸われすぐに聞こえなくなった。

いつの間にか雪が降り始めていた。慌てて動こうと準備すると、風と共に身体に叩き付ける様に強く当たってくる、吹雪きはじめてしまったのだ!

寒さでかじかんだ指はもう感覚がなくなりつつあり、荷物を手早くまとめコテージがあることを望みに足を動かす。悪天候の際で携帯は使用できない。

背負った荷物はどんどん重さを増し、雪が熔け水を吸った服は肌にへばりついてくる。身体が休みたいと叫んでいるのを感じた。

豪雪の中休んだら死ぬと叫ぶ生存本能に対してもうこの雪に埋まって死にたいと叫ぶ自殺願望が鎌首を擡げる。頭の中でぶつかり合う意見をどこか冷静な視点で見ながら重くて仕方ない足を動かした



前を見ず、下を見ながら歩き続ける。

歩いた傍から足跡は雪によって消され、同じところをぐるぐる回っているのか目の前に崖があるのかどうかも定かでは無い

吐いた息は途端に白くなって凍る。零れ始めた涙が頬にへばりついた。俺はこの美しい世界で死にたいと切に思った。胸が切れて血が溢れてしまうのでは無いかと錯覚するほどの切望だった。

そう思わせるは圧倒的な自然の力でありただ人間である俺を簡単に捻り潰せる。その力量の差に、同じ土俵に立つことすらゆるされぬ圧倒的美を見せつけている、その強さに惹かれてしまう。俺にはない強さに酷く惹かれている。……そうして自身の激情に耐えている



豪雪の中、ふと顔を上げ目を細める 声が聞こえたのだ

小さく不安定ではあるがそれは確かに歌声だった。人形マーメイドが呟くような歌声だった、柔く細い声だけれど確かに強く芯のある歌声

なぜ歌声が?こんな豪雪の雪山で響いている?

そう疑問に思う暇もなく、足は自然と声のする方向へ進んだ。かんじていた疲労感はどこかへ行ってしまったようだ、補足しておくが俺自身は動こうなどと思っていない。やはり死にたいとは思っているが。



歌声に導かれた先は大きな屋敷だった。目の前に広がる屋敷は冷たく閑散としており、壮大である

雪山にも屋敷があるのかと冷たさで上手く動かない頭で考える。


「……入っちまうか死にたかねぇし」


暫く考えた後重い両開きの扉に手をかけ滑り込むように中に入る。想像通り。中は中世ヨーロッパの貴族の屋敷と構造がよく似ていた

入った瞬間強く香るのは香の匂い。…この香は極東のもので極東とは遠く離れた場所に位置する此処では珍しく、趣向品としてもあまり嗜まれない。

会社の人達や友人…元々ここに住んでいる人らはどうも合わないらしいが俺は合わないどころかむしろ好きだった。おかげで今も変人扱いされているのだが

遠い昔友人と高校卒業旅行で極東に行った時、香を買ったほどには好きで、見知らぬ屋敷に居れど落ち着くことが出来た。

エントランスをぬけ大広間であろう部屋に入り、濡れた上着を脱いでいると何か音が聞こえた。耳を澄ませてみるとそれはギーィ、ギーィと何かが軋むような音だった。まるでしわくちゃなおばあちゃんが座っていそうな揺り椅子が出すような、そんな音


その音を聞いていると、「音の正体を知りたい」というまぁめんどくさい好奇心が湧いてきた。溜息を付き荷物をその場においてゆっくりと部屋を見て好奇心のむくまま進む。客室や執事室、応接間など見て回ったが歪な音の正体と思わしきものは見つからない、別館に移動する。


渡り廊下を進み扉を押し開けて中に入る、先程とは違う香の匂いがした

軋む音に導かれ階段を上り廊下を歩く。何の気なしに周りの部屋を見ていると

「桔梗」「胡蝶」「蘭」

と花の名前が付けられた部屋が続いたと思えば

「翡翠」「紫水晶」「青玉」

と石の名前が続く。

その文字は極東の辺りで使われるカンジとヒラガナ、カタカナという文字が使われると言われており、部屋の名前もそれに当てはまる


「よほどキレイなものが好きなんだな」


そう言葉を零せば途切れていた歌声がまた聞こえた。例の人魚マーメイドの歌声、少し高く所々かすれた綺麗な歌声だ。

ふらふらと足を動かし、1つの部屋に辿り着く。そこは書斎と書かれたプレートが掛けられている。少しもさびていない手入れのされているものだった

ゆっくりと扉を開けると暖かい空気が俺を包んだ、暖炉のような場所で薪が燃えているのだろう。気が燃える独特の煙が少し溜まっていた。

部屋の中は振り子時計や燭台といった装飾品で飾られた部屋の中心に俺に背を向けてそれはあった。おおよそ英国製と見られるチェスターフィールドソファ。桜の木の幹のような深い赤茶色のソファは長年使用されたであろう独特の艶が出ており、暖炉の炎をうけチラチラと光る

その近くにはまたもや英国製の顔をした美少年が体を起こしていた。目を見開いて、こちらを、俺を凝視している。肩を震わせ今にもワッと泣き出しそうな表情で俺を見ている


俺は、その子供のあまりの美しさに目が見開いて閉じなくなっていた。美少年であったのだ。それもまたとびきり特別な。


暖炉の光を受け煌めく銀髪は柔く、開けたドアから流れる風にチラチラと輝き、シルクのように滑らかな肌は雪より白かった

完成された美貌の中でも一際映えているのがその目だ。名高く美しい宝石らの最高傑作を煮出して凝縮した様な瞳は不安そうにたわんでいて、なんというか色っぽい


惚けたように見つめていると、少年がズッ、と動いた。咄嗟に両手を上にあげる、そうすれば敵意は無い事と危険物は持ってないことを示せるはずだ。

幼い子供相手にどう言えば落ち着くか考える、ただ目線は子供から動かない

子供の瞳孔は大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら次第に猫のように細長く縦長になる、まるで蛇や猫の様に次の瞬間____少年は消えた


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