元カレの部屋

かどの かゆた

元カレの部屋

 不動産屋さんが、幾つか部屋を紹介してくれた時、思わず「あ」と声が漏れた。


「気になりますか、その部屋」


「……えぇ、まぁ」


 315号室。

 見覚えのある部屋だった。丁度一年前までは、足繫く通っていた部屋だ。


「内見、してみますか。その部屋の近くに幾つか物件もありますし」


 不動産屋さんは若い男性で、片手でネクタイに触れながらはにかんだ。


「じゃあ、そうしてみます」


 まさか「元カレが住んでいた部屋だったから驚いたんです」なんて言えるはずもなく、私は流されるままに内見へ行くことになった。




 アパートの向かいのコンビニは、ローソンになっていた。彼は私が家に来ると、大抵、冷蔵庫にコンビニスイーツを用意していた。私はそれが気に入らなくて、あまり食べなかった。決めつけられてる、って感じがしたから。

 可愛くない彼女だったろうな、なんて思いながら、私はほぼ一年ぶりに、315号室に戻ってきた。


「どうぞ」


 施錠を開けてもらい、部屋に入る。狭い玄関に所狭しと並んでいたスニーカーは、勿論無くなっていた。キッチンに並んでいた碌に使わないスパイスも、今は無い。


「駅も近いですし、この辺買い物するところも多いので、オススメですよ」


 不動産屋さんはそうやって説明してくれるけれど、そんなこととうに知っていた。お風呂の広さも、インターネットの速度も、日当たりだってわかってる。

 空っぽになったこの部屋には特に見るべきところはなく、喧嘩してもみくちゃになって壁についた傷だって、もう壁紙の張替えできれいさっぱり無かったことにされている。


 彼がこの部屋を出たことを、私は今日まで知らなかった。あっちは、就活は上手くいったんだろうか。時間がなくて彼女をないがしろにするくらい一生懸命駆け回っていたんだから、きっと上手くいったんだろうな。ここより都会の、なんだかもっと凄く良い場所へ、彼は行ったのだろう。


「すいません。ちょっと部屋見ててください」


 電話がかかってきたようで、不動産屋さんが外へ出た。

 私は窓を開いて、彼がプランターでトマトを育てていたベランダへ出る。新しい空気が部屋に入り、春の日差しの香りがした。

 私は自分でこの街に残って働くことを決めたのに、置いていかれたような気がした。振ったのだって私なのに、きっと彼は、私ほどあの頃のことを思い出したりしないのだろう。


 この辺りにベッドがあって、私たちは真夏でもべったりくっついて寝てた。汗だくで平日の昼間に起きて、授業を寝過ごしたって二人して慌てて、「もう間に合わないや」って諦めてゆっくりシャワーを浴びる。それから、向かいのコンビニにアイスを買いに行くのだ。

 そういう日々が、そういう部屋が、綺麗な空っぽになった。


「お待たせしました」


 不動産屋さんの声で、私は現実に引き戻された。「この部屋、どうです」と自信ありげに聞かれたので、「もう少し他のところも見たいです」と誤魔化すと、きょとんとされてしまう。


「なんですかその顔」


「いえ、気に入ったのかな、と思ったんですが」


 私のどんな様子を見てそう思ったのか気になったが、言葉にしてほしくなかった。


「いいえ」


 私はぴしゃりと否定した。


「……いいえ」


 もう一度、否定の言葉を吐いて、自分に念押しをする。


 そもそも、気に入る気に入らないの問題じゃない。条件だけ見れば最高だし、悪くない部屋だけれど。

 この部屋は、新しい生活を始めるのに、あまりにも向かなすぎる。


 

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元カレの部屋 かどの かゆた @kudamonogayu01

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