すわり姫

憂杞

すわり姫

 座ったままの女の子は、白い光を浴びながら目をさましました。目ざまし時計のやかましい音が鳴るころ、朝日はまだ少ししか顔を出していません。それなのに女の子がいる部屋の中は、床の茶色がはっきり見えるほどに明るかったのです。

 ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。

 天井からこうこうと照る電灯を見上げながら、女の子は不安な気持ちでいっぱいになりました。このままにしていたら電気がもったいない。そう思いあかりを消しに動こうとしますが、それが憚られるほどに体は重たく、強いつよい眠気が女の子を襲うのです。

 ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。

 掃きだし窓から吹きぬける風に煽られ、振り子のように揺れる大きな影。それは幾度か女の子をすっぽりと覆っては、深いふかい夜の眠りを連れてくるのです。

 ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。

 それは幾度も女の子を覆っては、忘れさろうとした悪夢を思いおこさせるのです。

 誰の目にも届かない部屋の中。床に座りこむ女の子の胸のうちは、絞めつけられるように苦しくなるばかり。

 ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。

「おはよう、佑。起きてるか?」

 玄関の外から男の声が聞こえた時にはもう、限界でした。つづいて扉を叩く乾いた音が幾度も響くと、女の子は耳をふさいでしまいました。

「おいおい、鍵が開いているぞ。返事しないなら入るからな?」

 やめてください。こないでください。聞くのが初めてではない声色に向けて唱えるかわりに、眠気がぐうっと強くなりました。

 ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。ぎしぃ。

 女の子はしずかに目を閉じて、眠気をけんめいに受け入れようとしました。扉が開かれる音も、閉められる音も、それに続く足音も、床の小さな振動も、何もかも伝わってこないように女の子はこんこんと眠りに落ちていきました。まっ暗になった意識のなか。絞められるような胸の苦しみだけが、女の子の中に残りつづけておりました。

 真上で吊るされた青年の首のように、絞め上げられるような苦しみだけが。


  ◇


「だっ、誰か! だれか来てくれっ!」

 ぴしゃんと窓が開け放たれ、朝の青空に叫び声が響きました。ある他所様の一軒家を訪れていた足立卓也さんが、中から助けを求めていたのです。

 そこへ通りがかったのは、近所に住む顔見知りの皿田おばさんでした。一人息子を学びの庭へ送ったばかりの帰り道で、皿田おばさんは叫び声を聞いてびっくりしておりました。路上から窓へなにがあったのかと問いかけると、卓也さんはあわてた様子で答えました。

「佑が、首を吊っているんです。はやく救急車と警察を!」

 さわぎ立てる青年のとなりでは、人の背中と浮きあがった両足が揺れています。

 窓ガラスの向こうの惨事をちらと見た皿田おばさんは青ざめて、すぐに電話で助けを呼んでくれました。

 そのころ部屋の中の卓也さんは、近くにあった四角い机をいそいで引きずって、吊るされた体の真下に近づけました。そして床に落ちていたはさみを拾うと机に跳び乗って、ちょきんと、紐を切る音。佑さんは首に触れていた紐が切りはなされたことで、卓也さんの両手の上に落ちたのです。

「……そんな」

 ずしりと手のひらに乗る体は、おそろしいほどに冷たくて。卓也さんはすぐに佑さんから手をはなして、しずかに机の上に寝かせました。これ以上佑さんに触れてはならないと、分かってしまっていたからです。

 佑さんが息を引きとったのは、昨日の夜のことですから。

「……そんな、はずはない」

 卓也さんは何度もかぶりを振りました。それから佑さんを床へ引きずりおろすと、無意味と知りながらその胸に何度も両手を押しあてました。

 卓也さんには納得できなかったのです。なぜって、佑さんが首を吊って死んだなんて、信じられなかったのですから。佑さんが自分の首を吊ったとは、思えなかったのですから。卓也さんは同い年の青年の死を、おかしいと思わずにはいられませんでした。

 と、そこで。

 ごとん、と。

「ん?」

 すぐ近くから、部屋の奥の書棚が置かれたほうから、物音が聞こえました。物がひとりでに動いたような、がれきの山からなにかが崩れおちたような、そんな物音が。その音が聞こえたのは一度きりで、それでも卓也さんは世にも不思議な存在に気づきました。

 音がした先には、見知らぬ女の子がいました。片方の耳と肩を床につけて転がったまま、ひざを抱えて壁と床をじいっと眺める女の子が。

 素性のしらない、眠っているようにも見える女の子に、卓也さんはどう声をかけるか悩んでいました。例えばこんなところで何をしているのかと問いただすのも、早くこちらに来て手伝ってほしいと呼びかけるのも良かったでしょう。なにせ緊急の事態ですから、子供はおろか子猫にでも助けを求めたところで許されたでしょう。

 しかし、呆然と目を開いてうずくまる女の子に気まずさを感じてか、口をついたのはそのどちらでもない言葉でした。

「ねえ、きみ。大丈夫?」

 そう言って卓也さんは、急いで女の子にかけ寄りました。そうして落ちついてから事情を問うなりしようと考えながら、小さな肩にそっと手をかけました。すると、

 ごとん、と。

「えっ……」

 さきほど聞こえた物音と同じ音が、もう一度鳴りました。それと同時に、女の子の体が傾きました。ごとり、ごとん、ごとり、ごとんと、女の子の体が揺れました。

 女の子は何も言わぬまま、ただ座ったまま奥へ手前へと揺られていました。おかしな物音を立てて揺れる女の子に、卓也さんは目を丸くするばかりでした。

 するとそこへ、外からサイレンの音が響きました。忙しそうに騒ぎたてる二つのサイレンの音が、混ざりあって家に近づいてきていました。それを聞きつけた卓也さんは少しだけ間をおくと、

「すぐここに戻るから。きみは、そこで待っていて」

 と女の子に伝えて、すぐに玄関へ駆けて扉を開けました。


 しばらくすると卓也さんに連れられて、二人の警官さんがどたどたと部屋へ押しかけました。周りにあるものに手を触れないようにと注意を呼びかけながら、警官さんたちは吊るされた紐のそばにたどり着きました。その横へは青い服を着た数人の大人たちが駆けつけて、立ち並んでうやうやしくお辞儀をしました。

几佑おしまずきたすくさん、っすか。めずらしい名字ですね」

「おい、匙。余計なことは言わなくていい」

「すみません。あ、それと二十三歳って、僕よりも若いじゃないですか」

「匙。口をつつしめ」

 壮年の厳かな男の警官さんの名前を箸尾さん、もう一人の若い警官さんの名前を匙さんといいました。二人は佑さんの死を悼む言葉をかけると、卓也さんへ向き直って事情を尋ねました。そのあいだ青い服の仲間たちにはそれぞれ指示を出して、佑さんの体と部屋じゅうを調べてもらっていました。

「足立卓也氏。遺体の第一発見者であるあなたは、どういった経緯で現場を訪れたのでしょう?」

「佑の家には、俺は今までにも何度か来ていたんです。すぐ近くに住んでいますから。それで今朝も様子を見に来てみたら、玄関の鍵が開いていて」

「それで、勝手に入ったんすか。それって不法侵入じゃないですか?」

「し、仕方がなかったんです。だって今朝、この家の前に来たら——」

 卓也さんは普段よりも早口で、佑さんのことと今朝の出来事について正直に話しました。佑さんは今から一年ほど前に一人で越してきて、この家からお仕事に出かけていたこと、その帰りがいつも夜遅くであったこと。自分は心配に思い、向かいの住まいからたびたび家に訪れていたこと、そんな自分を佑さんが煙たがっていたこと。

 そして今朝も同じ家に訪れると、扉の下のすきまから紐が覗いていたこと。それを見て不思議に思って、つい鍵の開いた扉に手をかけてしまったこと。加えて皿田おばさんに電話をさせたこととはさみで紐を切ったことも、卓也さんは警官さんの二人にかいつまんで話しました。

「扉の下にあった紐、って、あれのことっすか」

 小さな手帳の上でペンを走らせていた匙さんはそう言って玄関を指差しました。玄関に落ちている、ほどけ散らかった紐の束の方を差しました。卓也さんは「はい」と頷きました。その紐は、佑さんを吊るしていた紐とまったく同じものでした。

「昨夜に来た時は、あんなものは落ちてなかったんです。だから何かあったのかと思って」

 いかめしい顔つきをしながら事情を聴いていた箸尾さん。そこへ、青い服の一人がなにかを話しにきました。彼は佑さんの遺体を調べていたうちの一人でした。箸尾さんはひとしきり聴き入れると、納得したように匙さんへ声をかけました。

「匙。調べたところ几佑は、気管を絞めたことによる自殺で間違いないようだ。首の痕を見ればすぐに分かる。何にしろ事件性はないと見ていいだろう」

「そうなんすか?」

「ああ、だから足立卓也に話を訊くのは後にしろ。彼もまた被害者だ」

「……まあ、それもそうですね」

 互いに顔を見あわせて、頷きあう二人の警官さん。都会の朝を騒がせた一大事が慎ましやかに終わろうとしていると、

「待ってください、佑は自殺なんかしていません!」

 と、空気を押しのけるような大声が響きました。青い服の何人かはびっくりして、動かしていた体をまるごと止めてしまいました。佑さんに「自分を殺した」というあらぬ罪を着せられることを、卓也さんは良しとしなかったのです。

「だって、佑の周りには、椅子や踏み台になるものが一つもなかったんです。おかしいじゃないですか。これでどうやって首を吊ろうっていうんですか」

 そのとおり。現に、吊るされていた遺体をおろした時も、卓也さんはわざわざ机を運んでその上にのぼりました。なにかを吊ろうにも足元に踏み台を置いていなければ、天井に紐をくくることすらも叶いません。

 しかし、卓也さんのもっともな言い分を聴いた箸尾さんは見るからに怪訝そうな顔で、となりにいる匙さんは苦笑いを返すだけで。なぜだろうと卓也さんが首をかしげていると、箸尾さんが片手で書棚の方を指差して、あきれたような声で、

「何を言っている? 椅子ならそこにあるじゃないか」

 と。匙さんは何も言わず頷きました。もちろんそれを聞いた卓也さんは、驚いて目を白黒させました。箸尾さんの指で差された先は、あのうずくまったままの女の子がいたのですから。

「……ちょっと、待ってください。冗談はやめてください」

 困った様子で書棚へかけ寄る卓也さん。その近くには相変わらず、ひざを抱えた女の子が転がっていました。片方の耳と肩を床につけてころりと転がったまま、二人の警官さんがいる方をじいっと眺めておりました。もちろん、その近くに椅子らしきものは見当たりません。さきほどはこの子が椅子などと呼ばれたのではないかと思うと、卓也さんはふつふつと煮たつような怒りを覚えるのでした。

「こんな、年端もいかない子が椅子なわけがないでしょう。だいたい、あなたたちはこの女の子については何も言わないんですか? いつからここにいたかも分からないし、身元だって分からないし、見るからに様子がおかしいですし……」

 荒波となった心に攫われて、止めどなく流れてくる言葉。今度は二人の警官さんの方が目を白黒させました。二人は互いに互いの険しい顔を覗きながら、何を言っているのかと首をかしげるだけでした。

「……冗談を言っているのは、そっちだと思いますけど」

 横を向いたままうっかり口をすべらせた匙さん。しかし横にいた箸尾さんはなるべく気に留めない様子で、部屋の隅を調べていた仲間たちに指示を出していました。

「もういいだろう、匙。ゆっくりさせてやれ」

「あ、はい。ではすみませんが足立さん、ここから出ていっていただけますか」

 その後すぐに青い服の四人が集まると、卓也さんの手を引いて玄関まで歩いていきました。逆らう声もむなしく扉まで連れられた卓也さんは、とうとう一軒家の外へ締め出されてしまいました。


 一方、警官さんたちに囲われて、ぽつんとひざを抱えたままの女の子。ときどき青い服の人たちの手に触れられる彼女は、それでも寝転んだままぱちりと瞼だけを動かすのでした。

 そこに女の子がいると——いいえ、それが女の子であると気づく人は、誰一人としていません。しかし、それもそのはず。その椅子が女の子に見えている人が、今は誰一人としていないのですから。

 そう、彼女は椅子なのです。人知れず魔法をかけられただけの、不思議なだけの椅子なのです。


  ◇


「こんばんは、初めまして。ぼくは、君の願いを叶えにきたんだ」

 暗いくらい闇の中。あちこちから人の寝息が聞こえるほどの、深いふかい夜の中。閉めきっていたはずの部屋の中に、一人の魔法使いさんが立っておりました。

「もしもし、かわいいお嬢さん。君は、人間になりたいのだろう?」

 その問いかけに答える声はありません。その場に立っていたのは、魔法使いさん一人だけでした。それでもそんな問いかけの声は、ただ一脚の椅子にやさしく向けられていました。なめらかなニスを塗られた茶色の、五本の背板で支えられた背もたれの、四本の四角い足で立つ木の椅子に、魔法使いさんは話しかけていたのです。

「ぼくは君に話しているんだよ。さあ、怖がらないで」

 ゆっくりと足を前へ出して、椅子に近づく魔法使いさん。

「あの人の役に、立ちたいんだろう?」

 その時、ごとりという音とともに、問いかけの答えが耳に届きます。魔法使いさんはそれにそっと笑みを返すと、やさしい声で教えてあげました。

「——あの人ことを、強く想うといい。そうすれば君は人間になれる。多くの人には元の椅子に見えるだろうけど、安心して。大切なあの人ならきっと、君に人間の姿を見てくれるだろうから」

 やさしい、やさしい言葉を受け、晴れてその椅子の願いは叶いました。きらきらとまぶしい光を浴びたあの夜、椅子だった少女は人間になることができたのでした。


 しかし、ただそれだけでした。

 人の体を得たばかりの女の子は、ただ木のように固まるばかりで。動くことはおろか、声を出すこともままならなかった。ただ、それだけのことでした。


  ◇


「——今、なんで扉を叩いたんすか? どうせ誰もいませんよ?」

 日を同じくして、青空に少しだけ黄色が滲みはじめたころ。卓也さんは落ちつかない様子で立っておりました。その目の前には、一軒家の簡素な扉。中を調べ終えて佑さんと警官さんたちが去った後、卓也さんは自殺現場である部屋の後片づけを任されようとしていました。

「いいえ、一人いるんです。女の子が」

「へ、まだそれ信じているんすか? よく分かりませんけど幻ですって」

「本当にいるんです」

 卓也さんは自分から申し出て、匙さん同伴のもとで後片づけをしようとしていました。それは一年ばかり迷惑をかけてきた佑さんを気遣ってのことであり、もちろん部屋に残されているであろう女の子を心配してのことでもありました。

「……確かに、本当に女の子が中にいたら大変ですけど。ところで足立さん、そちらの奥さんはどちら様ですか?」

「そうでした、紹介します。皿田おばさんです。俺が無理言って来てもらいました」

 卓也さんがそう言うと、となりにいた皿田おばさんが丁寧にお辞儀をしました。

 皿田おばさんは朝にも電話で警官さんたちを呼んでくれた、あの皿田おばさんです。なにせ、卓也さんはこれから不慣れな子供を相手取るのですから。子持ちである彼女がそばにいれば安心できるというものです。息子がまだ学びの庭にいるとはいえ、無理を言っているとは重々承知の上でしたが。

 ひとしきりの挨拶をすませると、三人は玄関の扉をくぐりました。初めに一行を出迎えたのは、足元で散らかったままの長い紐。卓也さんはすぐにそれを拾うと、元どおりの束にまとめあげました。

「そういえば足立さん、ご両親はいないんすか?」

 同時に、思い出したような匙さんの問いかけの声。それに答える声は、どこか決まりが悪そうでした。

「両親なら田舎に住んでいます。近辺に一人で引っ越したのは、都会で働きたいっていう俺のわがままで」

「あなたじゃなくて佑さんっすよ。いや、息子さんが亡くなったっていうのにあれから一度も見てませんので、気になって」

「佑の親御さんのことは……俺にも分かりません。佑本人からも何も聞いてないので」

 子持ちの主婦の前であることを忘れた様子で、二人の若者は気まずそうに話しながら歩いていきます。今朝の自分が辿ったばかりの道のりは、起きたばかりの悲劇を思いおこすには十分なようでした。しかし、目あての場所が近づいたところで、卓也さんはもとの目的を思いだすことになるのです。

 ごとり、ごとん。ごとり。ごとん。

「……え、何すか、この物音」

 物音、と聞いて卓也さんははっとしました。そして追いたてられるように廊下をまっすぐに駆けると、そこはいつしか叫び声をあげた場所であれど、大きく荒れた様子は見られなかった部屋の中——のはずでした。

 ごとり、ごとん。ごとり。ごとん。

 ばさばさ、ばさばさばさばさ。

「うわっ!」

 部屋に入るなり、後ろをついてきた二人は肝を冷やしました。丸く開かれた両目の先には、簡素な書棚。しかしそのすぐ前では、せわしい音の正体たちが暴れ回っていたのです。

 ひとりでに頁がめくられる本。ひとりでに書棚からこぼれ散る本。重たげに体を起こす辞書。黒く染まる白紙と、その上を駆ける鉛筆。本。本。本。辞書。紙。鉛筆。紙。本。床じゅうに散らかったそれらの中心で、ぐるぐるぐるぐる踊る椅子。

 魔法に操られているような物たちの円舞は、現実から大きくはなれた景色を二人に披露していました。しかし、卓也さんにだけは見えていました。床にへばりついたまま体を引きずり、たどたどしい手つきで物を動かす女の子の姿が。

 ごとり、ごとん。ごとり。ごとん。

 腕のすぐ近くで倒れる辞書。目の前で落っこちる書棚の本。さらには紐を切ったきり床に置き去られたはさみ。危なっかしい小道具たちの舞を見て、心配になるのは卓也さん一人だけでした。女の子はすぐ近くに人が来ているとは露知らず、じいっと下を見てけんめいに体を動かしておりました。しかし、そこで突然、

 ごとり。と、女の子は気を失ってしまいました。

「あ、ちょっと! 大丈夫?」

 あわてて書棚へかけ寄る背中を、後ろの二人は呆気にとられて見ていました。

 小さな体をころりと横たえ、ひざを曲げたまま眠りこんだ女の子。卓也さんがその両肩に触れると、温かくも冷たくもない木の感触。ただ、その体は以前に見た時よりも、心なしかやせているようでした。

「もしかして、食べてない、のか?」

 ぼそりと呟いたとなりで「何の話ですか?」と問う匙さんに気づくと、卓也さんはすかさず問い返しました。

「匙さん、この家って、食べ物はどこにありましたか」

「え、台所にありましたが……いきなりどうしたんすか」

 それを聴くなり卓也さんは台所へ駆けると、悪いと知りながらも食べ物を探しはじめました。冷蔵庫、床下、戸棚の戸を、次々と開けては顔をしかめました。というのも幸い食べ物を見つけられたとはいえ、その品々に難があったもので。冷蔵庫の中には飲むものの他にほとんどなく、戸棚には湯を待つだけの乾麺入れの数々が、あきれるほど整然と仕舞ってあるばかりでした。

 仕方なし、と肩を落とす卓也さんが、目を見開いたまま置き去られた二人に気づくには時間がかかりました。

「……あの、足立さん。そんなにお腹すいてました?」

「あ、えっと、はい。よかったら、四人で食事にしませんか」

「四人? いや、そんなまさか……っすよね?」

 そこで皿田おばさんにやさしく諭され、部屋の片づけを思い出す匙さん。結局のところ卓也さんと女の子だけが、一箱の麺を分けあうこととなりました。


「今日はお二人とも、何から何までありがとうございます」

 日の光がすっかり隠れたころ、ひととおりの後片づけを終えた三人は、卓也さんの家の前に集まって挨拶を交わしておりました。卓也さんは匙さんと皿田おばさんにこれまた無理を言って、女の子が床じゅうに散らした書き物の山を運んでもらっていたのです。いまだに女の子については半信半疑の二人でしたが、何せあの椅子の前で麺が消えていくさまを間近で見たのですから。それに真面目な卓也さんがああも言い切るからには、その存在くらいは信じざるを得なかったということでした。

「こう言っちゃ失礼かもしれませんけど、足立さん。重たくなかったですか」

「大丈夫です。ほら、距離もそんなになかったですし。皿田おばさんもお忙しいのにありがとうございました」

 両手で椅子を持ちながら——ではなく女の子を抱えながら、卓也さんは困ったように笑いました。ちなみに佑さんの家はここから向かい側にあり、せまい道さえ横切ればすぐに辿りつける場所にありました。

 それから卓也さんは二人と別れると、女の子を連れて家の中へ入っていきました。


 暗いくらい闇の中。あちこちから人の寝息が聞こえるほどの、深いふかい夜の中。

 今夜ばかりはゆっくり眠ろうと心に決めていた卓也さんでしたが、いざ床についてみるとなかなかに寝つけず困っておりました。その理由の一つは、となりで毛布に包まり横たわる女の子のことでした。はじめて触れるふわりとした心地に満足そうにはされたものの、一人暮らしゆえに簡素な寝床しかあげられず、申し訳ないと感じずにはいられなかったのです。もともとが椅子である彼女にはいらぬ心配でしょうが、どうも人間というものは人間のものさしで他をも測ってしまうようです。

 しかし寝つけぬ理由の最たるものは、やはり佑さんの死にありました。幾度も顔を合わせていた彼がまさか死んでしまうとはと、卓也さんは今でも頭を抱えておりました。今ごろ佑がこの世を去っていなければ、俺は会ってなんと声をかけていただろうと考えていました。思えば彼が息を引きとる前日も、卓也さんは夜分遅くと知りながら家を訪れていました。

 やはり迷惑だっただろうか。しかしそんな憂慮が事実だと確かめるすべは、もうどこにも在りはしません。

 しびれを切らした卓也さんは起きあがり、居間へと足を運びました。壁に据えられた押し釦で部屋じゅうを照らすと、机上にまとめて置かれた白紙の束に手が伸びました。それはなにかの写し描きであり、なぞり書きであり。線画であり漢字のられつであり、修羅の似顔絵であり。意味も形もまばらに女の子がかき残した、幾十もの記録の山。いつのまにこうも多量にかき連ねたのかと唸りながら、卓也さんは黒鉛筆のよれた軌跡と白紙たちに、順々に目を通していきました。すると、しばらくして、

 ごとん。ごとり。

「……あれ、起きてたの?」

 草木も眠るころだというのに、じいっとこちらを見る女の子。暗いわたり廊下のなかで揺れる両の目は、居間のこしかけられた丸椅子をしっかりと見つめておりました。卓也さんは初めこそびっくりしたものの、しかしよくよく考えてみれば、以前に女の子が寝た時刻など知らないと気づきます。だから今、女の子にたいしての山ほどの訊きたいことを、べつだん遠慮する必要はないのではという思いに駆られるのでした。

「……ねえ、ちょっといいかな」

 それから体が動くのは、たいそう速いものでした。

「きみが書いたもの、勝手にで悪いけど見させてもらったんだ。それで俺、気づいたことがあるんだけどさ」

 そこで卓也さんは丸椅子から立ちあがると、つい身を乗りだして女の子に目線をあわせたのです。そして白い光に照らされる中で差し出したのは、一枚の修羅の似顔絵。

「これってもしかして、佑なのか?」

 卓也さんはつとめてやさしい声で問いかけました。

「きみは佑について、なにか知っているんじゃないか? だからあんなに沢山の書きもので佑のことを伝えようとしたんじゃないのか? だからもし、良ければでいいから、もう少しなにか訊かせてもらえるかな? 佑のことについて、なにか知っていることはあるかな?」

 その声は子供をあやすような声で、気がはなれまいとする焦りを隠せぬ声色で。それを聞いた女の子は、とたんに目の色を変えて、

 ごとん。ごとん。ごとん。ごとん。

 くるりと後戻りをし、暗がりの廊下を這っていくのです。不運にもその手元には、いつしか拾いあげた一筋の紐。やがてそれは、ほそい首のうしろで交わって、

「なっ……何をしているんだ!」

 喉に絡みつき、小さな手は力をこめました。しかし紐は不器用にゆるんでばかりで、声のとおり道をふさぐにはこと足りません。そのかわりに、女の子の目からは大つぶの涙。同時に、

「……くそ」

 初めて聞く、女の子の愛らしい声色。それは持ち主の愛らしい顔にしわを寄せて、どこで覚えたか分からない雑言を並べたてました。

「くそ、くそっ、くそっ、くそ、くそ、くそ、くそっ、くそ!」

 ゆがんでいく彼女に何を感じたのか、引きとめるのが遅れてしまう卓也さん。

 止めなければならないことは確かだったでしょう。しかし女の子は、もとはといえば一脚の椅子です。もともとは木にすぎない彼女が、はたして死んでしまうとはあり得るでしょうか。しかしそんなうしろ向きな思慮など、卓也さんにはなく、

 気づいたころには、女の子を抱きしめておりました。

 ごとり、ごとりと身をよじる女の子から感じられるのは、ごつごつと体じゅうに角があたるような感触。しかし心やさしい青年は、それでも女の子に人のぬくもりを感じるのでした。

「……もうやめようよ」

 あるいは、卓也さんはただ、女の子の痛ましさに人のかげを見たのかもしれません。すがりつくように強く、つよく女の子を抱いて。泣きたいくらいの温かさを、気づかぬうちに伝えていました。

「……ね……きみ……、だい、じょ……ぶ……?」

 せぐりあげるものを堪えながら絞り出す声。うつむいたまま顔を見られずにいながらも、女の子はなにかを伝えようとしていました。

「……まって、くだ、さ……、……くは、じさつ……なん……して、い……」

 卓也さんはなにも言わず、かたい背中をさすっていました。

「ごめんなさ……」

 とうとう堪えきれなくなって、女の子は雨を降らせました。傘のように女の子を包む卓也さんは、そばにある悲しみの正体をまだ知りません。ただ、知らないもどかしさと、積みあげられた書きものの多さだけを知っていました。

「ゆっくりでいい。今じゃなくていい。だから、落ち着いて。お願いだから」

 途切れとぎれに諭される女の子は、卓也さんのはやる気持ちに気づいていました。そんな人にかけられる言葉を、彼女はまだ知りません。ただ、知らないもどかしさと、知らない自分の非力さを知っていました。

「……そうだ。きみが良ければ、ここで一緒に住まないか。ちゃんとしたお布団もご飯も、明日からは用意するからさ」

 見えていないと知りながらも、卓也さんは精いっぱいの笑顔をたたえました。

 居間からこうこうと照る電灯の光は、今も忘れさろうとした悪夢を思いださせます。傷ついている女の子にはまだ、悲しみをさえぎるための傘が必要でした。

 持ち主をうしなったばかりの傘は、また必要とされることを嬉しく思うのです。

 はらはらと降るあたたかな雨を体に受けながら、卓也さんは女の子を包み続けていました。空に新しい朝日が顔をだすまで、いつまでも女の子のそばにい続けておりました。


 この物語が完成したのは、それから 7 年が過ぎたころです。


  ◇


「おかえり、佑。今いるか?」

 自分の家の居間に一人でいる佑さんへ、呼び声がひとつ。よその玄関の扉が開く音を聞きつけて、卓也さんが外から声をかけておりました。中からこたえる声はありません。外はすっかり日が落ちていて、立ちならぶ街灯だけが夜道を照らしていました。

「おいおい、鍵が開いているぞ。返事しないなら入るからな?」

「やめろ」

 ぴしゃりと戸を立てるように佑さんの拒む声。夜空の闇の深さやしずけさなど、この時は誰の考えにもありません。

 この時、佑さんの両手には紐がにぎられ、足元にはなじみ深い木椅子が踏まれておりました。

「分かった、じゃあここから話す。いいよな、ちょっとだけだから」

「……帰れよ」

 明るい声で話す卓也さんは、部屋の中の様子を知りません。わざわざ鍵を閉めに向かうことは、佑さんはしませんでした。きっと小さなのぞき窓を隔ててでも、顔を見られたくなかったのでしょう。もしくは、わずかにでも卓也さんに近づきたくない思いがあったのです。

「前にも言ったと思うけど、俺も一人暮らしなんだ。それもここからすぐ近くで、というよりすぐ向かい側で。どうだ、やっぱり一緒に住む気はないか」

「住まない。絶対に」

 部屋の中から舌うちが響き、それきり二人は口をききません。佑さんは音がたたぬよう気を配りながら、紐を結び直していました。そして足の遠ざかる音を立ったまま待っていると、卓也さんが声を返してきました。

「……分かった、ごめんな。また来る」

 また、という言葉を受けて、怒りが扉の外を向きます。これでもう何度目のやりとりになるだろう、いっそ殺してしまえば、この尋問の日々は終わるのではないか。しかしそんな衝動はたやすく抑えてしまえるのでした。

 人にはやさしくするように、人に迷惑をかけぬように。幼いころからご両親にすりこまれた善意に、佑さんは息苦しさを感じておりました。やさしくすることを強いられてきたために、迷惑をかけてはならぬ人たちは、佑さんにとって邪魔なものでした。

「夜遅くにごめんな、佑。勝手なことを言うようだけど、俺はおまえが心配なだけなんだ。越してきた時よりも元気がないし、いつも帰りが遅いしさ、それで」

 はやく去ってほしいと、佑さんは願うばかりです。出番を待ちわびる右の素足が、木椅子の背板を軋ませておりました。

「たまには早く帰ってもらって……ゆっくり話したいって、思ったんだ。無理にとは言わない。俺もあたまを冷やしてくるから。じゃあな」

 それだけ言うと卓也さんは、返事を待たず扉へ背をむけました。遠ざかっていく靴音は、妙にありがたくも煩わしく響くのです。

 ごとり。と、ごまかすように椅子の音。気だるげに床へ降りた佑さんは、余った紐の束を手にとりまっすぐに歩くと、音をたてて、それを玄関の扉へ叩きつけました。だらりと垂れ下がる切れ端が、わずかに扉の下をすり抜けるのを見ると、

「……少しくらい気づけよ、馬鹿が」

 嘲笑わらい、わらい。乾いた笑い。笑い。はは、あははははは。

 あの邪魔ものが一人暮らしなんて嘘さ。同じ境遇なのに明るい声を出せるわけがない。あれはくたびれた人間につけこんで、食いものにしようとしているだけさ。

 一人きりの暗がりで湧きあがる感情たち。居間へきびすを返す前に、ひとしきり笑い声は続きました。

 そんな冷ややかな声の波は、一脚の椅子を震わせたのです。

 その椅子の真上では、輪っかの影が揺れていました。身動きひとつ取れない椅子は、ただのしかかる重みに身を任すばかりでした。

 その椅子はまわりの音たちを、振動で感じていました。その椅子は今までの振動もずっと聴いてきていました。まわりの騒めく音も、佑さんの声も、つきまとう扉のむこうの声も、みんな覚えておりました。

 座面に両の素足がついた時、それは少しだけ大きな音で軋みました。

 ひょっとするとその椅子は、元より不思議だったのかもしれません。最後に佑さんが座の上に立った時、「悲しい」という感情をたしかに抱いたのですから。越してきたばかりの彼と出あい、身を預けられたころの重さ。そんなむかしと今を比べて、その軽さを悲しく思うことができるのですから。

 ——あの人のことを、強く想うといい。そうすれば君は人間になれる。

 闇夜で見初められた魔法使いさんの、魔法の呪文。ちょうど思いだしたころに、佑さんは片足を浮かせました。

 その椅子は少しだけ、魔法使いさんを呪いました。魔法をかけられたのは昨日の夜だったというのに、どれだけ彼を想えばいいかも分かりません。そもそも人間にしてくれるという言葉は、嘘だったのではないかと疑ったのです。

 しかし、そんな時。弱々しい力で、素足はまた座に触れました。

「……は、なんで」

 それきり、佑さんは動かなくなりました。きっと、一度でも仕置き場からはなれたからでしょう。そうして戻ってきたころには、もう気が薄らいでいたのです。

「なんでだよ、くそっ……あいつが邪魔したから……」

 片足がまた座からはなれ、背板をけります。しかしその力はたいそう弱く、幾度やっても足踏みとなるばかりでした。

「くそ、くそ、くそ、くそっ、くそっ、くそ、くそ、くそ……」

 佑さんは背板をけり続け、けり続け、それでも片足で座面を押さえ、椅子を倒さずにおりました。とん、とん、とん、とんという素足の音は、揺れとなってむなしく響くだけです。何もできずにいる自分に、苛だちが募るばかりでした。

 しかしそれでも椅子は嬉しく思いました。佑さんの足から伝わる熱が、少しだけ温かく感じたのですから。

 とたんに、その椅子のなかで想いがあふれてきました。そしてその想いを、伝えたいと願いました。それでいい。苛だつ必要なんてない。焦らないでほしい。きみを心配している存在はここにもいる。あの邪魔ものがいやなきもちは分かるけど、あの邪魔もののきもちも自分には分かる。だから気をゆるしてほしい。無理しないでほしい。そう、伝えたかったのです。ただそれだけで。

 がたん、と突然音がして。女の子はまぶしい光を見ました。

「えっ?」

 はじめて聞く声、そしてはじめて得た両目。まぶしさに眩むそれが色やかたちを見分けるには、しばらく時間がかかりました。

 ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ。

 それより前におかしな音に気づき、その椅子は天井を見あげました。——見あげました? 自分が動いていることを理解できず、椅子は思わず首をかしげました。

 いいえ、彼女はもう椅子ではなく、五歳ほどのちいさな女の子になっていたのです。それからだんだんと視界がひらけてくると、

 ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ。

 真上でなにかが二つぶらさがり、はげしく暴れ回っていました。それらが時おり目の前を掠めると、はじめて触れる黒い髪が視界をさえぎりました。

 ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ。

 近くからはいろんな音が聞こえました。しかしその中でも、結んだ輪っかの軋む音がよく聞こえました。なぜならそれは、人のいのちを壊す音でしたから。

 ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ。

 女の子はおもわず耳をふさぎました。なぜそうしたかは分かりませんが、そうすることで音はまぎれて少しだけ安心しました。しかし前へ後ろへ大きく揺れる影は、変わらず目の前にあるままでした。

 ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ、ぎしぃ。

 上を見あげていると、はじめてあの人と目があいました。喉元に両手をあてがったその顔は、大変におそろしいもので。見開かれた両目、しわが寄った額、なにかを求めてうごめく口は、下にあるものを捉えては片足でかくれて、

 どん、と小さな頭に鈍痛。その時に女の子は、はじめて痛みを知りました。

 佑さんは必死に下を見て、下へと足を振りおろしました。それらは女の子の肩を踏みつけては、上へと揺られはなれていきます。佑さんは遠い足場をけって踏みつけて、やがて空気を求めて上を向いたきり、二度と下を見ることはありませんでした。

 すんでのところで届かない足場は、その後も必要とされ続けました。肩を踏まれ、額をけられ、頭を叩かれ。求められていると気づいて上へさし出した両手は、あまりの小ささにけとばされ床へ落ちました。

 それからも踏まれけられ叩かれ、震える女の子は祈るしかできませんでした。ああ魔法使いさん、なぜこうなったのですか。教えてください。おれは人間になりましたか。おれはこうなれと望みましたか。あの人は今どうなっているのですか。苦しんでいるのですか。笑っているのですか。おれはどうすればいいのですか。分かりません。このままけられ続ければいいのですか。今すぐ逃げればいいのですか。分かりません。おれはどうすればいいのですか。教えてください。誰でもいいから。

 それからも佑さんは女の子をけり続けました。喉元に爪をたてながら、口からよだれを零しながら、女の子を何度も踏みました。踏み場を見ないまま踏み場をけって、足場をみつけては足場を踏んで、けって、叩いて、踏んで、けりつけて、けって、踏みつけて、けって、叩いて、けって、けとばして、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けって、けとばして、けって、

 それでもあの人は生きようとしていました。


 座ったまま気を失った女の子は、白い光を浴びながら目をさましました。目ざまし時計のやかましい音はだれの手にも止められず、朝日が昇りはじめた今も耳を打ちつづけていました。

 天井からこうこうと照る電灯は、力なく垂れた全身を鮮明に映していました。冷えきり何も求めない体は風に煽られ、忘れさろうとした悪夢を思いおこさせるのでした。

「おはよう、佑。起きてるか?」

 玄関の外から、だれかを真似たような声が聞こえました。聞くのが初めてではない声の主に、言葉をしらない女の子は「やめろ」と祈りました。

「おはよう、どうした? 誰もいなくはないだろう?」

 やめろ。

「おはよう。怖がらないで。ぼくは君を迎えにきたんだ」

 かえれよ。

「君をもとの椅子に戻しにきた。ごめんね、ぼくなりの責任取りさ」

 こっちにくるな。

「ぼくは君の願いを叶えにきたんだ」

 うるさい。

「おいおい、鍵が開いているぞ。返事しないなら入るからな?」

 ふざけるな。

 女の子の祈りを聞いてか否か、魔法使いさんは玄関をとおりました。壁をすりぬけられる彼は、あえて正面から廊下をとおって、ひざを抱える女の子の近くにきました。

「君、起きているんだろう。つらいだろうけど、君は決めなければならない。今はひとりの人間として、これからどうするかを」

 知ったような口をきく魔法使いさんは、眠りこむ女の子にかまわず話しました。

「椅子とも人ともとれる君は、少しいびつな存在さ。だからぼくは君を戻しにきた。君にとってもそれがいいだろう? あの人すらもうしなって、ただ座ったまま生きるよりは」

 目を閉じたままの女の子に、やさしい声が聞こえていました。

「まあどちらにせよ、これはぼくの魔法だから。君はいずれ椅子となって壊れていくだろう。それが早いか遅いかの話さ」

 ——それならば、と。女の子は言葉を話すかわりに、魔法使いさんにこころを伝えました。自分をわざわざ椅子に戻しにきたならば、つまりは自分に人の姿を見る人が、他にいるということだと信じたのです。

 女の子の中では、あの人はまだうしなわれてなどいません。女の子の胸のうちでいつまでも、あの人は死ねずにいるのです。だから女の子は、もう少しだけ人でいることにしました。あの人のかわりに、人を信じたいと思いました。あの人がやれなかったことを、自分がかわりにやろうと決めました。それであの人がわたしのかわりに、安心して眠ることをこころから願いました。

 そのこころを知るなり魔法使いさんは、困ったように笑いました。そして女の子から少しだけはなれると、やさしい声で呟きます。

「あの人が君を、空から眺めているといいね」

 その言葉をさいごに魔法使いさんは、風になってすがたを消しました。


  ◇


 女の子から昔ばなしを聴き終えると、卓也さんは頭をかきむしり嘆きました。一心に伝えられた物語を否定することはできず、すぎた過去はもう変えられないことを知ったのです。

 何もできなかった痛みが、しばらく卓也さんを狂わせました。悪気のなかった女の子を、いわれのない言葉で責めました。佑と会わなければよかったと、声にだして叫びました。遠い日に自分が受けたよりも大つぶの雨を女の子に降らせました。

 足立卓也と几佑は、結局のところ赤の他人です。部屋の後片づけをしたのは警官さんのお手伝いでしかなく、もちろんお葬式に呼ばれることもありません。お葬式は親族らで粛々とおこなわれたと、卓也さんは風のたよりで聴きました。

 だから何だというのだろう。

 その隔たりのせいで佑が苦しんだなら、自分が他人か否かなんてどうでもいい。

 頼ってほしかった。なんでもいいから頼られたかった。

 一人で抱えてほしくなかった。死んでしまうくらいなら、死にたくないと願うくらいなら、助けてほしいと言ってほしかった。

 そんな若者の祈りを知っていた女の子は、卓也さんをけんめいに許しました。遠い日に自分がしてもらったように、うずくまる体を包みました。ごつごつと角があたる感触に、心やさしい青年はぬくもりを感じてくれました。


 卓也さんのこころが落ちついたころ、女の子はおずおずと打ちあけました。

「椅子に戻るだって?」

 七年の時がたった今、女の子ははじめて胸のうちを明けました。自分はもうすぐ椅子に戻ること、二度と人間にはなれないことを。佑さんの椅子だった女の子は、ずっと言いだせずにいたのです。

 しかし、なぜ今まで言わなかったのかという問いに、かなしく笑い返すと分かってもらえました。せっかく分けてくれた食器もお洋服も、これからは無駄になってしまうことを女の子は謝ります。

 卓也さんは書棚に収めた記録を思いおこすと、そっと女の子の背中をなでました。

「いいんだよ、ありがとう。……これからも宜しくね」

 その言葉に互いの顔がほころぶと、ごとん、と軽やかな音が鳴りました。



  ◇



 あたらしい朝のひざしを浴びて、からだが少しだけあたたかい。忙しい日々のかたわらで、おれは今日も部屋でじいっとしている。

 しばらくすると、あの人が寝床からとび出した。目ざまし時計が鳴ってから少しおくれて、あの人はあわてて服をきがえる。正直ぴんちなあの人に、おれは何もしてやらない。

 ちん、と食ぱんが焼ける音。いくら急いでいてもあの人は朝食を食べる。焼きたてのにおいもやわらかな食ぱんの味も、もう感じられないと思うとやっぱり寂しくなる。けどおれが椅子に戻ったことは、おれ自身の意思もあるから仕方ない。

「あ、皿田おばさん。おはようございます」

 窓の外へあかるい声。返ってくるあいさつに、少しだけあせりの色。自分の子供というわけでもないのに、あの人は小言をいわれていた。

 皿田おばさんといえば、おれと、あの人じゃないほうのあの人を題材に絵本をかいてくれた人だ。あれができあがった時におれが人間のままだったら、今ごろ飛びあがっただろう。それは人間になったおれの願いをかたちにしてくれた。

 それをつくるためにあの人は、おれがかき残したものをたばねて皿田おばさんに見せてくれた。なぜわたしを頼るのと訊かれて、息子さんがいるからと答えていた。

 すると皿田おばさんは、しっている人に教わりながら絵本をかいてくれた。おれは最初こそ緊張やおそればかり抱いたけど、今となっては嬉しさのほうが大きい。

 かばんを掴む、いつもの音。あの人はもうすぐ行ってしまう。

「それじゃあ、いってきます」

 だれもいない居間に向けて、いつもどおりあの人は声をはった。むかしむかしからの朝の習慣。そのたびにおれは、少しだけ人間にもどりたくなる。

 そのたびにおれは、忘れられてないのだと安心する。

 ばたりと、扉のしまる音。いつもあかるいあの人の帰りを、おれは今日も待っている。


(了)

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すわり姫 憂杞 @MgAiYK

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