第3話 淋しさ
嫁の晴子が仕事を終えて帰宅すると、アパートの室内には、電気がついていなかった。
珍しいことでもない。
お義母さんは、早く寝る人だったから。
下駄箱の上に置いてある、キーボックスの蓋を開けて、車の鍵を掴むと、アパートの玄関ドアの鍵を閉めて、駐車場に停めてある、古くて白い自家用車に乗り込んだ。
務め先にも、この車で通勤できれば便利なのだが、そうするには月極めの駐車場を借りる必要があり、勤めさき近辺の貸し駐車場を探してはみたが、何処も空きがなかった。
それで、バスで通勤していた。
これから車で向う先は、子供たちが週2回行っている塾のお迎えだ。
二人の子供は学校が終わると、徒歩で同じ塾に通い、だいたい21時前には、塾が終わる。
アパートから20分ほど車を走らせて、塾の隣にあるドラッグストアに車を駐車した。
「ふう、今日も疲れたな」
運転席のイスを後方へ少し倒すと、子供たちが車に乗り込むまで、15分くらいはある。少し寝ようかな。
40歳を過ぎた今では、自分の体は疲れやすくなっていた。
プチ更年期障害ってやつかしら。
最近のテレビCMで、そんな言葉も知った。
とにかく疲れがとれないし、すぐにイライラするし、眠りも浅いのか夢ばかりみる。そして、毎日が忙しい。
目の前にあるドラッグストアで、なにかいい薬があれば、買って飲んだほうが良いかもしれない。
カッときて、ほんの些細なことでも家族に怒鳴ってしまうことは、自分でも自覚していたし、職場で仕事をしている最中に、そのことを思い出しては、申し訳なかったと、自己嫌悪感におちいっていた。
毎日がそんな感じだ。
ここに車があれば、ママが迎えに来ていることは、子どもたちには分かるだろう。
私は車から降りて、ドラッグストアの店内に入った。
イライラする、眠りが浅いとパッケージに表示されている漢方薬を手にした。
これでも試しに飲んでみようかな。
持っていたストアカゴに、漢方薬をいれると、ペットボトルの水もカゴに入れ義母の紙パンツも来たついでに買っておこうと別の場所へ移動した。
あれこれ品定めしていると、カゴの中に入れた物は一杯になっていた。
5人暮らしだもの、こうなるよね。
商品をレジで会計していると、店に居ると気がついた子供たちが、店内に入ってきた。
「ママ、もう会計しちゃったのか!」
長男の龍一が、残念そうな声でいう。
「なぁに、なにか買いたいものでもあるの?今だったら、まだいいわよ」
「やったねぇ」龍一は、菓子売り場へ物色に行った。
「幸一は、行かなくていいの?」
サッカ台で、マイバッグに購入した商品を詰め込みながら、ついでにペットボトルのキャップを開けて、買ったばかりのイライラを抑えてくれるらしい、粉薬の漢方薬を飲んだ。
その私の様子を見ている次男に聞いた。
「僕、いいや。なんか、今日1日だるいんだよね」
私はぎょっとして、幸一の額に手をあてた。少し熱があるかも…。
この季節は、インフルエンザが流行っていたし、学校や塾に行っていれば、病気をもらってきても不思議ではない。
そして、この子は幼いときから体調を崩しやすい子だった。
保育園に通っていたころ、高熱を出したと連絡がきて、迎えに行った。その場で幸一がひきつけをおこし、その姿に恐怖を感じた。
その光景は、トラウマに近いものがある。
今晩は様子を見て、明日は病院へ行かなければならないかもしれない。
いや、きっとそうなる。
過去の経験から、予測はできた。
そこでまた、気分が落ち込んだ。
子供の病気を理由に職場を休むと、同僚に嫌味まじりの言葉を言われるからである。
子供が二人いれば、何かと職場を休むことがあるのだ。
卒業式、入学式、PTA役員の集まり、子供の病院などだ。
自分自身が体調不良で、仕事を休むことだってある。
職場では、有給休暇という制度があっても、仕事を休めば、自分の仕事を誰かにお願いする必要があるのだ。
有給休暇ってのは、葬儀くらいに使うものだと、私に言ってきた上司もいた。
私の仕事は、5とう日事に帳簿をつけたり、雑居ビルやマンションの電気水道の検針や請求書作成などもやらなくてはならない。
社用車で職場から現場へ移動するだけでも、時間はかかり、そのために残業となることも多かったが、仕事が出来ないで残っているヤツに支払う金は無いとも言われたこともあった。
同僚には結婚している人もいる。
だが、子供がいるのは、自分だけだった。
念の為に、事務員の中でも『お局さま』にあたる人に電話をかけた。
「あ、もしもし、水川です。お疲れさまです。あの、次男が熱があるようなので、様子をみて明日病院に行く場合は、お休み頂きたいのですが」
目の前にお局さまが居るのと同じで、電話でも気弱な声で話してしまう。
「そう、子供さまが理由じゃ、しょうがないわね」そのまま電話を切られた。
独身のお局さまには、わかってもらえまい。その言葉の酷さと辛さを。
夫の信也の職場には、育児休暇などといった洒落たものは存在しない。
子育てや家事は、私がほぼ行なっていた。
やってみなければわからない事だが、細々と本当に大変だ。
こんな生活を、あと数年は続けなければならないなんて。
正直、自信はなかった。一杯いっぱいだ。
だが、子供たちが将来、大学へ行きたいと言った場合を考えると、とても専業主婦になれる家計収入ではなかった。
子供は成長すればする程、支出も増えることを知った。
大学の授業料や、他県の大学へ行った場合は、家賃などの仕送りもしなくてはならないだろう。
あれこれ考えを巡らせながら子供を車に乗せて、アパートへ戻った。
信也は、まだ帰宅していなかった。
居間の電気をつけると、ため息がでる。
電話台の棚の引き出しを開けて、体温計を次男に渡し、体温を計るように促す。
こんな日は、ポトフでも作ろう。
カレーでも、肉じゃがでも、いつでも作れるように、野菜類は常にストックしていた。
野菜の皮を剝いていると背後から「37.8度ぉ」と次男が言う。
明日の病院行きは、確実だわ。
「ご飯が出来たら呼ぶから、部屋で寝てなさい。お兄ちゃんは、さっさとお風呂に入ってしまってよー」
居間で寝そべり、さっきのドラッグストアで買った、オマケ付きのお菓子をもぐもぐと食べている。
腕時計を見ると、22時近くだった。
手早く野菜を切り、冷凍庫から切り分けてある鶏肉を炒めると、水と調味料を入れて鍋蓋をした。
サラダを作るために冷蔵庫を開けると、下の棚にお義母さん用の料理皿が入っていた。
食べ切れなかったのかしら?
そういえば、台所のシンクの中にも、お義母さんの食事後の皿が置いてなかったな。
違和感を感じて、お義母さんの部屋の前へ急いで行き、ドアをノックした。
「お義母さん、お体、調子わるいの?」
部屋からは、何も聞こえない。
「開けますよ?」ドアを開けると、寝ているとばかり思っていた義母は、ベッドにはいなかった。
お義母さん?
トイレへ見に行ったが、お義母さんはいない。
お風呂から出た長男が、頭髪をタオルでふきながら郵便ポストを開け、郵便物を出すとチャリンと床に落ちた物があった。
「あれ?お婆ちゃん用の鍵じゃない、コレ」長男が紐を摘み、鍵を振ってみせた。
「お婆ちゃん、外に出かけたんだ。でも、変じゃない?鍵を郵便ポストに入れておくなんて」
晴子は、慌てて夫の携帯へ電話をかけた。
「運転中のため、電話にでられません」留守番電話になっていた。
「あぁ、もう!」携帯電話アプリでメッセージを急いで送信した。
お義母さんが、いなくなっている!!
信也からの返信をイライラして待っていると携帯電話に着信がきた。
「ああ、俺。母さんがいなくなっているってどういうこと?」
晴子はのんびりした口調の夫の声を聞いて、次男の熱やお局の嫌味もあったせいで、涙がこぼれてきた。
「わ、わからないわ」
泣き声混じりで話す晴子に、信也は、あせった。
「え、泣くなよ、何があったのか、説明してくれよ」
晴子の鼻をかむ音が聞こえ、ため息をついたあとに晴子が話しだした。
「あのね、いつも通りに塾に二人を迎えに行って、途中で幸一が熱も出してて、職場に明日休むかも知れないって連絡いれて、お局さまに嫌味言われて、アパートに着いて夕飯作り出して、お風呂から出た龍一が、郵便ポスト開けたら郵便物と一緒に、お義母さん用のアパートの鍵が出てきて、お義母さんはアパートにいないのよ!」
晴子は、怒鳴っていた。
「わかった。母さんが出かけるとしたら、実家だ 。このまま今から行ってくるよ。幸一のこと、頼むな」
「頼むなって、今更なによ!ずっとずっと子供のことは、私に頼みっぱなしじゃない!」
晴子の言う通りだ。
俺が手伝うことといったら、ゴミ捨てくらいだった。
「ごめん…。とにかく、実家へ行ってくるよ」
電話を切ると信也は、高速道路へ乗るために、車を走らせた。
母さん、どうしたんだよ。
あんな体で、実家へ行くなんて。
無謀だろ。
22時に近い高速道路は、走行車両も少なかった。
久しぶりに実家へ来た。
家の前に車を駐めると、家は真っ暗だ。
そうだろう。
電気も止めてあるしな。
玄関のドアノブを回すと、鍵は閉まっていなかった。
やはり、この家に戻って来ていたのだ。
「母さん!」信也は靴を脱ぐと、スマホの明かりで居間へ向かった。
居ない。
和室にも、家の2階にもいなかった。
もう一度、居間へ戻り部屋の様子を見ると、見覚えのある茶色のダウンコートとリュックサックが置いてあった。
何処にでかけたんだよ。
まったく検討もつかない。
だが、こんな遅い時間に、家にいないのもかなり変だ。
信也は時間帯的に迷ったが、情報が欲しくて、母さんと親しくしていた、中山さんの家へ行き、インターフォンを押した。
2階の部屋の電気が灯り、しばらくすると秋子が玄関のドアを開けた。
信也の顔を見て、驚いて「どうしたの?信也君」
中山秋子とは中学校までは、同じ学校で同級生だった。
「夜中にすいません」信也は頭を下げた。
「うちの母さんを、今日見かけませんでしたか?」
秋子は羽織っていた白いカーディガンに袖を通すと「ちょっとまってて、うちのお母さんに聞いてくるから」
信也は、住宅地のあちこちに目を向けて待っていた。
秋子の母親が、一緒に玄関から出てきた。
「こんな遅い時間に、すいません」
信也は頭を下げた。
「アサコさんなら、今日あったわよ。移動販売車で、パンとか猫のおやつとか買って持ってたわよ。なに、いないの?」
「家には、いなかったんですよ」
秋子の母親は、口を開けて驚いていた。
「警察を呼ぶ?」秋子が言う。
「いや、もう少し、家と家周辺を探してからにします。それで、すいませんが懐中電灯を、貸してもらえないでしょうか」
秋子から懐中電灯を借りると「何かわかったら直ぐに教えてよ」
心配そうに、秋子の母親が言った。
「はい、わかりました」
信也は、懐中電灯の明かりをつけた。
災害対策用品なのか、かなり周りが明るくなる懐中電灯だった。
照らしたままで、もう一度実家へ向かった。
家の庭を照らすと、ふと庭いじりしている母さんの姿が思い出された。
『あら、信也!来てくれたのぉ。久しぶりぃ』そんな声や姿が、目の前に蘇る。
家の中に入ると、また思い出した。
俺がインターフォンを鳴らして玄関ドアの前に立っていると、廊下をパタパタ走ってきて『はぁい、どちらさまですかぁ』とドアを開ける前に確認する、母さんの声が。
信也だよと言うと、ガチャリとドアの鍵を回す音がして、玄関のドアが開き『信也!久しぶりぃ、入って入って、よく来たねぇ。母さんも会いたかったよ』喜ぶ母さんの姿が蘇る。
台所に行って、お茶をいれるねぇと言う母さん、居間のソファに座って、美味しそうに手土産のお菓子を食べてる、母さん。
家のどの場所を見ても、母さんの姿は思い出されるのに、家のどの場所にも母さんはいなかった。
テーブルに置かれていた、食パンと猫のおやつを懐中電灯で照らして見た。
どちらも封は、開けられていた。
パンは母さんが、食べたのだろう。
しかし猫のおやつを開封したってことは、みみちゃんを探しに行ったのか。
懐中電灯で仏壇の置いてある、和室も照らしてみた。
母さんが敷いた布団と、2つに折りたたんである掛ふとんがある。
仏壇のそばに行った。
「父さん、ごめんよ。仏壇をアパートに持って行けなくて」信也は泣けてきた。
「でも、言い訳に聞えるかも知れないけど、この家を大切にして、この家を建てて誇りを持っていた父さんは、この家があるかぎり、ここに居てもらいたかったんだ。あんな小狭いアパートじゃなくて」
信也は家を出て、この住宅地に建っている13の家付近と、住宅地を囲むように続く7つの道を、懐中電灯の明かりで慎重に母さんの姿を探した。
まさか、父さんのように、倒れているのではなかろうか。
不安が押し寄せる。
民家周りにも、道にも姿は見当たらない。
腕時計を見ると、2時を過ぎていた。
母さん、どこに行ったんだよ。
住宅地そばの、枯れた木々で埋まっている広い空き地の中も探したが、姿を見つけることはできなかった 。
後は、どこだ。
もしかして、K駅の方へ行ったのか?
また実家に戻り、庭の前にしゃがみ込んだ。
見落としはないかと、庭の正面に建つ家に目を止めながら考えた。
この家は、自分が実家に住んでいる頃には、なかった家だった。
見晴らしが悪くなったと、母さんがぼやいていたのが、思い出される。
この家の大きな物置き小屋で、気がつかなかったが、物置きの奥には、広い畑があり畑の奥には雑木林があったことを思い出した。
子供の頃は、遊んだこともある場所だ。
畑を避ける周り道もせずに、庭から飛び出ると、一直線に走った。
雑木林に入ると、端から端まで、懐中電灯で照らしながら、何も見逃さないようにゆっくりと歩いた。
木の葉が山のように積み重なっている場所は、手で葉をどけた。
雑木林の中央まで来て、懐中電灯の明かりが人の姿を照らした。
自分の息が一瞬、止まる。
駆け寄ってみると、母さんだった。
自分の膝から力が抜けた。
その場にひざまずくと「母さん?」体を揺さぶってみた。
触れた母さんの手は、温かみもなく冷たくなっていた。
母さんは、頭から頬にかけて、血が流れた跡があったが、顔の表情は微笑んでいた。
I市のアパート暮らしでは、見たこともないような、満足げで穏やかな表情だった。
「なんでだよ、母さん」
ひざまずいたまま泣いた。
「ごめんよ、母さん。俺が悪かったんだよな。家から離れたくないって、あれほど言ってたのに、強引にI市のアパートに連れて行ったりして。親孝行しているつもりになっていたんだ、俺は」
年を取った親の気持ちに寄り添っていなかった、冷たい息子であった自分を責めた。
こんな形で母さんを死なせるなんて、俺が殺したようなものじゃないか。
こんなことになるのなら、1人暮しをしていてもらうのだった。
わき起こる感情に、後からあとから涙と後悔が吹き出る。
泣きながら、自分の着ていたコートを冷え切っている母さんの体にかけたいとコートを脱いだ。
服を乗せるときに、母さんの手を見て気がついた。
母さんは何かを抱いているように、胸の前に手をあてていた。
「なにが、あったんだよ。母さん?本当に本当にごめんな。同居は失敗だったよ」
うなだれて泣き続けた。
会いたい 深六 汐 @shionekomaruko
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