第2話 心に刺さっていた針をぬく

 ここに至るまで、久しぶりの自発的行動と、久しぶりの人との触れ合いに興奮状態だったためか、何故なのか、K駅の1つ手前のO駅で電車を降りてしまった。

 昔の習慣が出たのか?まったく解らない。

 自分の愚かさに、笑えさえおきる。

 O駅は、大昔、自分が仕事をしていたときに利用していた駅だった。

 狭くて古い跨線橋の階段の上り下りに苦労しながら、O駅から出る。

 知らない場所でもあるまいし、ここから歩けば、この自分の足でも、そのうち着くさ。

 しかし、O駅周辺は、なんだか昔と変わった様子だ。

 昔はすぐに、国道へ出れたのに、何やら建物の中に入ってしまったのだ。

 どうしたら、国道へ出れるのか。

 O駅は、昔なら駐車場と自転車置き場、古いトイレしかない、小さなポツンとした駅だったのに。

 右へ左へとトボトボと歩き、散々迷っていたら声をかけられた。

「おばあちゃん、どしたの?」

 若い男性の声だった。

「あの、O駅にこんな建物ありましたか?私は、国道を歩きたいだけなのですが」

「ここ数年で出来た、O駅隣接の図書館と産直市場、軽食店だよ。国道へ出るなら、こっちのドアから出ればいいよ」

 男性は、私の腕を掴んで、案内をしてくれた。

「どこへ行くのよ?」

「自分の家へ帰るだけですよ」

「近くなの?」

「えぇ、K駅のそばですから」

 お礼を述べて立ち去ろうとしたとき、男性が思いがけないことを言う。


「K駅ってちょっとここから遠いよね?近くまで、おくりますよ?」

「いいえ、大丈夫ですから、国道にさえ出れば、ウオーキングみたいなものですから。これでもね、昔は登山だってしたのよ」

今では、ズボンの上からでも見て取れる、枯れ枝のようになってしまった脚には全然説得力はないだろうが。

 男性に会釈をして、歩道を歩いたが 、直ぐに鉄らしき硬い物に頭をぶつけ、しりもちをついた。

自分の額に手をあてた 。酷い痛さだ。

 電柱なのか?信号機なのか?

 私の様子を見ていたであろう男性が

「おばあちゃん、おくりますって、目、よくないんでしょ?」

男性が、引き立ててくれた 。

「そんなお手間は、おかけできませんよ」

 それじゃあ、そう言って私は、先を急いだ。

「俺、売れてないけど、まぁ〜イイじゃんって名前で芸人やっててさ、夜以外は暇人なんだよ。だから、おばあちゃんと一緒に歩く時間くらいあるんだよ。イヤだよ俺、おばあちゃんが車に轢かれるのを見るのは」

「轢かれないように気をつけますから、お気になさらずに。私は、1人で行きたいのですよ。1人で行かなければ、意味がないのよ」

 心配してくれた男性に、指でちょきをして、振ってみせた。私は大丈夫だからとの意味を込めて。自分の額はズキズキと痛んでいたが。

 男性を後にして、歩を進めていく。

 この不自由な体でも、1人でたどり着くことが、謝罪と償いと考えている。


 久しぶりのウォーキングで、体が汗ばんできた。

本当に、体は直ぐに鈍るものだ。これくらいの距離でヘタバルなんて。

 首に巻き付けたストールをはずしていると、目の前で女性に話しかけられた。

「おばあちゃん、どこへ行くの?」

 名前や住所などを詳細に聞かれたことから、どうやら警察の人らしい。

 訳を簡単に話し、これから先に向かう家の住所や、息子のアパートにいた話しなどをすると警察官から解放された。

 認知症の徘徊だと思い、先程の男性が、警察に連絡したとの話しの流れであった。

 自分は、他人から、そうも見えるのか。

 がっくりとして虚しさが募るが、それでも歩道をひたすら歩く。

 できるだけ、真ん中とおもえる道を。普通の老人にみえるように、気をつけよう。

 この先々は自分の記憶では、信号機は無いはずだ。

 あるのは、白いガードレール、その外側に鬱蒼と茂る森林と、自分の自宅へと続く坂道だけだ。

 この坂道は長い。

 日が暮れても、外灯さえない寂しい道だった。

 疲労してきた躯だが、元気を取り戻せるように、または、楽しく歩き続けれるように、歌でもうたうか。

 きみがぁああ代はー、千代にぃいい八千代に、さざれぇいしのぉーいわおとなぁりぃてーコケのぉーむぅすうまーああでぇ〜。

 口先から直ぐに出てきた歌は、国歌だった。

 なんでだろう。可笑しくて、わらった。

 桃色のストールを、棒状になるように縛りつけ、歌いながら上から下に振った。

 数十回、国歌を歌い続け、やっと目的地に着いた。


 自分の首から、紐で下げていた鍵で、築年数のかなりたっている2階建ての自宅の玄関を開けた。

 長い間、人が居なかった家の空気は湿っぽく感じる。

 可哀想に。ごめんよ、我が家。

 玄関の壁に手をつき、片手で靴を脱ぐ。

 くたびれたなぁ〜。

 口からでる、本心の声。

 やっと自宅にたどり着いたよ。

 今日は、何度安堵感を味わっただろうか。

 玄関の床に腰を下ろし、そのまま仰向けに寝た。

ひんやりとした床が、心地よい。

「あなたー!みみちゃん、ただいまぁ」

 大声をだした。

 自宅内は、シーンとしている。

いくら耳をすませても、なんの音もしなかった。

 長く歩き、疲れきった足をいたわり、ゆっくりと躯をおこしてから、家の廊下を歩く。

 かつて知ったる我が家。

 無人でも、毎月数千円ずつ私の口座からは引き落としされるから、水も電気もガスも止めてはあるが、トイレだけは、和式トイレの汲取り式なので、今日は不便ではない。

 後の事は、また考えればいいさ。

 トイレで用をたし、履いていた紙パンツをトイレのゴミ箱へ捨てた。

 廊下を歩き、台所と居間が一つになっている部屋に入った。

自分の好きなように配置してある家具類には、ぶつかることも、ほぼ無い。

 みみちゃんとまた呼んでみても、猫の気配は無い。

 しかたがないだろう。

 この家を出るときに、みみちゃんのことは、外へ出してしまっていたのだから。

 いや、違う。

 いつものように、みみちゃんは開いていた窓から、外へ散歩に出たのだ。

 こんな田舎だから、できることかもしれない。

 散歩が終われば、開けてある窓の外へ姿をみせて、室内にもどってくる。


 誰かに、みみちゃんの引き取りをお願いするべきだったが、老猫を保護猫団体が受け入れてくれるのか?

 仲良しのお友達は、それぞれ犬を飼っていたり、インコを飼っていたりして、みみちゃんの引き取りは、やんわりと断られていた。

 I市に自分が移住する日になっても、みみちゃんは外窓へ姿を見せなかったのだ。

 自分が気がつかないでいた、恐れもある。

 あんなに可愛がっていたのに、あのまま流されるようにI市に移住してしまったことは、本当に可哀想で申し訳ない気持ちでいっぱいだった。あの時の自分は、どうかしていたとしか思えない。

 息子が言う。

 父さんのように、道端で倒れられてたりしたら大変だからと。

 夫は、朝の日課になっていた散歩の途中で、屈んだように倒れていたのだ。

 着ていたシャツの左布は掴んだ右手によって、しわくちゃになっていた。

信じられない光景だった。

今でも、あの時の主人の姿を思い出すのは、怖かった。

 1人暮らしとなった母親にたいしての、息子からの言葉に絆されて、私は息子について行ってしまったのだ。


 

この古い自宅は、玄関を入って右側の明り取りの窓ガラスは、下部のガラスが小さく三角形に割れていた。

 住んでいたときには、茶色のガムテープでガラスの欠損部分を塞いでいたが、移住するときには、ガムテープは剥がし、キャットフードの袋を開けて置いていたのだ。そのキャットフードに手を入れてみたが、中身はまだ入っていた 。


 居間に来て、居間の掃き出し窓は、少し開けておいた。

 みみちゃんが、家に入って来られるようにと。

 居間隣の、和室の箪笥から自分の下着を探し、履いた。

 押し入れの上から、右側の布団を出して、そのまま布団に潜り込んだ。

 懐かしい。あなたの匂い。


 夫の匂いに包まれていたら、泣き声をあげていた。


 居間のカーテンが、風に吹かれてバサバサする音で目が覚めた。

 みみちゃん、いる?

 家の2階へ上り「みみちゃん!」

 猫の名前を呼んでみる。

 家の1階でも2階でも、みみちゃんの気配はさっぱり感じない。

 今年で18歳になる、みみちゃん。

 人間の歳で例えたら、何歳なのか。

 子猫の頃から育てた、私のかわいい、もう一人の息子だ。

 キジトラ模様で、鼻が薄い桃色で、とても美猫な子なのだ。溺愛していたのだ。

 ぼんやりしていたら、家の外から人の話し声が聞こえてくるのに気がついた。

 これは、そうか。

 まだ来てくれているのだ。

 急いで、がま口を持つと、自分のズックを履き、声のする方へ「待ってー!」と叫んだ。

 この地区は老人が多いために、移動販売車が週2回ほど、来てくれるのだ。

「食パンと小さいペットボトルの水4

 本、あとシニア用のキャットフードがあれば、くださいな」

「はいはい、ありますよぉ。あ一、キャ

 ットフードは置いていなかったよ。ごめんねぇ。猫のおやつならあるけどねぇ」

「じゃあ、それ2つでおねがい」

 がま口から紙幣を1枚出し、お釣りを

 貰う。

「はい、130万両のおかえしねぇ。次に来るときには、キャットフードも仕入れておくからね」

「今年で18才だから、老猫用で、おね

 がいね」

 こんな会話も懐かしい。

 いちいちお釣りに「万両」 と言葉を付けるのも、この店の主は変わっていない。

「あら一!水川さん、帰って来てたの?」

 この声は、この住宅内の小道隣りの中

 山ミホコさんだ。

 そしてこの地域の、ちょっとした、顔

 役さんだ。既に退職はしていたが、小学校の先生をしていた人で、今は旦那さんと娘さんと3人で暮している。

「お久しぶりですねぇ。昨日、家に着い

 たんですよ」

「そうだったの?お暇なときに、お茶で

 も飲みに来て頂戴ね」

軽く二人で、抱き合って笑い声をあげた。

 中山さんは、移動販売車の主に、味噌頂戴よと直ぐに買い物が始まった。

 ご近所さんとの挨拶に、晴れやかな気

 持ちになり、家へ戻った。

 これが、いい。この生活が、いい。空気の匂いも、吹く風も全てがいい。

家が古くなったって、私は新築の頃の家を知っているから、この家はある意味では古くないのだ。

 それに、ここでは「おばあちゃん」 ではなく、 水川アサコなのだ。

若いときから、年寄りになるまで、一緒に語らいできた、大切な友人のご近所さん。

 風光明媚な登山を、何度も行った登山

 友達だ。中山さんは。

 もよおす尿意に堪え切れずに、互いのジャンパーで排尿姿を隠しあった、あの頃の思い出話しに、また笑いころげたいと思った。

 1つ1つ、丁寧に思い出せば、私の頭の

 中は、映画館でもある。

 自宅へ戻りドアを開け、玄関内で、昨日履いて来た靴を踏んでしまった。

 晴れやかしい気分だったのを、汚された忌々しい物体に感じる。

 もう一度外へ出て、自宅の庭の奥へ届くように、靴を放り投げたが、実際にはすぐ手前に落ちてしまった。

靴の落ちた所へ行き、靴をつまむと、家の裏へきちんと並べた。そして、また庭に戻った。

 枯れ草が山積みになっているであろう、私の庭。

もう、庭いじりはしてあげられない。

 だが、花壇の真ん中には、主人が好きだった、赤い花びらを咲かせる、かわいいチューリップの球根が土の中で、出番をまっているはずだ。

 過去の思い出は、年寄りになった身には宝物だよ。

 家の中に入ると居間で、食パンの袋を開けて、そのまま食べる。

 どんな食べかたであろうと、パンをこ

 ぼそうと、この家は私の場所。

 1人で食事をすることには変わりはないが、1人の意味合いが全く違う。

 パンを1枚食べ終わったところで、仏壇に先程購入した水をキャップを外して、お供えした。

 I市へ移るときには、アパートには、仏壇を置く場所がないとかで、この家に放置されていたのだ。

「あなた、お水で悪いけど、飲んでね

 え」

 ガスコンロは点火しないし、水も出な

 い。それにお茶っ葉も、いまはないの

 だ。

 すぐわきに敷いてある、布団にまた横

 たわる。

 主人の匂いのする布団の中で、主人を

 何度でも思いだす。

 優しい人だった。

 決して料理が上手な訳でもない自分の

 手料理を、いつも美味しいと言ってくれた。

 いろんな場所にも、旅へ出かけた。

 年寄りになった、妻をかわいいといっ

 てくれた。

 主人とすごした年月は、良いことしか、思い出せない。

 あの頃は、本当に楽しかったな。

 こんな老婆になり、余生を過ごすことなど、当時は想像すらしなかった。

 誰でも、その年代、歳を経ることは

 初体験なのだ。

 この家を、1人息子が売却すると言ったときは、その気持ちのあり方が悲しかった。

 1人息子だったためか、いや、子供が何人いようとも、慈しんで大切に育てたつもりだ。

 多少、過保護な母親だったのかもしれない点は反省だが、過干渉ではなかったはずだ。

 でも思う。子供はきつい言葉で言えば、衣食住を整えてあげれば、後は必要はなかったのではないかと。

 巣立ってしまえば、親なぞ無視同然の、子供自身の人生の始まりだ。

 この家も、主人が結婚してから新築で建てた家だ。

 子供が3才になってからアパートを引きはらい、この家へ越してきた。

 幼稚園には、自宅から通わせたいと主人は考えていた。

 大人になって結婚するときがくれば、この家で暮らせると、親は勝手に思い込んでいたのだ。

 いまはもう、諦めている。ただ、私が生きているうちは、この家の売却はしないでくれと、息子には頼んでいた。こんなことを子供に頼むなんて。

 結果がこれでは、主人と住んでいたあのアパート暮らしのままでも、良かったのではないか。

 息子には必要もない家であったことは、淋しいばかりである。

 ああ、そうだ。

 目が不自由だから、私の銀行通帳は息子が管理している。

 自宅へ戻った以上、その事も考えなけ

 ればならない。

 伸び放題の白髪頭の髪の毛も、K駅近くにある、馴染みの散髪屋で切ってもらいたいし。

散髪屋のケイコさんの姿を思い出し、自分の口元が緩む。

お客さんが居ないときは、パイプ椅子にすわり外に出てタバコを吸っている。

散髪屋に入りカットをお願いねと言うと、ケイコさんは右頬気味に斜め笑いを浮かべて、ちょっと、聞いたぁ〜と最近仕入れたこの地域の噂話をかすれ気味の声で、話し始めてくれるのである。

とても楽しいお友達だ。

明日にでも、ケイコさんに会いに行きたい。

ケイコさんに会えば、この地域にいなかった分の情報が私の気持ちに入る。

失った時間が少しでも取り戻せる。 


なるべく早く、お金は必要だ。

箪笥預金で暮していこう。

それでいいじゃないか。

 私はもう、この家から、この馴染んだ

 地域から、お友達から、離れる気持ちは、さらさら無いのだ。


 居間の掃き出し窓のカーテンが風で、バサバサする音がまた聞える。

 寝ていたときに、主人とよく行った、K温泉郷の夢をみていた。

 主人との夢を見て、その後にI市でのアパート暮らしを思い考えた。

 さぞかし、息子夫婦には、私はお荷物

 だっただろう。

 私と主人が旅を楽しんだように、私が

 あそこに居ることで、あの家族たちに

 は、それすらも出来なかったのだから。

 同居の日々で、息子家族の自由を、私

 は奪っていたのであろう。

 現に、お嫁さんが老人施設への入居を勧めてくれても拒んだりしていたのだ。

 ディーサービスに行くのも勧められたが、それも嫌だと突っぱねた。

自分の頭のどこかには、子供が親の面

 倒をみるのは当たり前だと、古臭い考えすらもっていた。

 今は、核家族化の時代なのに。

 この家に戻り、反省の気持ちが湧いて

 いた。

 あの家族たちに、虐げられていると思

 い込んでいた自分は、なんて甘えた人間だったのだろうか。

 自分の駆の不自由さ、日中の孤独さに、我儘が出てひねくれていたのだ。

 お嫁さんが、私の食事に気をつかい、

 細かく刻んだ料理を日々、作ってくれていたではないか。

 息子は、仕事帰りに、私が好きなクリ

 ームがのっている美味しいコーヒーを、よく買ってきてくれたではないか。

 孫の2人も、塾通いやクラブ活動がない日は、学校での珍事件など語って聞かせてくれ、笑わせてくれた。

 そして時には、肩をもんだりしてくれ

 た。

お嫁さんが、家具を増やすのも当然のことだ。

子どもたちの成長によって、物は増えていくものだ。

 自分の居場所がなかったわけではなく、私は昔と今を比べながら、I市で不満感情を巨大な風船のように、大きく大きく膨らませていたのだ。

 老いては子に従えというではないか。

 息子よ、お嫁さんよ、ちょっとの期間

 しか従えなくて、ごめんよ。

 



仕事で忙しくても、休みの日には、息

 子はこの家に、自分の運転する車で200キロ以上離れたこの家に、私を探しに来るかもしれない。

 謝罪の念は湧き上がるが、だが、申し訳ないが、もうI市へは、戻るつもりはない。あんな暮しは、お互いにもよくないのだ。

 もう、この家で、出来るだけ長く住むことが、私の希望であり、我儘であろうが、息子には、私の気持ちを理解して貰うしかない。


 また居間のカーテンが、風に揺るされている。


 家の中にみみちゃんが、入ってきたかもしれないと、布団からでて、みみちゃんの名前を呼んだ。

 風の音だけだったのかな。

 今日買った猫のおやつを開封して、そのうちの1本を、着ていたセーターの服のポケットへ入れて、下駄箱の上にある、小型な懐中電灯を手に取ると外へ出た。

 I市と違い、この地域の、日暮れはとても寒い。空気がピリッとしている。

 家に来ないなら、みみちゃんは、きっとあそこに居る。

 自宅から直ぐそばに、ちょっとした雑木林があるのだ。

 雑木林の前に広がる畑を歩くわけにはいかないので、大きく周り道をして、田んぼのあぜ道から雑木林の中にはいった。

 パキパキと落ち葉や枯れ枝を踏みながら、林の中をみみちゃんの名前を呼びながら歩いた。

 伸びている木々の枝が、体のあちらこちらに、しなっては強くあたる。

 手にした懐中電灯のスイッチを入れてみたが、私の視界が明るくなることはなかった。

 枝を避けるために、両手を前に横に伸ばしながら、歩をゆっくりと進めていたが、注意が手にいくぶん、あっけなく木の根っこに足を引っ掛け、前につんのめってしまったと同時に、頭に激痛を受ける。

 そうだったよ。

 この雑木林には、大岩があったのだ。

 雪が積もれば、大岩に雪を乗せ硬め、子供とソリ遊びなどをした岩が。

 頭を打ち付け、呻き、大岩のわきにずるずると仰向けで倒れた。

 小寒いなか、頭から流れ出る血が暖かいと感じた。

 

 気が遠のいていく。


 私の頬を舐めてくれる感触で、意識が戻った。

「みみちゃん!」

 言うと同時に、涙がでる。

 今まで、ほぼ見えなかった私の目なのに、みみちゃんの姿はハッキリと見えていた。

 みみちゃんは、毛並みの良い若いときのみみちゃんに見えた。

 自分の胸に強く抱きしめ、愛猫の頭の匂いを嗅ぐ。

 甘い優しい匂い。

「待たせてごめんね」

「待ってたよ。お母さぁん」

「あれ、驚いたぁ。みみちゃん !人の言葉、話せるようになったのぉ」

 みみちゃんの喉を鳴らす、可愛らしいゴロゴロした音を聞きながら、林の上にひろがる、夜空を眺めた。

 風もなく澄みきった空に出ている星まで、はっきりと見えるではないか。

 みみちゃんを強く抱きしめながら、しみじみと幸せを感じた。


 自分の心に刺さっていた針がとれた。

 嬉しい。


 頭部の痛みは、それほど感じない。

 それどころか、この雑木林の中を、走れそうな不思議な感じさえする。

 深く長いため息をついた。

「勿体無いねぇ。みみちゃん」

 せっかく物が見えるようになった目なのに。

 猫に話しかけると、みみちゃんの、喉を鳴らすゴロゴロ音が大きくなった。

 



 もう、目を開けていられなくなった。遠のく意識と一緒に瞼が閉じた。

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