会いたい
深六 汐
第1話 他人の優しさ
同居なんて、失敗だったよ。
I市に住む息子の家族に、虐げられている。
原因は、私が悪いからだと分かっているから、何も言える事もないし、言う必要もないし言いたくもない。
ここに私が居るのが、違うのだ。
私はここに来てから、心に太い針が1本刺さっている。
日に日に針は、奥へ奥へと心を貫いていく。
痛いのだ。泣きたくなる。
もういい加減その痛みを、自分で取り去る必要がある。
それができれば、後はどうでもいいのさ。
自分専用にあたえてくれた、6畳の狭いアパートの洋室部屋の窓を開ける。
部屋に流れ込んでくる外の風は、まだ冷たい。
古びれて生地の薄くなった、茶色いダウンコートを羽織り、同じく使い込んだ紺色のリュックサックを背負う。
ファスナーで大きく開閉出来るこのリュックサックには、昨日から必要な物を収納してある。
緑色のがま口と桃色のストール、ポケットティッシュだけだ。
何かあった時のために、息子から渡されていた4万円もある。
まぁ、このお金も私の銀行口座から下ろしてくれたお金だ。息子のお金ではない。
お札は1枚ごとに2つ折りにして、がま口にきれいに入れてある。
この方が、ほぼ見えない自分の目でも、指先で確認しやすいからだ。
ここにやって来てからは、外出や買い物をまったくしていないので、小銭はほとんどないが、電車の切符を買うくらいはあるだろう。
ここを出て行く。
先のことを考えれば、なるべく節約していかねばならぬ。
紙パンツはどうしようか?
もう外へ出るぞと思ったとき、気になった。
屈辱でしかない。紙パンツ。
1つしかないアパートの洋式トイレを、私がよく汚してしまうし、トイレ掃除も上手く出来ないから、息子のお嫁さんに紙パンツで用を足すように言われたのだ。
匂うからと、使い終わった紙パンツは自室に設置してくれた蓋付きのゴミ箱へ、入れて置くようにと言われていた。
月曜日と木曜日に、自室前の廊下へゴミ袋を出しておけば、同居人の誰かが捨てに行ってくれる。
散々迷ったが、1枚だけ、紙パンツをダウンコートの深めのポケットへ入れた。
このアパートにあるものは、何も持ちたくなかったが、紙パンツなんて私が消えてしまえば、ゴミ箱行きのゴミクズだ。
ゴミクズの1つを持っていくだけさ。
1年近く散髪へも行っていないから、肩まで伸びてしまったバサバサの白髪の多い髪の毛を、いつも左腕に付けている輪ゴムで頭の後ろへ纒めた。
今日の同居人4人は、それぞれ勤め先や、学校へ行っている。
自分1人で、この狭いアパートをのろのろと移動できるのは、心地がよい。
誰もいない時間に、テレビをつけて、音を聴くことくらいしか日々の楽しみはないが。
同居人が帰宅すれば、何かしら怒られる。
その辺の物にぶつかっては、なにかを飛び散らかすからだ。
お嫁さんは、時どき家具を増やす。
なんとか覚えた家内の様子が、変わることが度々あるのだ。
それによって、室内の歩きかたもわからなくなる。
住んでいる者には、部屋の模様替えも必要だろうが、自分は大変不満だった。
だから、自室に引き込もりがちになるしかない。
そして同居人の起床時間も帰宅時間もそれぞれだった。
私の食事は、冷蔵庫内の1番下の棚に置いてもらっていた。
冷蔵庫から料理皿を出して、自分の食べたい時間に自分の部屋へ運び、独りで食べた。
共有スペースの台所のテーブルで食事をとると、何かしら料理を床へこぼしたり、瓶醤油を倒したりして、いろいろやってしまうからだ。
同じ場所に常に置いてくれればいいのに。
お風呂も、誰もいない日中にシャワーで済ませていた。
固形石鹸を握りしめ、体も髪も顔も洗った。
髪の毛はギシギシしたが、風呂場に並べてある洗剤がどこに使うものなのか、さっぱりわからない。
シャワー水を出す栓を奥へ回し、お湯がでれば万歳で、いつまでたっても水のときは、そのままで済ませた。
お湯にするやり方が、分からないのだ。
なにも飛び散らかしたりしないように、壁や家具に手をあてながら、慎重に玄関までたどり着くと、下駄箱の上に画鋲で紐に吊るされていた、アパートの鍵を持った。
日々、出かけないから、自分の仕舞われたズックがどこにあるのかさえも、わからない。
しょうがない。
屈んで、玄関内に置かれていた靴に、それぞれ足を入れてみた。
ゴム長を半分にしたような手触りの履き物が、少し自分の足より大きめだが、それを履いて、しかたなく玄関の外へ出た。
2つの物を結局、このアパートから持ち出すことになるなんて。
決別にすっきりしないが、裸足で行くわけにもいかない。
アパートのドアの鍵を、苦戦しつつなんとか締めることができた。
なんだって、ドアに鍵閉め穴が上下に2つもあるのさ。
用心のために何度もドアノブを引っ張って、ちゃんと鍵がかけられたことを確認し、アパートの鍵を玄関ドアに付いている郵便受けの中に落とした。
チャリン、カタ。
鍵の落ちた音で、胸がスッキリする。
おさらばだ。I市のアパートよ。
玄関ドアを、そんな気持ちで撫でた。
外へ出ると、思っていた以上に寒いが、暑いよりはましだ。
この歳になると、寒さは躯に感じるが、暑さには鈍くなる。
全く土地勘のない、このI市。
例え、毎日出歩いたとしても、アパート周辺の様子は覚えられまいし、まず、覚える気持ちも更々なかった。
数年前から患ってきた自分の目。
今では、物を見ると、視界の隅までは全く見えない。
もう79歳だ。
躯のどこかしらが、傷んできてもしょうがないのさ。
さてと、駅へ向かわねばだ。
駅がどこにあるのかも、わからないが。
ジリジリと歩を進めて、歩道と車道ぎわの段差を足先で確認して、歩道ギリギリまで寄ると、右手を上げて立ってみることにした。
右頬が、寒風を受ける。
そんな風をあてたって、無駄だよ。
もう私は、鳥かごのような生活には、戻らないのだから。
吹き抜ける風で、輪ゴムで纏めた髪の毛も、乱れてきた。
なかなかタクシーが来ない。
寒風に躯を殺られる前に、リュックの中からストールを出して、ほっかむりしようかと考えていたときに、目のまえに車が停止したブレーキ音が聞こえた。
やっと来たぞ。
のろのろと歩き、開いているであろう、ドアに手をかけながら、車内に乗りこんだ。
老人と見てか、それとも商売柄なのか、お嫁さんのように、私のノロノロした動作に怒号を飛ばしたりはしない。安心した。
「どちらまで?」
やはり、間違いない。タクシーだったのだ。
「M駅まで行ける駅まで、お願いできますか」
「はい」
タクシーは走りだした。
そして、私の心も走りだし、嬉しくなる。
目的地に到着したタクシーから降りると、心は開放された気分だ。
ガヤガヤと人の声のする方向へ、ゆっくりと歩き、歩道に上がると、ポケットに突っ込んだ、タクシー料金のお釣りを、お札から1枚ごとに丁寧に4つ折りに畳み、小銭はお札とは別の仕切りに入れた。
やはり自分では、小銭での支払いは難しい。
タクシーの中で、代金1580円の580円が、焦りも手伝ってがま口から選び取れないのだ。
屈んでいたついでに、リュックサックの中から、桃色の木綿製ストールを出して、首にまいた。
目を細くして、目に力を入れて、駅の中を見渡す。
初めてだったかな、この駅。
ジュースを自動販売機から買うように、電車の切符を買うことは、今の自分にはできまい。
駅員が居る窓口を探し、M町までの切符を、お札で支払う。
「M町までの電車は、直ぐきますかね?」
窓口の駅員は、丁寧に答えてくれた。
聞いた説明によれば、どうやら、5分後に改札口を出て直ぐの駅ホームに電車は来るようだ。
ホームに立って、電車を待っていると、何故か涙がポロポロと出てくる。
嬉しい。
ノロノロと動く自分に叱責しなかった、タクシー運転手も、丁寧に説明してくれた、駅員も。
首に巻いたストールで、涙を拭った。
左からくる電車の音と、電車が巻き起こす風を体で受け、気持ちを奮い立たせる。
「待っててね」
力強くそう思いながら、電車内に乗り込む人の列に、おぼつかない足で続いた。
M町に着いた。
大きな町だけに、平日でも人の往来が多い。
不自由な自分の目だが、取り囲むように聞こえる様々な声や、歩行音でわかる。
だが、この町の駅は昔の自分の生活の一部分でもあったから、どこに何があるかは、だいたい熟知している。
人にぶつからないように、用心して通路の端を歩く。
券売機の前まで来たが、どの切符を買うべきかが、やはりよく見えないのが、悔しかった。
何度も何度も利用していたM駅なのに。
ここに到着しても、疎ましい自分の目は、I市での暮しの呪縛の延長線でもあるかのようだ。
目は見えているわけだし、歩けるし、平日の病院は割と空いているだろうから、通院するようにお嫁さんにはいわれていた。
今になって、そうするべきだったと思ったが、なに、これからそうすればいいのさ。
しかたがないので、駅員の窓口と思われるところで、訊ねることにする。
「K駅までの切符を、かいたいのですが」
対応してくれたのは、女性だった。
「ここからK駅ですと、250円です」
私はリュックサックから、がま口を取り出す。
お札で会計をしようと、札をつまんだとき、バラバラと小銭を撒き散らしてしまった。
「あぁ…」私は屈んで、手に触れる小銭から拾い上げて行くが、散らした小銭から関係ない所へ進んでいたのであろう。
窓口で対応してくれた女性が側に来て、すべて拾ってくれた。
「お金は勿論ですが、おばあちゃん、この指輪やボタン電池、小さなコインメダルも一緒にお財布に入れても、大丈夫ですか?お金とは別に分けましょうか?」
私は、指輪はわかってがま口に収納していたが、まさか電池まで、がま口に仕舞い込んでいたとは、気がつかなかった。
女性の優しさに、甘んじた。
「ごめんなさいね、今日に限って眼鏡を忘れてきたものですから…」
眼鏡などは、元々持ってはいなかったが、その場を取り繕うために、ついつい言ってしまった。
指輪は自分の左手の薬指につけ、処分してくれるという、電池類はそのままお願いし、 コインメダルは着ていた服のポケットへ入れた。
K駅へ向かう、電車の時刻を聞くと、まだ1時間先だと教えてくれる。
「いろいろと、ありがとうございました。本当に助かりました」
お礼を言いながら、勝手に涙がにじむ。
「いいえ、お気をつけてね」
軽く会釈をし、その場を離れたが、K駅へ向かう電車は、まだ来てはいまい。
1日数回程度しか、走らないT線の電車。発車までホームに停車している時間も長い。
少し座りたいと思った。
目を凝らしながらトボトボ歩くと、白い椅子のような物をみつけた。
あそこで、休ませてもらおう。
座ってみると、プラスチックみたいな椅子だ。
久しぶりに、自分の左手につけた、指輪を右手で回す。
指につけてみると、安堵感が湧いて来た。
なんでもない事だろうにね、今日は、一喜一憂だ。
そんな自分の気持ちに、口元がほころぶ。
「あの〜」
若い女性の声が、左側から聞こえた。
「はい、なんでしょう?」
「よかったらですが、電車が来ちゃったとかで、食べずに行ってしまったお客様がいて、お代は頂いているんですよ。おばあちゃん、よかったら召し上がりませんか?」
先程までの焦りと緊張のためだったのか、話しかけられるまで、私の鼻は、食べ物の匂いを感じていなかった。
切符を買った近くにあるこの椅子は、食べ物屋さんの椅子だったのか。
「あぁ、すいませんでした。注文もしないで、座ってしまって」
「いいんですよ。いまランチプレート料理、お持ちしますね」
おそらく、がま口の小銭を拾うさまを見られていたのかもしれない。
だから、声がかけやすかったのだろうか。
直ぐに目の前に置いてくれた、料理は、やはり良く見えない。
人前で皿に顔を近づけて、動物のような仕草での食事のしかたを、他人に披露する気にはなれなかった。
また違った若い女性に、相席いいですか?と問われた。
「えぇ、どうぞどうぞ」
相席の人は女性2人組らしく、これから行く旅先での話題をしているようだ。
近くにいれば、若者らしく賑やかな会話は聞こえてしまう。
「バッテリーの充電が、やばい!」
「あぁ、充電器かそうかぁ」
「さっすがぁ〜。用意がいいねぇ」
キャピキャピと楽しげな雰囲気だ。
かわいいと思った。
そして、若さは素晴らしいものだ。
彼女たちの食事が、運ばれたのか、会話が途絶えた。
今なら、話しかけても、大丈夫だろう。
「すいませんが、今、何時ですか?」
教えてくれた時間だと、K駅へ向う電車へ向かったほうがよさそうだ。
また私は、話しかけた。
「このお料理、まだ手をつけていませんので、よろしかったら、どうぞ」
私は、にこりと笑ってみせ、料理を少しだけ、彼女たちの方向へ押した。
熟知しているM駅なのに、改札口の切符が吸い込まれて行く機械の切れ目部分が、自分の目では見えない。まさに盲点だ。
自分自身に腹が立って来た。
I市のアパートで暮らした1年弱の間、身内に嫌われるのも、納得というものだ。
こんな有様なのに、椅子で休憩していた、自分は愚かでしかない。
気が急ぐ。
「すみません!どなたか、切符を通してもらえませんか?」
焦りのためか、大声を出してしまった。
そばに来てくれた見知らぬ人に助けられ、眼鏡云々の弁解をまた言い繕い、お礼を述べると、トボトボとK駅へ向うホームT線へ向う。
本当は、せかせかと早足で歩きたい。
T線の電車の乗り口場所は、自分の頭の中では、しっかりと分かっている。
改札口を出て、通路の最後、突き当りを右に曲がればよいだけだ。
T線は通路の最後にあるだけあって、歩く距離もある。
通路のどんつきを手で触り確認したら右に折れ歩き、階段の手摺りを掴みながら慎重に階段を下り、K駅へむかう電車の側までやっと着いた。
残念なことに、ホームには人の会話などもなく、気配すらもない。
I市駅のように、人の列について乗車ができない。
まぁ、いいさ。手で電車へ触ればいいだけだ。
ベタベタと停車している電車を触り、入口をみつけて、大股で車内へ入った。
電車内の入口の鉄の棒に、つかまった。
ここなら、直ぐ降りられる場所だ。
ハァーと大きなため息がでる。
自分の胸が、かなりドキドキしているのが、わかる。
もうすぐだから、がんばれ。
心臓に右手をあて、自分自身を励ます。
電車内に行き先のアナウンスが流れると、プシューと電車のドアが閉まり、電車の走る速度で、立っている体が左右にゆれる。
さぁ、後14分でK駅に到着だ。
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