妖精不動産

新井狛

私と時計の小さなお家

 ざくざく。編み上げブーツが枝と小石混じりの地面を踏む心地の良い音がする。柔らかな木洩れ陽と、ふわりと立ちのぼる苔の匂い。ぎっしりと道具を詰めた旅行鞄が重たいけれど、期待に跳ねる心臓が元気に血液を送ってくれるお陰でまだまだ指には力が残っている。


 イングランドに広がる美しい丘陵地帯、コッツウォルズ。成田国際空港からヒースロー空港までの14時間を越えるフライトを終え、列車とバスを乗り継いでここまでやってきた。みっちりと詰め込んだ仕事を片付けて、ようやく手に入れた1ヶ月の長期休暇だ。木洩れ陽の挿す小道の先に、レンガと木で出来た小さな家が見えてきた。この小さなロッジが、今日から1ヶ月間のわたしの家だ。


 可愛い金色の鍵を挿し込んで、ドアを押し開ける。薄い埃の匂いを吐き出して、小さな家は私を迎え入れた。ベッドの脇に旅行鞄を放り出して、カーテンをと窓を開け放つ。柔らかな陽光と森の香りが、埃っぽい空気を追い出して暖かく室内を満たした。ひときわ大きな掃き出し窓をからりと開ける。


「わぁ……」


 思わず声が漏れた。木洩れ日の落ちるテラスに、アンティーク調の机がぽつんと置かれている。はらりと落ちた枯葉を手でそっと払って、私は口元が緩むのを感じた。 

 急いで部屋の中に取って返すと、旅行鞄を開く。鞄の中には着替えのワンピースと、下着が何組か。ショーツを散らかして、厚手のエプロンを引っ張り出す。はやくはやくと震える指先を宥めながら、道具箱を取り出した。道具箱と、幾つかの包みを危なっかしく腕に抱え込んで、よたよたとテラスに戻る。


 抱えてきたもの全てを机に並べて、私は満足して頷いた。スパチュラにピンバイス。ピンセットにノギスに――私の大切な仲間たち! 今日から1か月。私はここで大好きなドールハウス作りをするのだ。


 雑貨を家に見立ててドールハウスを作るのが私の趣味だった。東京の小さなワンルームが私の自宅で、いつもはそこで作業をしている。タワーマンションの狭間に埋もれるように建っている築35年のこぢんまりとしたマンションには、自然光なんて朝の1時間半わずかに差し込むだけだ。

 作ったドールハウスを木や草むらなどの、自然物を背景に置いて写真を撮るのが好きだった。でもどんなに素敵にできた、と思ってもいざ部屋から外に持ち出してみると全然印象が変わってしまったりする。一度でいいから、木漏れ日の中で、小鳥の声が響く自然の中でドールハウスを作りたかったのだ。

 

 道具を広げてはみたものの、陽はもう傾き始めていて、木々の間から垣間見える湖が茜色に染まり始めていた。誰に見られているわけでもないけれど、爆上がったテンションにちょっと気恥しい気持ちになりながら道具を片付ける。作業は明日からやればいい。なんせ時間は一ヶ月もあるのだから。


  § § § § §


 翌日。私は鼻歌交じりに道具を広げると、さっそく作業に取り掛かった。まずは家の土台にする雑貨選びだ。大小の包みを開いて、雑貨たちを取り出す。欠けてしまっているけれど年季の入った素敵なティーカップ。丸い小窓付きの紅茶缶。きらきらの銀の蓋のスパイスボトル。どれも捨てがたいが、なんだかしっくりこない。

 次の包みを開いた私の手が止まる。中に入っていたのは、子供用のエナメルの靴。ぴかぴかに磨かれた真っ赤な可愛い靴は、姪っ子がピアノの発表会のために買ったのだけど、その一度きりしか履く機会がなくてサイズアウトしたのを譲ってもらったものだった。木洩れ日が落ちてキラキラ輝く靴を最初のおうちにすることに、私は決めた。


 午前中いっぱいかけて、靴に小さな窓や扉を作った私はうーんと伸びをした。さらさらと風が吹く。すっかりお腹が空いてしまった。昨日夕食を食べに出たついでに手に入れたサンドイッチを取りに部屋に戻る。サンドイッチの包みを手に取った私の目に、果物をたくさん詰め込んだサングリアの瓶が飛び込んで来た。ほっぺたが緩む。長い休暇だとこういう事も許されるのだ。


 サンドイッチをつまみながら、サングリアを傾けた。瑞々しい香りの甘いお酒が喉に落ちてくる。ふわふわする頭で、ミニチュアインテリアを詰めた箱を眺めてこの赤い靴のおうちに何を配置しようか考えた。試しにと金細工付きのチェストと布張りのソファ、可愛い縁取りのローテーブルを仮配置したところで、瞼がとろりと重くなってくる。火照った頬を森の香りのする風が優しく撫でた。ああ、少し休憩を――。


  § § § § §


 くすくす。

 くすくすくすくす。

 楽しげな声が耳をくすぐる。声は右耳のすぐ横を通り過ぎて、近くなったり、遠くなったり。重く閉じた瞼を、淡い光が撫でた。


「ねぇねぇ、私たちにぴったりよ、これ」

「もらっちゃう? ねぇもらっちゃう?」


 くすくすと、鈴を転がすような声が笑う。ひそひそ。ひそひそ。近所の子供たちだろうか。でも、ここに来るまでに家はほとんど見なかったのだけれど。再び瞼を光が撫でて、私は眉を顰めて薄目を開けた。


 きらきらと。薄い羽の先に纏った淡い光の粉を撒きながら踊る小さな少女たちの姿を目にして、私は跳ね起きた。


「きゃぁっ!」

「起きたわ。ねぼすけさんが起きたわ!」


 たちまち蜂の巣をつついたかのような大騒ぎ。あちらこちらで光の粉が散る。硝子の風鈴を大量にばら撒いたような玲瓏な音がステレオで聴こえてきて、ああ、って飛ぶ時本当にこういう音が出るのね……と斜め上の感想が脳みそを上滑りしていく。

 

 そう。妖精。それは妖精だった。お化けも妖怪も幻想生物も、モチーフとしては大好きだけど、その存在を信じていたのは遠い幼い日の事だ。まだ酔っているのか、夢の中にいるのかもしれない。そうぼんやりと考えていた私の手を、突然激痛が襲う。


「痛ったーーー!?」

「もうっ! 聞いているの?」


 ふわふわと目の前に漂いながら。私のスパチュラを槍のように構えた妖精が、桃色の頬をぷっくりと膨らませて言う。三つ編みお団子の銀髪に、ばさばさとした睫毛がすごく可愛い。いやそうじゃない。アナタ今それスパチュラで私を刺したの??

 私は手の甲を見る。よりによって一番尖ったスパチュラを突き立てられた私の手の甲は皮が剥けて、まだひりひりとした痛みが続いている。どうやら夢ではないらしかった。

 私は混乱した頭で聞き返す。


「ええと……何?」


 妖精はきっ、と形の良い眉を吊り上げた。


「全然聞いてないじゃない! ねぇこのおうち、アナタが作ったの?」

「そうだけど……」


 訝しみながらそう答えると、妖精は可愛らしい顔にぱっと花の咲くような笑みを浮かべる。


「素敵! すてきすてきすてき! ねぇねぇ、このおうち、私に譲ってくださらない?」

「え……」

「あーっ、ずるいわアンシェ、わたしが最初に見つけたのに!」

「なによなによ、アナタ全然声掛けないんだもの! 私が最初にお願いしたのよ!」

「早いもの勝ちなんてあんまりだわ! ねぇ人間さん、私に譲ってちょうだいよ」

「リミエラはいつもそう! 横入りばっかりして!」


 再び蜂の巣をつつく大騒ぎ。可愛らしい妖精たちは取っ組み合いの喧嘩を始めた。意外と鋭い爪が柔肌を掻ききってエメラルドグリーンの液体が散る。いや爪、こわっ。


「あげるなんて一言も言ってないのに……」


 ボソッと呟いたそれは独り言のつもりだったのに、妖精たちの長い耳はぴくりと動いて拾い上げた。ピタッと時間が止まったように妖精たちの動きが止まる。銀髪の妖精が目に涙を溜めて振り返った。


「どうして? アナタが使うの?」

「そうじゃないけど……」


 お金も時間もつぎ込んで作った趣味の逸品なのだ。そうほいほいとはあげられるものでもないのだけど……。

 妖精はうるんだ瞳でこちらを見ている。小さな手足の華奢な身体。いつもファインダー越しに見ているドールハウスの記憶が、唐突にその姿に重なった。木の上に、草の陰に置いたドールハウスに自然光が差し込んで、それでも何か足りない、と思っていたものがすっと溶けていく。ああ、そうか。私はいつも“誰かがここに住んでいたらいいのに”と思っていたのかもしれない。

 

「いいよ」


 気づいたら、そう呟いていた。きゃぁっ、と歓声が沸く。そこからまた蜂の巣をつつく大騒ぎ。わたしのよ、いいえわたしのよ!

 星屑が散らばるような音を賑やかに立てながら取っ組み合う妖精たちを見て、私は悪戯っぽく微笑んだ。


「ケンカする子にはあげません。でも、少し待ってくれるなら――」


  § § § § §


 1週間後。私は寝る間も惜しんで作り上げたいくつもの“家”を前に満足して頷いた。赤い靴のおうち。ティーカップのおうち。紅茶缶のおうち。スパイス瓶のおうち。巻貝の貝殻のおうち。ワイングラスのおうち――。

 私は持ってきたありとあらゆる雑貨を、全部おうちに加工したのだった。内装はまだ作っていない。だってそれは、“内見”をしてから入居者が決めるものでしょう?

 小さな小さな掲示板にそれぞれのおうちの小さなイラストを貼り付けていく。私は凝り性なのだ。最後に「妖精不動産」の看板を掲げれば完成! あの子たちに日本語が読めるのかはわからないけど、

 木の陰から、光の粉が零れている。連日作業を覗きに来ていた妖精たちに、今日だけは準備が出来るまで待ってと言ったのだった。待ちきれないといった感じで羽が震え、今にも飛び出してきそうなその様子を見て私は笑った。


「いらっしゃいませ、妖精不動産本日開店です」


 きゃあっ、と歓声があがり妖精たちが一斉に飛び出してきた。気取って“内見”なんて言ったけど、みんなもうお目当てのおうちは決まっている。きゃあきゃあと賑やかにおうちに飛び込んだ妖精たちの後に、少し小さな羽の妖精がぽつんと残った。


「あのぅ……」


 ほかの子と違って控えめなその子は、おどおどとした様子で私を見上げた。私は微笑む。


「あれはあなただけのおうちだから。こっちにあるの。ついてきて」


  § § § § §


 数日前のこと。夜にも灯りをつけてせっせと作業していた私の元へ、この子はやってきた。


「これを、おうちにしてほしいの……」


 体の数倍はある置時計を運んできた彼女は、うつむきがちにそう言った。随分年季の入った時計だった。金色のメッキは所々が剥げ、錆とシミがあちらこちらに浮いている。


「昔、ちょっと“借りた”のよ。あたし、この子が出すコチコチという音が好きだったの。でも、もう鳴らなくて……」

「ちょっと借りるね」


 そう言って私は時計を持ち上げて中身を見た。電池式ではなく、ネジを巻く方式の本当に古い古い時計だ。試しにネジを巻いてみるが、ピクリとも動かない。


「……音を出すようには、してあげられないよ」

 

 私には機械の仕組みはわからない。こんな昔の、それこそ職人といった人たちが手掛ける時計ならなおのこと。正直にそのことを伝えると、妖精は眉を下げて言った。


「それでもいいの。この子はもう死んじゃったんだもの。でもこの子は道具だから、をあげたらまた生き返るような気がして」


 こうして私はこの時計をもまた、おうちにすることになった。中身の機械を全部抜いて、機械の入っていた部分をそっくり居住空間として仕上げる。妖精が住むには少し天井が高すぎたから、二階建てにして階段をつけて。


「さあ、どうぞ」


 文字盤の横につけた小さなドアを開ける。光の粒を落としながら、妖精が時計のおうちの中に消えていく。少しして、中から小さな嗚咽が聞こえてきた。私は慌てて中を覗き込む。


「ごめん、気に入らなかった?」

「ううん。とっても素敵。ありがとう」


 空っぽの部屋の中で、くしゃくしゃの顔をして、小さな妖精は笑ってみせた。


  § § § § §


 妖精たちの“内見”が終わってからは、楽しい内装づくりの時間を過ごした。妖精たちはミニチュアの家具にも興味深々で、家具を作っている私のところにファンタジーな素材を次々と持ってきた。それを加工することの何と楽しかったことか!

 朝露の欠片で作ったランプシェード。蜘蛛絹のレースカーテン。幸せの青い小鳥の羽根箒。星屑の欠片を詰めたランタン。柔らかな苔のソファ。

 月の光を集めたワイヤーをくれた子もいた。優しい金色のそのワイヤーは、いろんな家具を作るのにとっても役に立った。虹を欠片にしてしまえるなんて知らなかった。虹の欠片で作ったステンドグラスは、紅茶缶のおうちにはめ込まれている。

 ドアチャイムに音が鳴らないなんてつまらないわ!と言って雨音を集めてきた子もいた。琥珀色の樹液を飴細工のように加工して、グラスを作ってくれた子もいる。


 夢のような時間だった。本当に夢だったのかもしれない。でも夢は醒めるものだ。明日は帰国の日。私の手元に作品は一つも残っていないけど、なんだかすごく満足していた。

 森のあちこちに散らばった妖精たちのおうちに挨拶に行く。どの子も、別れの言葉もそこそこにまだ欲しい家具があるのに! と不満たらたらだった。身勝手で可愛い妖精たち。最後に、私は時計のおうちにやってきた。

 古い石垣の陰の、日当たりの良い場所にポツンとそのおうちは置かれている。


「こんにちは。エメ」

「まぁ、あなたなの。どうしたの?」


 羽の小さな妖精は、嬉しそうに頬を緩めて私を出迎えてくれた。


「明日、私の国に帰るんだ」

「そう……。帰ってしまうのね」


 エメは寂しそうに微笑んだ。


「だからね、あなたに最後のプレゼントを持ってきたの」


 そう言って私は腕時計を外した。光電池で動く腕時計は、耳に当てるとコチコチとわずかに小さな音を刻んでいる。


「エメにあげるわ。この子はネジを巻かなくても動くの。その代わり、毎日お日様に当ててあげてね」


 エメの翡翠色の目が、驚きでまん丸に見開かれた。そっと私の手から腕時計を持ち上げると、文字盤を抱きしめて長い耳をつける。


「生きてる音がするわ。ああ、私この音が大好きなの――」


  § § § § §


 ドールハウス制作の荷物はきっちり梱包済み。明日はゆっくり出発しても大丈夫だけど、出発前にバタバタするのが嫌いな私は帰る日の前日には荷物をすべてまとめた。ベッドに入って上掛けを被ると、すぐにとろりと瞼が重くなった。


 くすくす、と鼓膜を聞きなれた声が撫でる。くすくす、内緒よ…ほら、それも取って! 妖精たちめ。最後の日も私の荷物に悪戯してるな。そう思ったけど、どうせ明日の朝はゆっくりでも間に合うのだからと、私は眠りに身を沈めた。


  § § § § §


 うそ!

 燦燦と真昼の太陽が差し込む時間に、私は飛び起きた。アラームが止められている。妖精のしわざだ。さざめきあっていた妖精たちの気配は既にない。荷物のことは気になったが、すぐにでも着替えて出発しなければ間に合わなかった。とりあえず大事な道具は散らかされていないようなので、荷物を検めることは諦めて1か月過ごした家を飛び出す。


 14時間のフライトを終え、人だらけの電車に揺られて、タワーマンションの狭間に埋もれるように建っている築35年のマンションに帰ってきた私は、荷物を放り出してベッドに倒れ込んだ。外はすっかり暗い時間だが、窓からは不夜城東京の街の明かりがうっすらと差し込んでくる。ここ一ヶ月毎晩聞いていた優しいフクロウの声は聞こえず、代わりに酔っ払いの騒ぐ声が聞こえてきて私はため息をついた。


 そのまま眠る気も失せて、荷解きをすることにした。まずは道具箱。愛用の道具たちがきっちりといつもの場所に納まっているのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。

 次いで持ち上げたミニチュアインテリアを詰めたケースがやけに軽い。巻きつけておいた緩衝材を取り外して、私は苦笑いした。ミニチュアインテリアのケースは見事に空っぽだった。中身はすべて妖精たちが持って行ってしまったらしい。

 緩衝材をたたもうと広げた時、ケースと緩衝材の隙間からひらりと見慣れない封筒が落ちた。床に落ちたそれを拾い上げて、封を切る。

 中には気持ちの良い手触りの便箋が入っていて、読めないのに内容が理解できる文字で、短い手紙が綴られていた。


―― 素敵なおうちをありがとう。封筒にお土産を詰めておいたわ ――


 ぺったんこの封筒にまだ何か入っているものがあっただろうか、と机の上で封筒を逆さにして振ってみる。ころり、と小さな丸いものが転がり出た。


「朝露のランプシェード……」


 ランプシェードを皮切りに、ファンタジーな素材で妖精たちと一緒に作った家具が次々と零れ落ちてきた。明らかに封筒に納まりきる量ではない。魔法のような、夢のような。あの子達と過ごした確かな時間がそこにはあって、私は頬を緩めた。

 からっぽだったケースに、それらを丁寧に詰めていく。そうしていると、妖精たちの声が微かに耳をくすぐったような、そんな気がした。



おわり

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