赤い雄牛

いぬがみとうま

赤い雄牛

 指を折り曲げながら数える。両手の各指が二回ずつ出番がある程の年数が経っている。


 当時、私は都心から少し離れた街道沿いの中古車販売店で働いていた。一〇〇台の車を展示するスペースを持つこの店。誰より早く出勤し、九つある大きなグリルシャッターを開けるのが私の仕事。ハンドルを回す二の腕の筋張りと共に、すこし錆びついた歯車がキコキコと音をたてる。


 店の敷地の奥にある、プレハブでできた事務所の鍵を開け、暖房をつけるのも私の仕事だ。上司のデスクを拭き、各デスクの灰皿を洗い、配置し直す。


 展示場の一番端っこに背中をつけ、煙草に火をつける。混ざり合った白い息と白い煙越しに三列に並んだ一〇〇台の車を見つめた。これらを水洗いしていくのも私の仕事だ。人間の腸に換算すると十三人以上になるホースを水道につなぎ、手を凍らせていく。


 上司たちが出勤してくる。「」と、文字数のパンチを受け止める肩に力を込めるのも、左の乳首をつねられたら右の乳首も差し出すのも私の仕事だ。この仕事に耐えられ、かつ、私より一つでも年下の人材の入社を待ち続けていたが、私が入社してから出会った五人は一週間と持ちこたえることが出来なかった。私が我慢強い訳では無い。数ヶ月後に結婚を控えていた私は相手様の親御様に認められたい意地で耐えていた。


 この日は木曜日。前々日のオークションで落札された車たちが運ばれてくる。展示される車と、『オークション回し』と呼ばれる他のオークションに出品される車に分けられる。オークション回しの車を店から離れた車置き場に持っていくのは私達の仕事だ。社長と留守番社員以外で行う。


 この車置き場は店から遠く離れていたが、私にとっては寒くも痛くもない車内で快適にラジオを聴ける至福の時。落札した車の台数によっては夜中まで続くことも稀ではない。


 当時よく聴いていたラジオ番組のリスナーはトラックの運転手が多いらしく、それに関する投稿、内容が多く話題とされていた。その中の「睡魔に襲われたときの私のテクニック」的な話が、理論的かつ医学的な内容で衝撃を受けた。


 話はこうだ。眠気というのは渋滞や真っ直ぐな道で起こりやすい。細い道や、曲がりくねった道など緊張をする場面では眠くならない。よって意図的に緊張を作り出せばよいのだ。その方法が『下半身を出しながら運転する』というもの。誰に見られるかわからない、普段しないことをしている、という緊張感で眠くならないのだそう。この話はリスナーからも大絶賛。実践するドライバーが多数現れた、と。


 馬鹿な話だな。笑いながらこの日の至福の仕事を終えた。


 それから数ヶ月が経っても私に後輩は出来なかった。この日も夕方から至福の車運びがあった。三台目の車を運んでいるとき、日々の疲れからウトウトとしてきた。あの日のラジオのテクニックを使う日がやって来たのだ。作業服であるツナギのチャックを下ろし、下着も膝のあたりまで下げた。


 効果は覿面てきめん。下半身をあらわにしながら車を運転するという、人生初の緊張感が脳を覚醒させ、眠気が嘘のように消え去った。当時まだ若い私の愚息は、眠気から覚めると大きさと硬度に変化を起こしていた。


 赤信号で止まり、ふと、右側車線を見るとワンボックスカーの助手席に乗った女性と目が合う。当時婚約中だった彼女の母親だ。しまった、「車高の高いトラック運転手だけのテクニックなので注意!」と、あのときのパーソナリティーの声が頭の中にこだまする。


 彼女の母親は、楳図かずおに描かれたような顔のまま青信号と共に発進していく。私は顔を下げ、呆然と後ろの車のクラクションを聞いていた。


 沈みかけた夕日は私の雄牛を赤く染めた。


その夜、月光蝶は虹色の翼を授け、この日の出来事を黒歴史とした。

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赤い雄牛 いぬがみとうま @tomainugami

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