おばあちゃんには会えない

半ノ木ゆか

*おばあちゃんには会えない*

 目が覚めると、私は小学四年生に戻っていた。

 私は口をぽかんと開けて、洗面所の鏡に映る、にきび一つない顔を眺めていた。

 自分の頰を思いっきりつねると、確かにひりひりと痛んだ。一体、私の身に何が起ったのだろう。夕辺ゆうべは仕事から帰ってきて、スマホを見ながら寝落ちしたはずなのに。

 リビングでは、若い母がせわしなく動いていた。

「ねえ、お母さん。私って、社会人四年生だよね」

 おそるおそる訊ねる。母は首をかしげた。

「何、寝ぼけたこと言ってるの。早くしないと、学校遅刻しちゃうよ」


 青空の下に桑畑が広がっている。もう、二度と見られないと思っていた景色だった。このあたりは私が高校生の時に、家が建ち並んでしまうのだ。

 足がもつれそうになりながら、砂利路を一人で駈けてゆく。緑の額に入った一枚の絵を、落とさないようにしっかりと抱いて。

 息を整えることもせず、インターホンを連打した。扉を開けたおじが、私を見て驚く。

「いらっしゃい。どうしたの?」

 目を血走らせて、私は言った。

「今、おばあちゃんいる?!」

 私は居間に正坐した。壁には、いろいろな風景画が飾ってある。よく見ると、それは細かく千切った色とりどりの和紙でできていた。つまり、ちぎり絵である。私が持ってきた絵も同じだった。

 お菓子ののった器をコトンと置き、おじが言った。

「買い物に行ってるよ。もう少ししたら帰ってくると思う」

 懐かしいテレビ番組を見ながら、クッキーを喰んだ。練り込まれたチョコチップを、舌の上でゆっくりと溶かす。口の中いっぱいに甘みが広がった。

 そわそわしながら、絵を抱きしめる。私を抱きしめてくれた、祖母の体温を思い返して。だけど、空に星が瞬きはじめても、祖母が帰ってくることはなかった。


 自室のベッドに坐り、私は考え込んだ。

 祖母はいつも、四時には夕飯の支度をはじめていた。日が暮れてもまだ帰ってこないだなんて、明らかにおかしい。ここはやっぱり、現実の世界ではなかったんだ。

 だけど、夢にしては生々しすぎる。ほっぺをつねると痛いし、チョコの味もしっかりと感じられる。

 枕に立てかけたちぎり絵と睨み合っていると、声が聞こえた。

「確かにここは、現実ではない」

 辺りを見回して、私は悲鳴を上げた。部屋の隅に、見知らぬ女の子が立っていたのだ。

 見た目は小学四年生くらい。髪にはレースの白いリボンをつけていて、ちょっとレトロなワンピースを着ている。一度も会ったことがないはずなのに、どこかで見たことがあるような気がした。

「誰? ここが現実じゃないって、どうして知ってるの?」

 戸惑いながらも、私は訊ねた。後ろで手を組み、彼女が答える。

は遠い星からやってきた、寄生生物だよ。そしてここは、きみの記憶の中だ」

 見た目に不釣合な、きっぱりとした口調だった。意味が分らなくて、私は混乱した。

「遠い星から……って、宇宙人ってこと? 寄生生物にしては、随分可愛い見た目だけど」

「これは本当の姿ではない。きみの記憶が作り出した、仮の姿だ」

 リボンを揺らし、ベッドの端にぽすんと腰掛ける。足を組んで、彼女は語り出した。

「本当のぼくは、地球人の目には見えないほど小さい。きみは夕辺、夜更かしして寝落ちしただろ。だらしなく口を開けて眠っていたから、ちょっとお邪魔して、脳に入り込んだのさ」

 夜空を見上げて、彼女は続けた。

「ぼくらの遠いご先祖さまは、今の地球人のような見た目で、立派な文明を築いていたらしい。だが、機械に頼りすぎて体が退化し、ほとんど脳だけになってしまった。今ではいろいろな星を渡り歩いて、ほかの生き物に取り憑くことで生きながらえている。そして時々、自らの知識欲を満たすために、その生き物の記憶を覗いているのだ」

「私の記憶も覗いたの?」

 彼女は、ちょっと申し訳なさそうに頷いた。

「ぼくらに取り憑かれた生き物は、記憶を覗いているあいだ、まるで過去に戻ったかのように感じるようだね。痛みや味も、記憶の通りに再現されるから」

 彼女の横顔を眺めていて、私はハッとした。数年前、祖母の幼いころの写真を見せてもらったことがあった。彼女はその姿にそっくりだと、今さら気付いたのだった。

「――話は以上だ。取り憑いた時間が短かったから、体に害はほとんど残らないだろう」

「ちょ、ちょっと待って!」

 立ち去ろうとする彼女を、私は慌てて引きとめた。

「私、この世界でおばあちゃんに会おうとしたんだけど、会えなかったの。姿を忘れたわけじゃないのに、どうして? 私の体から出ていく前に、一度でいいから会わせてよ」

「それは無理だ」

 彼女は、枕に立てかけたままのちぎり絵を指差した。

「きみはあの、ちぎり絵とやらの描き方を教えてもらいたかったのだろう。だから会えないのだ。経験したことがないのだから、記憶にもなくて当然だ」

 その通りだった。

 祖母がまだ元気だったころ。せっかくだからちぎり絵を教えてもらったらどうかと、母に提案されたのだ。私もそのつもりでいた。だけど、面倒くさがりな私は後回しにしてしまって、実際に教えてもらう前に、祖母は亡くなってしまったのだ。

 私はそのことを、ずっと悔やんでいた。

 ベッドに坐ったまま俯いてしまった私に、彼女が声をかける。

「描き方を教わらないのであれば、きみの記憶を引き出して、今すぐにでも会わせてやることはできる。しかし、それが何になる? 今はもっと、他にすべきことがあるのではないか」

「すべきこと……?」

 顔を上げた私に、彼女はしれっと言った。

「どうして、できなかったことばかりに目を向けるのだ。もたもたしていたら、両親もきみも死んでしまう。また後悔したいのか?」

 彼女は窓を開けた。白いリボンがゆらゆらと風になびく。振り返って、私に微笑みかけた。

「ぼくはこれから、また別の星へ行くことにするよ。さようなら」

「お、おばあちゃ……へっくしゅん!」

 自分のくしゃみで目が覚めた。

 朝日が顔を覗かせていた。ベッドの隅にスマホが転がっている。寝ぼけ眼であたりを見回すと、白い光の粒が、空中を漂って窓の隙間から逃げてゆくところだった。

「……そうだ、おばあちゃん」

 飛び起きて、壁に駈け寄った。飾ってあった祖母のちぎり絵を手に取る。

 私はそれをぎゅっと抱きしめた。


 どきどきしながら階段を降りる。現実の世界に戻ってきたはずだけど、万が一にも、まだ記憶の中だったらどうしよう。

 リビングでは、母がせわしなく動いていた。

「ねえ、お母さん。ここって、記憶の中じゃないよね」

 おそるおそる訊ねる。母は首をかしげた。

「何、寝ぼけたこと言ってるの。早くしないと、会社遅刻しちゃうよ」

 私は胸を撫で下ろした。そして、あることを思い出す。

「お母さん。今度の連休、おばあちゃんの実家に行こうよ。『いつか行こう』って、前に話してたよね」

「別にいいけど……どうしたの? 急に」

 手を止め、母が笑う。笑い返して、私は答えた。

「だって、もう後悔したくないんだもん」

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おばあちゃんには会えない 半ノ木ゆか @cat_hannoki

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