RFA(Racial Free Appearance) テクノロジー

青山涼子

第1話 ケンとクリスティー

 マンハッタンの自宅アパートを出ようとしたケンは、普段職場使っているRFA眼鏡をかけた。


               *  *  *


 RFA眼鏡のRFAとはRacial Free Appearance (人種がわからない外見)の略である。RFAテクノロジーとは、人間を写した映像から人種的特徴を排除する映像加工技術のことで、ここ最近人種問題を解決する切り札として導入が広がっている。RFA眼鏡をかけると、そこから見える人間の人種が全くわからなくなるのが特徴である。肌の色も統一化し、目鼻立ちや骨格の人種的特徴を極力消去しつつも、他の外見的特徴をうまく際立たせることで、各人の人種以外の外見の印象を鮮明に温存することもこの技術の優れた点である[1]。


 シリコンバレーにある動画編集ソフト・メーカーであったイメージ・チェンジャー社が、自社の技術を活用してRFA眼鏡を作り、社員に装着を促したのがRFAオフィス環境の起源だった。二〇二〇年にBLM(ブラック・ライブズ・マター)のうねりがかつてない強さで全米に広がって以来、人種差別の問題は各地で混乱を極めていた。それまで社会の中で活躍の機会を狭められていたアフリカ系アメリカ人を優遇することは、他の人種を締め出すことでもあったからだ。新卒採用の人種配分調整でもパイを削られたアジア系、白人学生にとっては、一流企業への就職は益々狭き門になった。芸術の世界でも、白人のアーティストを数多く育てた実績のある著名キュレーターが有色人種アーティストを排除したとのレッテルを貼られ職を追われるという理不尽な事態が散見された。そうしたキュレーターのなかには、有色人種アーティストへ門戸を開くために、様々な働きかけや資金援助を行っていた人もいたが、そうした実績は無視された。


 差別の是正が逆差別を引き起こし、あっちを立てれば、こっちが立たずというジレンマは、イメージ・チェンジャー社のCEOであるミッチー・ゴトー女史にとっても悩みの種になった。ゴトー女史(本名:後藤道子)は、山形市出身で、東京大学工学部を卒業後、スタンフォード大学の大学院でコンピューター・グラフィックスを学び、シリコンバレーで映像編集ソフト製作会社を起業し、二〇一四年にミッチー・ゴトーの名で米国に帰化している。


 社員の三分の二以上がアジア系の上、黒人の管理職は皆無であったイメージ・チェンジャー社は、アジア系偏重企業との批判を躱すために、BLM以降、黒人とヒスパニック系社員を優先的に採用、昇進させてきた。一方、それをアンフェアだと感じたアジア系社員の多くがイメージ・チェンジャー社を去る結果となった。特に有能であった社員においてその傾向が強かった。何がポリティカリー・コレクトで、何がフェアなのかが、すっかり分からなくなったゴトー女史が思い出したのは、人種的多様性が極めて低い母国日本のことであった。日本人しかいない職場ならば、当然のことながら人種差別の問題は起こり得ない。自社の映像加工技術を活用すれば、単一民族国家に似せたバーチャル環境を社内に導入できるのではないかと考えたのだった。


 Racial Free Appearance(人種がわからない外見)、略してRFAを実現するプロジェクトは、ゴトーCEO直轄で極秘に進められた。半年後にRFA眼鏡の試作品が完成すると、ゴトー女史は自ら装着し社内で効果を試した。RFAレンズから見える世界はそれまでと、それ程違わないように感じた。人種的特徴を取り除いた外見でも、各社員を認識することができたからだ。一ヶ月も眼鏡をつけ続けると、社員の人種というコンセプトが彼女の意識から消えていった。社員の採用面接も勿論RFA眼鏡をかけて行った。人種という外見情報がブラインド状態になると、応募者の身のこなしや話し方から性格ややる気がより見えてくる気がした。バッテリーが低下すると画像の解析度が落ちる点や、一定速度以上に動く人間を捉えた時にバーチャル変換が追いつかず画像が乱れるなど、いくつか技術的な問題点はあったけれど、RFA眼鏡をかけて業務を行う上で難点となることは殆どなかった。


 何よりゴトー女史を驚かせたのは、半年後に報告されたRFA効果だった。社員全体でも管理職においても人種構成の多様化が画期的に進んでいたのである。実のところ、ゴトー女史は逆の結果を予想していた。テクノロジーの会社であるイメージ・チェンジャーで社員の人種配分を全く気にしないで人事考課や採用を行えば、STEM(科学・技術・工学・数学の総称)を得意とするアジア系の人材比率が高まるのが必至だろうと思いこんでいたのだった。そうなった時の言い訳としてに「当社はRFA環境を実現することで、人種による差別・区別を一切排除した経営を行っている。このため人種構成のアジア偏重は意図的ではない」と主張するつもりでいたが、杞憂だった。


 自らのRFA体験の成功に基づき、ゴトー女史はRFAプロジェクトを第二フレーズへと進めた。社員にRFAの目的を説明し、社内でのRFA眼鏡の着用を促したのだ。社員の反応は、RFAの主旨に賛同し積極的に眼鏡を着用した賛成派と、激しく反発した反対派とで二分した。新型コロナが爆発的に感染拡大している最中でさえ、マスク着用を強く拒否する国民が相当数いたお国柄を考えれば、RFA眼鏡を拒否する人間がいることには驚きはなかった。反対派の言い分は様々あったけれど、『バーチャルな世界で仕事をする気はない』、『例え映像でも人間のアイデンティティの主要な部分を消去するのは倫理上問題がある』、『全社員の人種プロフィールを統一することは、アメリカの最も大切な価値観ともいえる多様性を真っ向から否定することになるのではないか』といった声が多く聞かれた。


 これらの反対意見はどれももっともで、空前絶後の疫病が空気感染で広がっていた最中にマスク反対派が唱えた『自由に呼吸をする権利』よりも余程筋が通っているように、ゴトー女史には思えた。ゴトー女史は、反対派の説得を諦め、RFA眼鏡の着用は社員の意志に任せることにした。一ヶ月もしないうちに、RFA眼鏡反対派の社員は全て退社した。彼らにとっては、そのような道義に悖る器物を装着した同僚と共に働くことは耐えられなかったのだ。イメージ・チェンジャー社内での意見の分極化は、その後米国社会で起こったRFAを巡る大論争と分裂の前触れであった。


 さて従業員の半分近くを失ったゴトー女史は、いよいよ腹を決め第三フレーズの計画を実行した。RFA眼鏡の発明を公表し、イメージ・チェンジャー社がRFA(人種がわからない外見)環境を社内で採用することで、人種差別撤廃を目指すと宣言したのだ。この考えに賛同する大勢の人達が、イメージ・チェンジャー社の求人に殺到した。採用試験を受けるために来社する人は、エントランスで警備員からRFA眼鏡を渡され、それを社屋を退出するまでずっと着用するよう求められた。またイメージ・チェンジャー社を訪れる業者や顧客も希望すればRFA眼鏡を着用できるようになった。


 このイメージ・チェンジャー社の新しい取り組みは、大きな反響を呼び、様々なメディアに取り上げられた。RFA眼鏡は多くの批判を浴びたが、大体の反論はイメージ・チェンジャー社の反対派が主張していたことと重なっていた。ただなかには、RFA眼鏡はバーチャルとはいえ人種を抹消するわけだから、ゴトー女史は民族浄化を企てる危険人物だと唱え、ゴトー女史に脅迫状を送りつける過激派も出現し、ゴトー女史周辺に対する警備が強化された。どんな攻撃を受けようと、ゴトー女史のスタンスは変わらなかった。彼女は言った:


「RFA技術に対する反対意見を論破するつもりはありませんし、反対する方の懸念点も理解できます。ただそうした懸念を補っても余りあるベネフィットがこの技術にあることは、当社の社員やマネジメントの人種構成が極めて好ましい方向に推移してきたことが証明しています。それに共感して頂ける人が増え、偏見で他人を判断しない世界が実現することを望みます」


 彼女はそう毅然と答えるのであった。そうこうするうちにRFA眼鏡の着用をうちも採用したいという企業が現れるようになった。RFA眼鏡を採用する企業は、最初こそ奇抜で物珍しいものには目がないシリコンバレーの新興企業ばかりだったが、やがて中西部や東海岸の大企業も加わるようになっていった。RFA眼鏡が企業価値向上と社員の人種構成の改善の両立を助けることを、ユーザー企業が実証してきたからだ。数年後には、RFA眼鏡をつけることはオフィス内でのマナーとして広く認識されるまでになった。またイメージ・チェンジャーがRFA眼鏡の生産を独占するのではなく、その技術を公開したことは産業界でのRFAの普及を助け、イメージ・チェンジャー社の社会的イメージを高めた。


                *  * *


 ここまでの長い前置きを語ったところで、遅らせながら冒頭に登場したケンの話に戻ろう。仕事用のRFA眼鏡をつけたケンは、自宅アパートを出ようとしていた。向かう先は、職場であるファーストNYバンクではなく、ロックフェラー・センターだった。そこでクリスティー・リーと十時に会う約束をしているのだ。彼女とケンは共に債券ディーラーとして同じフロアーで働く新卒トレイニー同士だった。会社のクリスマス・パーティーの二次会で意気投合して以来二ヶ月、二人で社外でも会うようになっていた。どんなに相場がアゲインストに(損失が出る方向に)動いても顔色ひとつ変えないクールなクリスティーも、オフィスの外では、はしゃいだ声で冗談を連発する陽気な女子だった。オンとオフで違った面を見せるクリスティーの謎めいた部分にケンは惹きつけられていた。そこには何か自分と共通するものを感じていたからだ。


 ただ彼らには普通のカップルと大きく違っていることが一つあった。クリスティーの希望で、デートの時でも職場でつけているRFA眼鏡をつけたまま過ごしてきたのだ。アイデンティティをブロックする器具を装着したままのせいか、家庭環境など、人種以外の自分のバックグラウンドを話しあうことも自然と避けてきた。彼女の身のこなしや物言いにニューヨーカーの匂いを感じるが、それは何となくであって実際のところはわからなかった。ケンはそろそろお互いの本当の姿を見つめあわなければいけないと思っていた。現実問題として、眼鏡を外さないことにはキスひとつするのも間々ならなかったし、眼鏡の下にあるクリスティーの瞳を見つめたいという気持ちを抑えきれなくなっていた。昨晩、メッセンジャー(アメリカでLINE並に普及しているチャット・ビデオ・音声通話アプリ)で今日のデートの待ち合わせの場所と時間を決めた後、ケンは思い切って聞いてみた。


〈そろそろ眼鏡をはずして会ってもいいんじゃないかな、どう思う?〉


 しばらく返事が来なかった。ケンはもう一度LINEを送った。


〈クリスティーにも考えがあると思うから、返事は急がなくていいよ。君がreadyになるまで待てるよ。おやすみ〉


 今朝起きてスマホを手にとったらクリスティーからの返信が画面に浮き上がっていた。


〈おはよう、ケン。そうだね、今日眼鏡をはずそう。それじゃあ十時に〉


 簡潔な返信に、彼女の考えた末の覚悟が感じとれた。ケンはロックフェラー・センターまでの道すがら、眼鏡をはずすことに急に不安を覚えた。自分が本当の姿を見せた時に、クリスティーから拒絶されるのではないかと怖くなったのだ。眼鏡をはずして明かされる情報は人種だけだ。人種だけを理由に相手への気持ちが変わるなんてことはあるだろうか? 彼自身はクリスティーがどんな人種や民族だったとしても自分の気持ちは揺るがないと確証していた。けれどいざその瞬間が迫ってくると、二人の将来に心もとなさを感じてしまうのだった。そして、こんな厄介なテクノロジーを発明した人間を恨んだ。


 一月初旬のロックフェラー・センターは、クリスマスツリーも観光客も姿を消し、先月の華やかさが、つかのまの夢だったかのように閑散としていた。スケートリンクを見下ろすクリスティーの後ろ姿が見えた。


「クリスティ」


 ケンの呼びかけに振り返ったクリスティの顔には眼鏡がなかった。


「ついにリアルで会えたわね。はじめまして、ケン」


「僕も眼鏡をはずしてもいいよね」


「もちろんよ」


 そう微笑むクリスティの瞳をケンの眼差しがしっかり捉えた。


「僕らはどちらもアジア人だったんだね」


 クリスティーのラストネームであるリー(Lee)は様々な民族の間で使われているから、そこから彼女の人種を推測することは無理だった。それはクリスティーにとっても同じだった。ケンのラストネームのウーイ(Oui)も珍しい名前だったから、そこから彼の家族のルーツを想像するのは難しかったはずだ。ケンはそれまで、クリスティーが何系のアメリカ人であろうと関係ないと思っていた。それでも、クリスティーが自分と同じアジア人であったことに安堵感を覚えた。


「リアルの君はバーチャルよりずっと美しくて魅力的だ」


 ケンはお世辞ではなく心からそう言った。クリスティーの肌は雪のように白く、大きな二重瞼には理知的な光が宿っており、ふくよかな唇には彼女の優しさがにじみでていた。それまでRFA眼鏡を通じて見ていたクリスティーはただの画像情報だったけれど、目の前にいるクリスティーからは、彼女の内面にある傷まで推し量れるようだった。クリスティーをハグしようとした時だった。


「ケン、歩こうか」


 興奮気味のケンを落ち着かせるように、クリスティーは言った。他人に聞かれたくないことを話す時は屋外で歩きながらに限ると、以前彼女が言っていたことをケンは思いだしていた。二人は六番街の職場のあるビルを通り過ぎ、セントラルパークへと向かった。


 落葉した巨木が連なるプロムナードには、所々に先週降った雪が残っていた。行き交う人もまだらで、白黒のサイレント映画のなかに入りこんだようだった。並んで歩き続けながら、ケンはクリスティーが話し始めるのを辛抱強く待った。小道に入りレイクの畔まで出ると、クリスティーは水面を見ながら話し始めた。


「実は、私の両親は中国の学生活動家だったの。一九八九年の天安門事件の後、協力者の助けでアメリカへ逃げてきたの。だからね、筋金入りの反共な訳。それが理由だからかはわからないんだけど、うちの両親って、どこにいても馴染めないのよ。最初住んでいたサンフランシスコ郊外で、現地小学校のアメリカ人保護者の輪に入れないのは当然としても、私が小学校に入学する年に越してきた多く住むクイーンズ(ニューヨーク郊外)のチャイニーズ・アメリカンとも、土曜に通った中国語スクールでの中国人生徒の両親とも噛み合わない。ペアレント同士だけでなく、現地校や中国語学校の先生ともコミュニケーションが希薄で、三者面談をすっぽかしたりしていた。私自身はここで生まれたれっきとしたアメリカ人なのに、いつまでも外国人家族の子供みたいだったし、だからといって中国系のコミュニティーに属してもいなかった。自分の家族が宙ぶらりんの状態で存在していることに、ずっと引け目を感じていた」


 クリスティーはそう一気に話すと、レイクの水際に残っている雪を蹴った。ケンは、彼女が肌の色だけでなく、自分の根源的アイデンティティまで明かす覚悟で自分に会いにきてくれたことに気づいた。


「反共だったらアメリカと考え方は一緒だよね。それでもクリスティーは自分の家族に孤立感を感じてしまったんだね」


「アメリカ人であるってことは、国籍や政治的イデオロギーだけじゃ足りないんだよ。なんていうか、ここの空気に溶け込めるかどうか。hiって声をかけられた時に、相手を隣人だと思って心を開けなかったら、いつまでも外国人のままだと思う」


 母親に連れられて三歳の時に西海岸に移住してきたケンには、クリスティーが言った『外国人』という言葉に、英語が不自由だった頃の自分と母の姿が重なった。


「僕も移民二世だからその感覚は、実体験として理解できるよ」


 クリスティーは驚いた表情で振り返ると、ケンを眩しそうに見ながら続けた。

 

「実は私、ずっとケンは差別とは縁遠く育った白人とだとばかり思っていたの。だからこそ、お互い眼鏡を外した時に、私がアメリカのどこにも居場所がない中国人ファミリーの出身だってことがバレるのが怖かった。だから眼鏡をなかなか外せなかった」


「どうして僕のことを白人だと思ったんだろう?」


「はっきりした理由はわからない。ただ、ケンには私につきまっとている劣等感や自信のなさを感じたことがなかった。だからかもしれない。私は、疎外感を感じずに生きていきたかった。そのためには、この国のメインストリームの白人グループに食い込むしかないのかなって、漠然と考えたりしてね。そんな時、RFA眼鏡が職場に導入されたの。あの眼鏡をつけている限り、みんなが同じ人種としてみなされるから、自分が移民の子だってことを完全に忘れることができて、すごく楽だった」


 クリスティーはそう話すとレイクから吹いてくる冷たく澄んだ空気を大きく吸った。


「それでも最終的にはRFA眼鏡を外して僕と向き合おうと思ったのは何故?」


「人種のことを考えないですむRFAの世界は私にとってはユートピアだったけど、オフィスの外でもバーチャルな自分を保つなんてことは遅かれ早かれ破綻すると観念したの」


「ちょっと待ってくれよ。RFAのバーチャルに隠れ続けるなんて事は決してユートピアじゃないよ。人種的プロフィールを抜き取った人間なんて、フェイクじゃないか。僕は血統的には日系アメリカ人で二重国籍を許さない日本国政府に日本国籍をギブ・アップさせられたけれど、国籍を失っても日本人のルーツがあることを誇りに思っているよ。僕の日本人として生まれたアイデンティを消去しちゃうRFAなんて、ユートピアじゃなくてディストピアだよ」


 ケンの大きな声に起こされたのか、冬眠中のリスが巣穴から出てきて走り去った。


「ケンは日本人だったのね……そう思えるのは、日本というルーツに誇り、いや自分の両親を尊敬できるからだわ」


「君は天安門で中国の民主化のために命がけで戦って、国を捨てでも信念を通した両親を誇りに思わないのかい?」


「彼らの当時の政治運動は勇気あるものだったと思うし、渡米してからも苦労して私を育ててくれたことはとても感謝している。でも『天安門』が一体どういうものだったのかってことが正直あまりわからない。だって両親はそのことについて絶対に語ろうとしないんだもの。うちの両親は渡米してから一度も中国に帰省したことがないの。だから私は自分のルーツが中国のどこにあって、どんな祖父母がいるかもわからない。それに天安門というものが、彼らが失ったものの大きさに匹敵するほど重要なものだったかも正直疑問だわ」


「だったら両親に話を聞いてみたらどうなんだろう? ご両親が故国や家族を捨てでも、何故民主化を目指したかということを次の世代に伝える努めがクリスティーにはあると思うよ」


「家族に劣等感をもつことなく育ったケンには私の気持ちはやっぱりわかってもらえないと思う」


 そう言うとクリスティーは、雪の下から枯れ枝を拾ってレイクに投げた。


「クリスティーがここまで話してくれたから、僕もあることを告白するよ」


 今度はケンが深呼吸をする番だった。クリスティーが投げた枯れ枝が作った波紋を見ながら彼は一気にこう言った。


「僕の母は、RFAテクノロジーの生みの親のミッチー・ゴトーなんだ。僕のラストネームのウーイ(Oui)はステップ・ファーザー(継父・実母の再婚相手)の名字なんだ。僕は東京生まれで、バイオロジカル・ファーザー(血縁上の父親)は僕が二歳の時に、家を出たらしい。理由については聞いていない。その一年後、離婚したての母は僕をつれてアメリカに渡ったんだ。その三年後、僕が六歳になった初夏、母は夜学の大学院の同級生だったフィンランド系アメリカ人のヒューゴ・ウーイ(Hugo Oui)と再婚した。それ以来、僕にとっての父はこのヒューゴだけだ」


 いつものクールなクリスティーには、珍しく大声を出した。


「ちょっと待ってケン。ミッチー・ゴトーって、あのミッチー・ゴトー? ケンはやっぱり有名実業家のセレブリティーの息子じゃない。同じ移民二世でも、うちとは全然違うわ」


「クリスティー、もう少し聞いてくれないかな。そんな簡単な話じゃないんだ。」


 クリスティーは、ケンの瞳にRFA眼鏡からは伺いしれなかった『影』を見た気がして押し黙った。


「母がRFAテクノロジーを世に出した時、僕は小学六年生。あの技術が社会を二分する大論争を引き起こしたことは君も知っているだろう。もちろん当事者家族の僕たちが、無傷で済むはずはなかった。反対派の過激派に家を放火されるわ、銃弾を打ち込まれるわで、僕は安全を確保するために母と離れて暮らさざるを得なくなった。世間の目をくらますように、僕と父は、どの家も家族が集いターキーの丸焼きを頬張っているサンクスギビング・デー(感謝祭)の夜に、幸せに暮らしていたマイホームを後にして、父が用意したブルックリンのタウンハウスへと向かったんだ」


 ケンは、ガラガラの高速道路を空港へと向かったその夜の闇の深さを思い出していた。


「前日まで帰省ラッシュだった空港のロビーは静まりかえっていた。サンフランシスコからニューヨークまでの機内には、視界に入る限り僕と父しかいなくて、小さなプレートに盛り付けられたターキーとパンプキン・パイでサンクスギビングをお祝いしたんだ。父はニューヨークでシステム・エンジニアの仕事を見つけて、僕を育ててくれた。思春期という難しい年齢に差し掛かっていた僕が新しい環境に馴染めるように、いや僕が自分自身を見失ってしまわないように、父は精一杯のことをしてくれたと思う」


「自分自身を見失わないようにするため?」


「僕は日本で生まれたけど、二歳で別れたバイオロジカル・ファーザーのことも日本での生活も覚えていない。母は仕事人間だったけれど、僕が日本人である自覚を忘れないように、教育してくれた。日本人学校のサタデースクールに通わせたり、家ではTVジャパンを視聴させたり、日本の本や漫画を沢山買ってくれたしね。父は僕が母とは慣れて暮らすようになっても、この母の方針を踏襲してくれたんだ。マンハッタンの日本中学・高校の教育課程を土曜一日で詰め込むサタデースクールに通わせてくれたし、父自身も他の父兄とも交流したり、学校行事のボランティアをして、日本人コミュニティーに馴染んでくれた。父のお陰で、僕は日本の高校教育を終了することができたし、日本人としての自覚をしっかり持つことができたんだ」


「お父さんはフィンランド人だったのよね。ケンの日本人としてのルーツをそこまで大切にしてくれたのはどうしてかしら?」


 ケンは、今まで気づかなかったアングルから物事を見始めているような感覚になっていた。


「父さんは、『鏡に映った自分の顔を見て"Who are you? (あなたは誰?)"と尋ねるようになることだけは避けなきゃいけない』ってよく言っていた。その言葉の意味を、『日系であることを忘れてはいけない』と捉えてきた。でもね、今こうして君と話しをしていて、それだけではない気がしてきたんだ」


「え、それはどういうこと?」


「さっき君は、僕のことを白人だと思っていたって言ったよね。それは間違いなく父の影響だと思う。僕は父と二人暮らしを始めてからは、父の身のこなし、考え方、人への接し方、話し方、全てをロール・モデルにして育った。僕の肌の色はアジア系だけれど、僕自身のアイデンティティーは父から吸収してきたものによっても構成されているんじゃないかって、気づいたんだ」


「お父さんはどんな人なの?」


「僕と父は二人とも六フィート二インチ(訳188センチ)でほぼ同じ背丈なのだけれど、父は僕よりずっと筋肉質なんだ。僕の方が父より熱心にジムで筋トレしているのにね。父のフィンランド系の友達は、無口でシャイな人が多いけれど、父は、誰とでもすぐ仲良くなれるタイプで、リーダーの資質を持っている。僕の学校のPTAの役員もしていたし、会社を立ち上げて成功したけれど、それは父のエンジニアとしての技術力と共に人との関係を築く力によるものだと思う」


 ケンは最も長い時間を過ごした父から受け継いだものをそれまで意識してこなかった。自分のアイデンティティが、外見やバイオロジカルな要因以外のものでも決まるという発見はとても新鮮だった。


「確かにお父さんのイメージは、私がRFA眼鏡を通して見ていたケンと重なる部分がある。ケンがお父様から引き継いだ雰囲気のようなものは、RFA技術では消し去ることができなかったことなのね。ケンには私は、どんな風に映っていたの?」


「クリスティーの人種は、何ともわからなかった。というより、それを勝手に自分でイメージして、本当の君と会う前に偏見を持つのが怖かったから考えないようにしていた。でも、君はアメリカ育ち、それも僕が育ったブロンクスとそれほど遠くない所で育ったんじゃないかって思ってた」


「どうして?」


「まずはアクセント(英語のなまり)。やたら歯切れがよくて、子音が聞こえなくて、ちょっと舌足らず。ブルックリン・アクセントとも似ているけど、ちょっと違う」


「そうそれ、クイーンズ・アクセント! そうかアクセントから、出身地を予想するという手があったのね」


「いや、それだけじゃない。クリスティーの一見愛想がなさそうなのに、困った人がいるとすぐに手を差し伸べるところが、僕の周りの人達に似ていた。


「そうね。ニューヨーカーは普段無愛想だけど、何かあったら結束して助けあうものね。私にもニューヨーク気質が備わっているのかしら? チャイニーズ系の片鱗は感じなかった?」


「チャイニーズ系とは限らないのだけれど、凄く強い意志と忍耐力を持ち合わせていると思った。それは『性格』よりもっと根っこの深いところにあるもので、代々受け継がれる気質のようなもののような気がした。君の両親が中国で民主化運動の旗手だったと聞いた時、妙に納得できた」


「アイデンティティーっていうと、病院の受付けで記入する人種、性別、年齢や外見をイメージしてきたけど、それだけじゃないのかもしれないわね」


「いやもしかしたら、生物学的特徴や外見上の区分では定義できないものの方がアイデンティティのコアかもしれないね」


 二人は、どちらからともなくレイクを囲む林へと歩き出した。


「ケン、お母さんとは?」


「僕らが西海岸を去ったのと同じタイミングで、母も厳重なセキュリティーが敷かれているコンドミニアムに引っ越して、安全を確保した。別れ別れになって最初の半年くらいは、毎日のようにスカイプで話しをしていたけれど、それも段々に頻度が減っていってね。それでも何ヶ月かに一度、そう夏休みや冬休みには家族旅行には行っていた。ハワイやコロラドのスキー、アラスカのクルージングと、毎回豪勢な旅だった。でもね、楽しい時間をスポイルしてしまうようで、そんな時に自分が悩んでいることを母に相談したり、母に聞いてみたいことを口にすることは、なかなかできなかった」


「お母さんに聞いてみたかったことって?」


「それはやっぱり、何故母が、多くの敵に狙われてまで、家族を危険に晒し一家離散になってまでも、あのRFA技術の開発と普及に身を挺さなくてはいけなかったか、ということなんだ」


「わかるわ、ケンの気持ち。著名な経営者のケンのお母さんを一般市民のうちの両親と比べたら失礼かもしれないけれど、ケンにとってのRFAテクノロジー、私にとっての天安門、共通するものがある気がするわ」


「僕も君の話を聞きながら、君が感じていただろう寂しさや納得いかなかった気持ちが伝わってきて、感傷的になってしまったよ。封印したはずの自分の弱さや傷みたいなものが見えてきて、正直ちょっとあせっている」


 ケンは、自分がミッチー・ゴトーの息子であることを他人に打ち明けたのは初めてのことだった。自分から母を奪ったRFA技術を、そして家族よりRFA技術を選んだ母を恨んでいたこともあったけれど、現在はRFA眼鏡が社会にもたらす悪影響の方をより深刻な問題として捉えつつあった。


「大学のビジネス・マネジメントの講座で、RFAテクノロジーを学んだ時には震撼させられたよ。バーチャルでとはいえ人間の同一化を図るなんて、キリスト教徒じゃない僕でも神への冒涜じゃないかと畏れを感じた。大学一年が終わった後の夏休みに、さすがに母に問いただしてみたんだ。わかったのは、彼女にとってのユートピアのモデルは日本だということだった。メディアでも何度も繰り返していたように、人種に差異がなければ人種差別は起こりえないーーいたってシンプルな答えなんだ。でもそれは彼女のイリュージョンであって、現実とはかけ離れている」


「何故『人種差別のない日本』がイリュージョンなの?」

 

「僕は日本を単一民族国家だと考えることがイリュージョンだと考えているんだ。たしかに日本の人口の外国人の比率はたったの2%、でもこの2%は二八〇万人以上もいるんだ。2%の外国人を差別しない社会を作るために日本がどれだけ努力しているか。黄色人種じゃない日本人だってもちろん沢山いる。そういう人を見ないことにして、単一民族国家とみなすのは時代遅れも甚だしいと思う」


 クリスティーは、何かに合点がいったように頷きながら、こう言った。


「98%の人達の幸せのために2%の人間が犠牲になっているとするでしょう。その2%の人達を救いあげるためには、98%の人達が莫大なコストを払ったり、それまで当然得ていたベネフィットを諦めなきゃいけなくなる。それでも2%の人達も幸せになれるように社会を変える。それが人権を守るってことだと思う。うちの両親はそういう物凄く非効率な事にこだわって生きてきたって事は、ひしひしと感じて育ったから」


「ご両親は何も語らないって言っていたけど、君はとても大きなものを引き継いでいるような気がするよ」  


「ありがとう。話しているうちに、自分でもそんな気持ちになってきた。ケン、意地悪な質問をしてもいいかな?」


「ちょっと怖いけど、もちろんいいよ」


「そこまでRFAに疑いを持っているのに、RFA眼鏡を大人しくつけて働いて、その上彼女とのデートの時まで外さずにいられたのは何故?」


「それは確かに答えにくい質問だね。従業員規則を破って、始めたばかりの仕事を失う訳にはいかないっていうのが一つ。でも、そういう現実的な理由だけでなくて、RFA眼鏡が廃れるのは時間の問題だと思っているから、もう少しの辛抱だと我慢している。アメリカという国は時々大きな間違いをするけど、必ず誤りを正す。僕はアメリカ人としてそう信じているね」


「アメリカがRFA技術に依存する危険性に気づくということなのね。何故そこまで確信を持つことができるの?」


「RFAは人間の大切な一部をそぎ取る技術だ。それを使い続けてしまったら、人間が人間でなくなるような気がするんだ。そんなことを人間である僕たちが受け入れられるはずがない……」


 クリスティーは少し考え込んでから言った。


「で、私と会う時は社外でもRFA眼鏡をつけることに、同意してくれたのは?」


「答えにくい質問はそっちの方かな。それはもちろん……」


 ケンは、『とにかく君に会いたかったから』、という言葉を飲み込んだ。RFA眼鏡は、他人に対する差別感情をブロックしても恋愛感情を抑制することはできないことは自ら証明した。彼は、そうした人間の感情が遅かれ早かれRFAを拒絶することを確信しつつあった。


「ケンは、RFAが描くユートピアが、アメリカの自浄作用、いやアメリカ人の人間的感情よって消されてしまうかもしれないってことをお母さんに伝えたことはあるの?」


「伝えたことはないよ。というか、母とはきちんと話というものをしてこないままだから。僕も親とのかかわり合いについては、クリスティーに説教できる義理じゃないね」


「お互い厄介な家族を抱えているけれど、もっと大切にしなくてはいけないかもしれないわね」


 ケンはうなずきながら、心の奥に温かさが通うのを感じていた。母と離れて以来ずっと握り続けていた冷たい氷が、春の光で少しずつ溶け始めるかもしれない、そう思えた。


「クリスティー、ところで僕は君が期待していた白人じゃないけれど、それでもいいの?」


 クリスティーはケンのコートのポケットに手を突っ込み、冷たくなっていた彼の手を強く握った。冬の午後の日差しが優しく二人の顔を照らした。




(『第二部 ミッチー・ゴトーの真実』に続く)


[1]RFAテクノロジーは拡張現実(Augmented Realty, AR)とよばれる現実の風景にバーチャルの視覚情報を重ねて表示する技術のひとつである。拡張現実のわかりやすい例としては10年程前に世界的に流行した『ポケモンGO』というアプリがある。スマホの画面にはリアルな世界にバーチャルなポケモンが混在したように、RFA眼鏡も現実の風景と映像加工によりバーチャル化した人間を混在して投影している。

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