シンキング・デイズ

雨野榴

Sinking Days

 明日で世界が滅びるのに電車を乗り過ごした。

 いつか一度だけ、その時も居眠りで乗り過ごして降りた駅に立つと、日中の暖かな柔風などすっかり忘れたように夜の冷気が首筋を掠めていった。

 普段からそこを利用しているのであろう人々の流れを追いかけて、私も改札への階段を降りる。私含め、乗客たちの足取りに明日への不安を思わせるものはない。強いて言えば、多分いつもより人の数は少ないだろう。誰にとっても今夜が家族と過ごす最後の夜になるのだから。

 駅を出ると立ち止まって午後七時半の街を眺めた。最寄り駅のひとつ隣で前に来たこともあるはずなのに、そこから見える景色は全くもって馴染みがなかった。

 ふと、すぐ傍らに誰か立っているのに気が付いた。見れば、私と同じくコートを羽織ったスーツ姿の中年の男。ぼんやりと家々へ眼差しを向けていて、それから今度はゆっくり空を見上げた。周りを見回すと他にもそうやって立ち止まっている人が何人かいる。

 改めて隣の男に視線を戻すと、ちょうど彼もこちらに目を向けたところだった。思わず互いに小さく頭を下げ、それから男はこちらに背を向けて歩き始めた。しばらく道をまっすぐに進んだ後にまた歩みを止め、目の前の光景をじっと見つめている。やがて何本目かの角で曲がったが、その時にコートの袖で目元を拭っているのが街灯の下に遠く見えた。

 スマホを取り出し時間を確かめる。家までは大体三十分くらいか。とにかく美帆みほには家に着く大まかな時刻を連絡しておこう。作ったご飯が冷めるのはとても悲しいから。




 最初にNASAが小惑星の存在を公表したのは八年前だった。その頃はまだ、地球に非常に接近する可能性が高いとしか言われていなかった。それが一昨年に衝突の可能性という文言に変わり、去年にはついに衝突は避け難いという発表がなされた。

 市井はそれはそれは混乱した。株式市場はほぼ壊滅しスーパーはどこも品薄、街角では陰謀論がしきりに囁かれたし、SNSでは自殺動画が何件か回ってきた。気の早いある資産家は自分と家族を冷凍保存して宇宙へ打ち出した。

 アメリカを中心に、何ヶ国かで協働して小惑星に着陸しての爆破も試みられた。しかし二度にわたる計画は失敗し、とうとうここ数週間は直接爆弾を打ち出しているという。誰もその成功を信じていないのは明らかだが。

 いくつかの国では治安も急激に悪化したらしい。一方の日本は、確かに当初こそ辞職者の続出とともに犯罪の増加が新聞を賑わせたがすぐに収まって、数ヶ月経つ頃にはむしろこれまでに輪をかけて平穏な日常を送っていた。私も数日仕事を休んだだけで衝突の発表の翌週には出勤していたし、それはマンションの一室でルームシェアをしている友人の美帆も同じだった。

 つまるところ、人々は思っている以上に普通を愛していた。

 とりあえず駅をまっすぐに下って国道に出た。この道沿いを行けば、やがていつも渡っている横断歩道にぶつかるはずだった。

 すっかり数を減らした車が急ぐでもなく走り去っていく。私はすでに家にいるはずの美帆のとこを思う。

 だいたい一年前のこと。政府がNASAの発表を公式に認めて会見を行った日、私たちはソファに並んでテレビを見ていた。手元の紙を読み上げる途中で堪えきれずに涙を溢した総理は、その少し前に孫ができたばかりだった。中継が終わったワイドショーのスタジオは静まり返っていた。その会見を見ていたすべての人がそうだった。

 その後はお定まり。例に漏れず私たちもスマホに齧り付いて例の小惑星を調べまくり、“そうはならない”シナリオを見つけてはそちらを信じようとした。翌日、二人とも黙って会社を休んだが電話もメールも来なかった。私たちはこれまでの後悔を話し、楽しみにしていた予定を語り、やるせなくなって部屋を掃除した。

 それでも、ずっと自身の終わりを考え続けられるほどに私たちは強くない。

 翌週職場に行くと、私の他にも半分くらいは出勤していた。主任は私たちに、これまでのように仕事を続けてほしいこと、人数が減ったぶん負担は増えるが給料は大幅に上がることを伝えた。

「今さらだよなぁ」

 主任は困ったように笑って頭をかいたが、私たちの誰一人として笑うことはできなかった。ただ、誰からともなく主任に深々とお辞儀をした。あの日主任のすすり上げる声を聞いて、私は最後までここで働こうと思った。

 その夜、家に帰ると、やはり仕事から帰ったばかりの美帆がスーツのままでソファに座っていた。美帆はじっと足元へ視線を落としたまま、

「本当に終わっちゃうんだね」

「……うち、給料上げてもらえたよ」

「私んとこも」

 そう言って美帆は、涙に潤んだ目を私に向けた。

 そして私たちは、ようやく世界と自分たちのために声を上げて泣いた。

 それから少しして、私たちは夏休みを使って旅行へ行った。有名どころはどこも予約がいっぱいだったので、行き先は二人とも初めて聞くような温泉街。あの時に買った二つのこけしは、テレビの横に邪魔にならないように飾ってある。

 前方にいつもの横断歩道が見えた。横から見ると全然印象が違う。大学の頃は毎日のように美帆と二人であそこを渡っていた。

 ルームシェアを始めたのは大学二年の春だった。同じ高校からその大学へ進んだのは知っている限り私たち二人だけで一年の頃から互いの下宿先には入り浸っていたから、家賃の愚痴から同居へはすんなり話が進んだ。部屋は二人で新しく決めた。

 引っ越した日、テレビをつけると映画のタイタニックをやっていたのをよく覚えている。後半だけだったが、二人とも全編観ていたので何も言わずにソファに座った。エンディング後、来週の映画の予告が流れ始めると美帆が振り向いた。

「私さ、主人公カップルよりもあのおじいちゃんおばあちゃんが好きなんだよね」

「もしかしてあの夫婦!?船が沈むなか、最後ベットの上で」

「そうそう!やっぱり分かる?」

「すっごい分かる」

 頷きながら、口元が緩むのを抑えられなかった。そのシーンは私も一番好きなところだった。

 嬉しかった。美帆と私の感性が近いことではなく、私と同じ感想なのを美帆が喜んでいるのがたまらなく嬉しかった。

 多分、私にはすでに自覚があったのだ。




 ようやくいつもと同じになった帰り道は、予想していたより何の感慨も与えてくれなかった。もう二度と見られないであろう光景に狼狽えくらいはすると思っていたが、ずっと見守ってきた完成間近の戸建てを見上げてもいっそ昨日の方が心が揺れたほどだった。

 それはきっと、両親のことを考えていたからだ。

 同じ県内とはいえ遠く離れて暮らす両親へは、去年から毎週末電話をかけている。四日前に話した時には、仕事を辞めた父が趣味で始めた油絵の新作が完成したとか。嬉しそうに出来栄えを語る父の横で小言を言う母の声も聞こえたが、電話を代わった母は父の腕の上達を見せられないのが悔しいと笑っていた。

 今日仕事終わりにスマホを確認すると、そんな父から久しぶりにメールが送られていた。開いてみれば、『俺の絵』という短い文章とそれに添付された一枚の画像。私が生まれ育った実家の絵だった。年末に見た時より確かに少し上手くなっていた。

『いい絵じゃん』

 そう返信すると、すぐに父からもメールが返ってきた。

『時間があるから』

 両親は昔、大きな地震で家を失って父の故郷であるあの街へ移った。そこでもしばしばかつての生活を二人して楽しそうに話していて、言い出せなかったが幼い頃の私はそれがどうにも嫌だった。行ったこともないその街が嫌いになる程だった。それでも私は今その家のあったすぐ近くに住んでおり、そして私もこの先過去を懐かしむことがあれば、間違いなく今の生活を幸福な記憶として思い出したはずだ。

 スマホを開き、改めて父親の描いた絵を表示する。現在の両親なら、実家での暮らしを笑顔で語り合うのだろう。今度の二人にはその思い出を抱きしめる時間がある。そこにはきっと高校生までの全ての私もいる。

 家に帰って落ち着いたら両親に電話をかけることにした。最後の夫婦水入らずの夜を邪魔するのでは、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、まだ別れの言葉を満足に伝えられていない。何より、明日はどうしても外せない先約がある。あの家で、二人だけで時間を過ごすのだ。美帆とともに。

 美帆。私にとって美帆は何だったのだろう。これまで何度も考えてきた。ただの友達でないことはとっくに知っていた。ただの友達なら、あんなにも姿や声を追い求めはしない。

 当然、この感情は恋でもなかった。それよりももっと大きくて冷たい。そして恋など比べ物にならないくらいに優しかった。私を決して急かさなかった。私のそれは憧れではないし、あの子をずっと見つめていたいわけでも、見つめてほしいわけでもない。

 結局、こんな状況になっても結論は出ていない。とはいえ、そもそも出す必要がないことも知っていた。美帆に何かしてほしいわけではなく、おそらくは私が彼女のそばにいるだけで完結するのだ。それは私だけの問題であり、私だけの感情だ。そんなものに名前などいらない。

 角を曲がると、私たちの住むマンションがのっそりと姿を現した。足を止めて、自分たちの部屋のあたりを見上げる。

 その日は二人でのんびり過ごす。美帆の提案だった。嬉しかったが、すぐに心配にもなった。家族とでなくていいのかと何度も念を押したが、やがて私の目を見つめ返す美帆の顔が強張っていることに気がついた。私は慌てて謝り、自分もそうしたかったと言い訳をするように口早に伝えた。以来、最後の過ごし方が話題に出たことはない。

 夜風が通り抜けていく。美帆にとっては日常で、私にとっては特別だった毎日。何百何千と繰り返した日々のその最後。今夜を、そして明日を美帆と過ごせる。そう考えた途端、急に目頭がじんとして思わず息を呑んだ。

 私はなんて幸せなのだろう。

 初めて美帆と目が合った日のことを思い出す。何も特別なことなどない、どこかで聞いたことのあるような一瞬。

 高校一年の夏休み前、美術部だった私は部活終わりに忘れ物を取りに教室へ戻った。日が傾いて、廊下には薄暗い影が被さっていた。今では他に生徒がいたかどうかも覚えていない。ただあの瞬間、美帆が私の目を見ていた。

 私が教室のドアを開けたあの瞬間——




 玄関のドアを開けると、すでに部屋着に着替えた美帆がちょうどトイレに入るところだった。

「あ、おかえり!ごめんね、ちょっと着替えて待ってて。出たらすぐご飯よそうから……」

「うん、ただいま。ゆっくりやりなよ」

「えへへ」

 リビングからは肉を焼いた香ばしい匂いが漂っていて、口内にじわりと唾液が染み出した。私の帰りに合わせて焼いてくれたらしい。

「ステーキ?」

 トイレのドア越しに美帆に尋ねると、

「たくさん売ってたから」

 店員さんも分かってるよね、といたずらっぽく笑った。

 私はドアに向かって、

「ねえ、あのこと覚えてる?」

 聞きながら、トイレの向かいの壁に背を預けた。くぐもった声が「どれ?」とドア越しに尋ね返す。

「高校の頃さ、夕方に私が教室に戻ったら」

「ああ、あれでしょ。私が振られて絶望してたやつ。覚えてるよ、今でも時々思い出すもん」

「そうなの?」

「だってさ、あの時上手くいってたら私たち多分こんなに仲良くならなかったじゃん。私を振った男子、そこだけは評価してやる」

「……そっか」

 急にどうした?と美帆が不思議そうな、それでいて穏やかな声で言う。

「不安になった?」

「……ごめん」

 つかの間の沈黙。それから水を流す音が響いたと思うと、ドアがゆっくりと開けられた。

「あ、やっぱり着替えてない」

 怒ったように眉根を顰めて美帆が私を見上げていた。美帆は私より少しだけ背が低い。もう、とひとつため息をついて私の腕をとると、微笑んで振り返る。

「まあいいや、ご飯食べよ。冷めちゃう」

「うん」

 テーブルには、すでにステーキとサラダ、そしてじゃがいものポタージュが並んでいた。それは、私たちが一方の誕生日に作る定番のメニューだった。それともう一つ、どちらかにいいことがあった日にも。二人で喜びを分け合いたい日にも。

 キッチンへ向かった美帆の背を椅子を引きつつじっと見つめていると、美帆が炊飯器の蓋を開けながら、

「幸せじゃない?今」

「え……」

 下ろそうとしていた腰が空中で止まった。美帆の背中へ再び視線を向ける。美帆はしゃもじで湯気を立てるご飯を混ぜている。

「私は幸せ。親友と最後まで仲良くいられて、美味しいごはんを食べれて。あれから一年、私はずっと幸せだな、こういう人生で良かったなって思ってた」

 両手に二人分の茶碗を持って美帆が戻ってきた。

佑香ゆうかは?」

 私の名を呼んで笑う美帆に、私はすぐには言葉を返せなかった。椅子に深く腰掛け、ゆっくり美帆の声を胸に溶かし込んで、ようやく小さく頷けた。ただ、これが恋でなくてよかったと思った。もしもこれが恋だったなら、この最後の晩餐を涙で邪魔しただろうから。

 思い出が蘇る。いつも同じトーストの朝食。初めて買った福袋。温泉旅行やキャンプ。大学の課題に就活の面接の練習。内見に行ったボロアパート。講義室の硬い椅子。お揃いのヘアアクセ。学校帰りのコンビニ。放課後の教室。

 そのどれにもあった、そして今も目の前にある美帆の笑顔。

「あ……」

 そうだった。当たり前のこと過ぎて、意識するのも何年ぶりになるだろう。私の夢は、望みはもうずっと叶っている。あまりにも私が満たされていたばかりに、願ったことの意味すらほとんど無くなっていた。

 でも。

 それなら、“普通の”毎日を愛する美帆は、よりにもよって最後にそれを乱そうとする私を嫌がるだろうか。しかしふと頭に浮かんだわがままは、痛いほどに胸を圧迫している。いや、これはずっとどこかで夢に見ていた私の本懐だったはずだ。今なら言えると気付いただけで。

 何度も聞いてきた、一つとして同じではない美帆の笑い声が脳裏を過ぎ去る。

 それでも、今の私には。微笑む美帆に見つめられた今の私には、その笑顔を信じるしかなかった。今を幸せだと言ってくれた美帆を信じたかった。

「何?」

 黙り込んだ私を怪訝に思ってか、茶碗を置いた美帆がテーブルを回り込んでくる。これ以上沈黙で心配させてはならないと、私は微かに震える口を開く。

「こんなの言うと変かもだけどさ、明日……」

 私の表情に浮かぶ恐れを見てとったのだろう、美帆の顔が身構えるように硬くなった。いけない。そんな顔をさせてはならない。

 私は努めて口角を上げる。何気ないふうを装って。上手く笑えているだろうか。笑ってくれるだろうか……引かないだろうか。

「明日は、その……」

「……うん」

 少し俯き、息を整える。美帆は静かに待ってくれている。落ち着いた。大丈夫。もう一度、笑顔を意識して顔を上げる。

 美帆と目が合う。

「明日……その時は、二人でベッドの上で寝転んでたい」

 正真正銘、私の最後のわがまま。多分、大学を決めた時以来の最大の覚悟。それを聞いて、美帆は元から大きな目をさらに大きくして、「それだけ?」と漏らすように言った。

 そしてその顔を恐る恐る覗き込んでいる私をじっと見下ろすと、一呼吸おいて、丸かった目をくしゃりと細めて。堪えきれないとばかりに背を折って。

 笑った。

 いつも通りの、高く抜けるような、歌うような声を上げて、大笑いした。そのまま美帆は腹を抑えるようにしばらくうずくまると、まだ収まらない肩の震えを隠さずにゆっくり私を見上げた。

 その顔を見て、ようやく私の頬から力が抜けて自然と弛んだ。この人でよかった。心の底からと言う言葉では足りない、全身を包み込むような確信のなかで、私は美帆に手を差し出した。

 私に支えられて美帆が立ち上がる。美帆は目の端に馴染んだ涙を指で擦ると、もう一度私に笑顔を向けた。

「そういうの、大好き」




 高校一年の夏休み前、私は放課後の教室のドアを開けた。

 そこには一人の女子生徒がいたが、様子がおかしいことはすぐに気がついた。私を見たその目に光るものがあったからだ。

 その瞬間自分を貫いた衝動のまま、何も考えずに駆け寄ってカバンの中からタオルを引っ張り出すと、その生徒の前にぐいと差し出した。だが、慌てたせいで、タオルと一緒に飛び出した私物が大きな音とともに二人の足元に散乱した。

 その中に、当時部活で使っていた色鉛筆一式もあった。メモ帳や他の文房具の上に散らばった場違いな色彩に、私は頬が熱くなるのを感じた。

 しかし立ち尽くす私をよそに、その生徒はそっとしゃがみ込むと色鉛筆を一本一本集め始めた。

「ご、ごめん!」

 急いで一緒に拾い始めた私に、彼女は囁くように言った。

「ありがとね」

 はっとしてその顔を見た。

 微笑んでいた。涙の跡を隠すことすらせず。

 この時灯った小さな願いは、祈りとなって私の人生を輝かせた。あなたがくれたその光はきっと世界の終わりや過去すら超えて遠い彼方へ届く。願わくば、私の受け取った温もりをあなたも感じてくれますように。世界にあなたの優しさが刻み込まれますように。

 美帆。

 あなたが、どうか幸せになりますように。

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シンキング・デイズ 雨野榴 @tellurium

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