【KAC20242】菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
一帆
菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
「家を出たいんだけど……」と大好きな人に言われたら、あなたならどう答える?
私は、一度目は、「あんたが、一人で暮らしていけるとは、到底、思えない」とせせら笑ってその言葉を無視した。
二度目は、「一人で暮らしていくってどういうことかわかってんの?? 無責任なことは言わないで」と怒って、しばらくの間その話題に触れられないくらい怒鳴り散らした。
三度目は、「私のことが嫌いになったのね。だから、出ていくっていうんだわ」と泣いて、泣いて、泣きまくった。
四度目は、「そんなにいうなら、雪が溶けたら、不動産屋さんに行って、一度、相談してみたらどうかな」と、物分かりのいい姉を演じた。
そして、雪が溶けだしたある日、私と弟は、近くにある小さな不動産屋さんに出かけた。
「本日、内見できる物件がいくつかありますから、とりあえず、見て、それから考えるというのはどうでしょう?」と、対応してくれた女性ー山野さんに言われて、物件を内見することになった。
◇
「この物件って室内の写真がないでしょ? それはね、空きがでたらすぐ借り手がつくから、我々も写真をとる暇がないというかなんというか……」
山野さんは、室内写真がない理由を誇らしげにしゃべる。
「まあ、とにかくとても人気が高いんです。まだ築2年ですから、内装も水回りも問題ないと思います。どうでしょう?」
「うん、まあ、そうね……。シュウはどう思う?」
私は物分かりの言い姉の仮面をかぶって、当たり障りなく答えた。
「うん。部屋の中、明るいね」
「この部屋は、まわりに建物がありませんから、6階だというのに見晴らしがいいんです」と、山野さんが窓に近寄った。確かに、カーテンのない窓の向こうは空だ。青い空が広がっている。
「とても日当たりがいいのもオススメポイントです。また、歩いて15分のところに駅があって、病院もスーパーもコンビニも近くにあります。生活環境としては便利な方だと思いますよ」と山野さんが窓を開ける。穏やかな風が入り込む。その風をうけたせいか、弟の顔つきが少しだけ上気したような顔つきになる。
「……………ここにベッドを置くのはどうかなぁ。姉ちゃん」
弟が私のそばを離れて、山野さんがいる部屋で床を指さした。
「そんな窓のそばにベッドを置いたら、冷気がきて体が固まるわよ」
今日は物分かりのいい姉を演じようと思っていたのに、思わず、否定する言葉が口からこぼれた。楽しそうに部屋の中を見ている弟が気に入らなくて、ディスる姉なんてないよなぁって思うけど、仕方ないじゃん。許してよと心の中で詫びる。弟が少しだけ悲しげな顔をして、窓の外を見る。
「そうかなぁ……。ここにベッドをおいて寝転がったら、空がよく見えるような気がするんだけどなぁ……」
「まあ、そうかもしれないけど、あんた寒がりじゃん?」
「そうだけどさぁ」
「それに、今日は天気がいいから、この部屋もポカポカしているだけで、こんなに窓があったら寒いかもよ?」
「ここの暖房はガスファンヒーターがついているので、冬でもあったかで問題ないと思います!」と、山野さんが私と弟の会話に入り込む。
(いやいやいや。そういう話をしているんじゃない)
私は、物分かりのいい姉の仮面をかぶりなおすと、「…………、あの、台所とか洗面所とか見せてもらえます?」と話題をかえた。
お風呂はちょっと広めで、弟が「おっ。すげっ」っと声をあげたのを私は無視したのに、「このお風呂、実は自動でお湯をはることができるんです」と山野さんが親切に教えてくれた。それをきっかけに、弟は山野さんと話し出した。
もう、私は蚊帳の外。
弟が「この家に決めた」と言い出すのを、複雑な気持ちで待つしかない。
私は、さっき山野さんがあけた窓に近づいて、外を見た。
そういえば、今日は、季節を七十二に分けた七十二候でいうところの菜虫化蝶。冬の寒さを耐えたさなぎが蝶に生まれ変わり、空を自由に飛ぶ季節。
北の国のこの地では、まだ菜の花は咲いていないけれど、少しずつ、春の風がふいている。うん。独りぼっちになった私にも春はきっと優しいはずだ。
「……、姉ちゃん、僕、ここに決めたよ」
そういわれたときに、「わかった」って心から笑って言ってあげたいな……。
おしまい
。
【KAC20242】菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 一帆 @kazuho21
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