隠れ家選びは慎重に
佐倉伸哉
本編
「如何ですか、こちらの物件は」
ニコニコと満面の笑みを浮かべながら揉み手をするのは、京で呉服問屋を営む“
「やや市中から若干離れておりますが、その分騒がしさとは無縁で閑静なところです。築年数が経過しておりますので家賃も相場と比べて幾分お安いです」
立て板に水を流すようにスラスラと述べる治郎兵衛。流石は
部屋の広さや間取りなど、室内を確認する喜兵衛太。
満足そうに頷く喜兵衛太へ、若干表情を曇らせた治郎兵衛が「ただ……」と憚るように言う。
「……近くに“
治郎兵衛の一言に、喜兵衛太の顔色が一変する。
「
つい先程まで前向きだったのとは打って変わり、即答する喜兵衛太。その反応に“
米問屋の跡取りというのは
慶長八年〈一六〇三年〉に開かれた徳川幕府は三百年以上が経過し、体制や制度が金属疲労が生じていた。そこへ追い討ちをかけるように
こうした状況の中、国の舵取りの新たな形を目指す“志士”と呼ばれる者が現れた。幕府の政に登用されない“外様”と呼ばれる薩摩藩や土佐藩の出身者が大半を占めたが、その中でも特に多かったのは長州藩だった。長州藩は当時革新的な思想や考え方を持っていた吉田
しかし、長州藩や一部の公家があまりに過激な思想を抱いていた事に危機感を募らせた
喜兵衛太は同士達の隠れ家を確保する重大な密命を帯び、町民のフリをして上洛。協力者である治郎兵衛と共に物件を探し、現在に至る。
治郎兵衛が口にした“壬生狼”とは、都の治安維持を任された京都守護職から活動を委任された実働部隊“新撰組”の蔑称で、
新撰組に見つかる前に喜兵衛太はいそいそとその場から退散した。暫くは尾行されてないか周囲に気を配りながら次の物件へ向かった。
次に案内された物件は東寺の近くにある古びた一軒家だ。元々は農家だったみたいで敷地内には農具を保管する為に使っていた納屋もある。辺りは田畑が広がり、見知らぬ人が居ればすぐに分かるという点では潜伏先選びで好条件と言えよう。
「“壬生狼”もこの辺りは縄張りの外らしく、見かける事は
治郎兵衛の説明に、うんうんと
これなら複数人が常時滞在出来る上に、万一新撰組など追手が踏み込まれても身を伏せる箇所も複数の出入り口から逃れる事も出来る。理想的な潜伏先と言える。
「ただ……」
暫し言い淀んだ治郎兵衛は、やがて観念したように小さな声で理由を明かす。
「……こちらの家、前の持ち主家族が
「治郎兵衛。死人が出た家に住みたいと思うか?」
喜兵衛太の問いに、力なく「いえ……」と答える。
現代風に言えば“事故物件”で気にしない人は別に構わないかも知れないが、
断られる事は織り込み済みの治郎兵衛は何も言わず、次の場所へ案内する為に歩き出した。喜兵衛太もその後に続く。
三軒目に案内されたのは、丸太町にある小ぢんまりとした家。
「こちら、
島原とは京の都にある色街で、大坂の大町・江戸の吉原に並ぶ三大遊郭の一つに挙げられる。ある程度資金力に余裕のある男性が妻帯者が
家の造りこそ小さいものの、庭の植木や間取りなどは前の持ち主の
繁華街に近いのもあって人の行き来は絶えないが、人目がある分だけ捕縛者などが居れば逆に目立つ。京の拠点にするにもってこい条件が揃っている。
「土地柄、ちと家賃は高くなりますが、志士様が京で潜伏するにはこれ以上ない物件かと」
治郎兵衛の目がキラリと光る。どうやら前の二軒は捨て駒で、今紹介している物件こそ本命だったみたいだ。
確かに家賃は予算より少し上だが、立地や間取りなどを考慮すればそれだけ払うだけの価値はある。最悪、幹部の滞在先にも転用出来る。国許へ帰って上役と相談だ。
「……分かった。こちらの物件にしよう」
「ありがとうございます。喜兵衛太様もきっと気に入って下さると信じておりました。さて、手付金の方ですが……」
謝辞を述べながらも早速お金の話に入る治郎兵衛。その抜け目の無さに喜兵衛太も苦笑いするしかなかった。
喜兵衛太は治郎兵衛の提示した手付金を支払い、国許へ戻って行った。重要な任務を無事に果たせた治郎兵衛は達成感からか意気揚々、足取りも軽かった。
その翌日。治郎兵衛は店を部下に任せると、フラリと出掛けた。行先は――壬生。しかも、辿り着いた先は新撰組の屯所だ。
「毎度お世話になっております、周防屋の治郎兵衛にございます。山崎様はいらっしゃいますでしょうか?」
門前の衛兵に用向きを伝えると、無言で中に入るよう促される。治郎兵衛は建屋の中には入らず、敷地内の修練場の裏手へ向かう。修練場では激しい稽古が行われており、威勢のいい掛け声や怒声に竹刀の音が鳴り響く。
敷地内の木に
「長州の志士へ丸太町の別邸を紹介しました。あとは、いつものように」
それだけ告げると、足元に何かが放られる音がした。目線を向けると、小判が二枚地面に落ちている。
拾っている内に、いつの間にか人の気配は消えていた。小判についた砂を払い、袖に仕舞う治郎兵衛。
周防屋の治郎兵衛は長州藩と繋がりを持っているように装い、その実は新撰組と裏で通ずる“二重
何事も無かった風に新撰組の屯所から出て行く治郎兵衛。別に
(尊王だの攘夷だのに
八月十八日の政変以降、長州の印象は一気に悪くなった。その余波を受け、治郎兵衛の商売も客足が明らかに
(世直しか革命か、そんなの知った事か。やるならやるで勝手にやってくれ。そして、互いに食い違えろ)
袖に仕舞った小判をギュッと握りながら、治郎兵衛は家路を急いだ。自分の帰りを待つ家族や部下達の元が、待っている。
隠れ家選びは慎重に 佐倉伸哉 @fourrami
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