敷居の先の異世界で転移スキルを手にしたオバサンは、現実世界での推し活を夢想する

隠井 迅

究極の二者択一

 アパートの扉を抜けると異世界であった。


 時は数刻さかのぼる。


 木内葵花(きうち・きか)・四十八歳は、国立大学の入学試験に向けて受験勉強のラスト・スパートを掛けている愛息の代わりに、下宿予定のアパートの内見の為に京都を訪れていた。

 葵花の末の息子は、既に、とある私立大学に合格していたのだが、国公立の合格が決まってから下宿先を探す場合、優良物件争奪戦では遅きに失してしまう為、国立の入試前に、京都の伏見に建っているアパートをキープしておく事にしたのである。


 不動産屋に立ち寄って、アパートの鍵を受け取った葵花は、内見前に、伏見稲荷大社でお詣りを済ませ、その後、大社すぐ側のアパートの一室のドアを開け、外と内との境界を跨いだ。

 敷居を越えた瞬間、頭が激しく揺り動かされ、意識が飛んでしまい、頭がはっきりした時、葵花の眼前に広がっていたのは、六畳一間の和室ではなく、果てが見えない程の広大な空間で、こと今に至っている次第なのである。


 そして――

 現実ではあり得ない世界を前に、呆然と立ち竦んでいる葵花の脳内に、誰とは知れぬ声が響いてきた。


「ヒトのコよ」

「えっ! いったい誰?」

「ワレは〈ウカノミタマ〉であぁぁぁる」

「ウカ様って、もしかして、お稲荷様?」

「左様。信心深き者よ、汝が心から望んでいる事を、即座に二つ挙げよ」

「えっと、えっと……」

「考える時間などないぞ。心に浮かんだ事を、そのまま口にすればよいのだ」

「息子の大学合格と、空間転移です」


「ヨカロウ。幸運にも神の世界に足を踏み入れた汝に、その何れか一つの願いを叶えて進ぜよう」

「本当ですかっ!」 

「選べ」

「で、でも二つに一つって……」

「返答を待てるのは、汝の心臓が六十回脈打つ間であぁぁぁる」

「一分もないじゃない」

 悩んでいる間に、葵花の鼓動は早鐘を撞き出し、残り数打となったところで、葵花は息子がこう繰り返し述べていた事を思い出した。


               *


「母さんの趣味の一つは神社仏閣巡りだけれど、絶対に僕の合格だけは祈らないで欲しいんだ」

「どうして?」

「僕はさ、自分の合格は、神様のお陰じゃなくって、己の努力と、その結果として獲得した学力によって掴み取りたいって考えているからだよ」


               *


 親としては、息子の第一志望合格を神に縋り付いてでも叶えたい、と思っているのだが、愛息の信念が頭に浮かんだ葵花は、目下、現在進行形で机に向かっている三男の頑張りを信じる事にしたのであった。


「ウカノミタマノカミ様。私は、息子が実力で国立大学に合格する事を信じます。なので、私には、空間転移の力の方を授けてくだされば、と存じます」

「ヨカロウ。日本全国には、ワレを主祭神とする神社が約三千社ある。伏見稲荷大社の全ての鳥居を潜り抜けながら、転移先を強く念じれば、汝は、この伏見から別の地の稲荷神社に移動する事ができよう」


 葵花の最大の趣味は、アーティストのライヴ参加で、自分が住んでいる地で催されるライヴのみならず、可能ならば、ライヴ・ツアーを〈全通〉したい、と常に望んでいた。


 やがて、葵花の背後に浮かび上がった扉形の穴を抜けると、そこは、現実世界の京都であった。


「き、狐に化かされた分けじゃないわよね?」

 

 現実では、空間転移なんてあり得ない。で、でも……、一刻も早く試してみたい。


 葵花は、大急ぎで、アパートから五分の場所に鎮座している伏見稲荷大社に向かった。

「あっ!」


 伏見稲荷大社の鳥居は「千本鳥居」、その全てを潜るには約二時間を要する。

 京都から、葵花が住んでいる静岡までの所要時間は、新幹線の「ひかり」で約一時間半、千本鳥居を踏破している間に静岡に戻れてしまう。

 

「でも、北海道や九州への遠征では使えそうね」


 そう独り言ちながら、葵花は、神頼みではなく、実力による息子の京都の大学への入学を信じつつ、次の夏に開催予定の〈推し〉のアーティストの全国ツアーを、タイパ・コスパよく全通する事を夢見るのであった。

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敷居の先の異世界で転移スキルを手にしたオバサンは、現実世界での推し活を夢想する 隠井 迅 @kraijean

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